おはなし『先生と、』 寿司屋にて@2010 #1
若旦那、ご無沙汰しております。いや、もう若旦那じゃないのか、立派な大将になられて。先代は職人としてもたいそう立派