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縁起と四諦:リスクマネジメント視点で仏教を説明します③

ひとたびリスクが顕現してしまうと
それを元の状態に戻すためには莫大なコストがかかる。
そしてリスクが顕現する前と完全に同じ状態には戻すことは出来ない。

このnoteの対象読者は、上記のリスク管理の要諦を認識していて、何らかのプロジェクトマネジメント、システムの設計開発、リスクマネジメントや防災に関する業務に従事していて、因果関係と相関関係の違いを理解しているビジネスパーソンやエンジニアです。
そして、このnoteの目的は、これらの人たちに向けて、厳しい人生の状況は仏教で変えることができるということを、可能な限り現代のビジネス用語で説明することです。

とは言うものの、今回は
阿含経典基準での第2話の回答
となっており、本文においては「ビジネス用語で語る」という目標を達成できていません。

でも、せめて、前書きのこの部分だけは読んで帰ってもらいたい。
このnoteの最後の方にお釈迦様が定めた修行法の名前を並べています。
これは、このnoteで説明している問題を解決するためにお釈迦様が編み出した修行法の一覧です。
ところが現代、お釈迦様の仏教には教義教学が無いと堂々と語る日本の仏教学者がいます。
名前が付いた修行法がお釈迦様の言行録である阿含経典に記載されているのにも関わらず、教義教学が無いと言う
システム開発の現場で例えるならば、企業の業務目標、プロジェクトのゴールが無く、何をするためのシステムであるか誰もわからないし決まっていないのに、プログラムのコーディングをしなければならない状況。
教義教学が無いのに修行法が有るというのは、まさに、こういうことです。
そんな馬鹿なことがあり得るであろうか?
というより、そんなことも理解できないなんて、お前ら、社会人として、ちゃんと仕事したことあるか?と学者連中を問い詰めたいところではあるけれど、もしかしたら我々一般人が普通に考える教義教学の概念と、日本の仏教学者の狭い世界だけに通じる教義教学の概念が異なる可能性はゼロではない。
たとえそうであっても、我々が狭い日本の仏教学者業界の都合に合わせて生きる必要は無く、我々は我々の視点で考えればよい。
というわけで、このnoteは「解決したい課題があって、その課題を説明する教義教学があって、そのための修行法があるよ」とお釈迦様はちゃんと言っており、これは現代の我々の感覚で言えば、人生のリスクマネジメント、人生の防災の具体的手段の提示なのだ、と書いたつもりです。

ここまで読んで、興味が出てきたら、ぜひ読み進めてください。

さて、このnoteで使用している事例は、取り返しのつかないリスクが顕現した状態です。
しかもそのリスクは、あなたの意志では絶対に制御できない部類です。
このリスクを仏教的観点から封じ込めをしたい。

第2回では、その辺の自称仏教者やスピ系の人らの言うことを信じても、リスクの封じ込めは不可能であると述べました。

この第3回の結論は「阿含経典には「リスクが顕現する前に、リスクの根源そのものを消滅させよ、その方法はこれである」と説いている」です。阿含経典とはお釈迦様自身が語ったことが収録された言行録である仏教経典です。
そして、このお釈迦様の考え方を現実に落とし込むと、仏教の実践とは、人生の防災、人生のリスクマネジメントであることが理解できます。

本文中に頻出する仏教用語である「縁起」と「四諦したい」の定義の確認が必要であれば第1回目を参照ください

阿含経典とは何?から知りたい人は、こちらを参照ください。


考察事例:仕事中に子供が事故って死にました 

事例

このnoteでは、下記の事例を中心に説明を進めていきます。

幼い我が子が事故で死にました。
私が仕事中、子供を保育園に預けていたときのことです。
子供たちの散歩中の出来事で、こちらは交通法規上全く問題なく、歩道を歩行していたところ、対向車線側で近所の子供の飛び出しがあり、それを避けようとしたトラックの運転手が急ハンドルを切った所で車両のコントロールを失い、そのまま、反対車線にいたこちらの子供たちの列に突っ込みました。
トラックと衝突した我が子は即死。
事故対応をした警察には子供の遺体は見ないほうが良いと言われました。
さらにトラックの後ろを走行していた自動車も急な出来事で対応できず、自動車の制御を失って、飛び出しをした子供と衝突し、その子供も即死しました。

完全に作り話の事例です。

状況を整理すると
主語は、仕事中で現場にいなかったあなたです。
飛び出した子供が悪いといえば悪いのだが、この子供は何も考えていない。
トラックの運転手に、子供を轢き殺したいという欲望は無い。
保育園の保母さんたちも、事故に見せかけた子供の殺害を企図していない。
子供たちも車に轢かれて死にたいとは思っていない。
仕事中のあなたも、子供が事故で死ねば良いとは思っていない。
つまり、誰も意図していない大事故です。

この事故を未然に防ぐこと、これが目標です。

カルマが原因

事件の原因は悪因・悪業・カルマがあるからです。煩悩ではありません。

まず上位概念としてカルマがあります。
カルマが人間の精神作用として現実世界に現れる時は、執着とか物欲とか性欲等々の世間一般でいうところの「煩悩」になる。
またカルマは本人の意思と反する強制イベントを発生させる力があり、それが現実世界に現れると、例えば「自分が事故死する」「自分の子供が若くして事故死する」「天災地変に巻き込まれてすべてを失う」ということも発生する。

だから、煩悩を無くすことが仏教の目標という人がいるけれども、煩悩だけではダメで、その上位概念のカルマそのものを消滅させる必要があります。

縁起論という基本法則が仏教にあります。

Aが有るからBが発生する
Aが無ければBは発生しない

このnoteの事例でいうと、
①「幼い子供を事故で失う」というカルマ・運命の星を持った男女が、そのカルマの存在が縁となって出会って結婚する。
当人同時は自分たちの意志で結婚したと言うであろうが、カルマが二人の運命の出会いを発生させ、カルマが意志の奥の奥、魂レベルで作用して、当人たちのその後の意思決定に影響を与える。

②「幼い子供を事故で失う」という運命を持った両親であるからこそ、その縁によって「幼い時期に事故死する」というカルマ・運命の星を魂に宿した子供が生まれてくる。
もちろん、当人たちは裏側にそんな作用があることは知らない。

③そしてあるとき、何かの条件が合致して
「他者を死傷させるカルマ・運命の星」を持った子供
「他者を死傷させるカルマ・運命の星」を持った運転手
「事故死するカルマ・運命の星」を持った子供
というメンバーが一堂に会するという縁が生まれ、悲劇的な事件・事故が発生してしまう。
親であるあなたは「幼い子供を失って苦しむ」というカルマ・運命を持っているので、事件事故を知り、永年に渡って苦しみ続ける。

事例の事件には、殺害したい、殺害されたいという人間の意志、煩悩は存在しない。事件はカルマという人間の目には見えない得体のしれない力によって引き起こされている。
「仏教の縁起論、因縁因果の道理を知れば救われる」と甘っちょろい事を言う自称仏教者がいるけれども、この事例の事件がカルマの法則、縁起論にもとづくものであると事前に知っていたからといって事件事故を防ぐことはできない。
ましてや、事例の事故で死ぬのは自分ではなく、自分の子供なのだから、自分の知識の有無は事件事故に全く関係が無い。

もうすでに取り返しのつかない事件事故が発生した後で、苦しい心の状態を何とかしたいという希望があるならば、スピ系の人たちの言うような瞑想によって前向きに生きられるようになるかもしれない。

でも目指すべきは、リスクが顕現する前、事件事故が発生するという現象そのものを防ぐという人生のリスクマネジメント、人生の防災です。

縁起論・四諦・修行法

そこでお釈迦様は「四諦」と呼ばれる「解決方針」「裏付け理論」を「プレゼン」として提示したわけです。

苦:我が子が事故死するのは、残された親にとって「苦」である
集:誰にも制御できない「カルマ」があって、我が子を失う事故が発生する
滅:事故が発生する前に、この「カルマ」を滅する必要がある
道:そのための具体的な修行法がある

四諦の現実への落とし込み

これは縁起論で言うところの、

カルマが存在するから、事件事故が発生する
カルマが存在しなければ、事件事故は発生しない

縁起の現実への落とし込み

「カルマが存在しなければ、事件事故は発生しない」と言っても、実際にはカルマは存在するので、「事件事故が発生する前に、カルマを消滅させるための対処をする」が現実的な解となります。

そして「カルマを消滅させるための修行法がある」と説いています。
ここでブッダの修行法とは「八正道」であると自信満々に言い始める人がいたら、その人は偽物です。誤りではないけれど、大事なことを理解していない。

阿含経典において、ブッダが提示している修行法は、大きく3つ。

七科三十七道品しちかさんじゅうしちどうほん(三十七菩提分法とも言う)
・八法十六法
三善根さんぜんこん(阿含宗では三福道と呼んでいる)

八正道というのは、七科三十七道品という修行科目の1科目にすぎないので、ブッダの修行法として述べるならば、まずは七科三十七道品の存在を説明すべきです。
そのうえで「自分が説明できるのは八正道だけです、ごめんね!」
と言うべきでしょう。

【七科三十七道品】
・四念処
・四正勤
・四神足
・五根
・五力
・七覚支
・八正道
合計7科目の修行法がある

二昔前くらいまでは、学者さん系の人などでも七科三十七道品を述べる人がいたようだけれど、今は南伝テーラワーダ系の人たちが八正道だけをブッダの修行法として語っているみたいで(呼吸法も説明しているかもしれないけど)、多くの人がその情報に騙されて信じているのではなかろうか?それを真に受けてしまったのか、すでに故人となったお釈迦様の生まれ変わりを僭称する霊言系エセ宗教者も八正道を語る始末です。

つづく


過去のnote

八法十六法については、こちら

三善根さんぜんこんについては、こちら
ただし2024年9月時点で未完成

七科三十七道品のうち五根法について


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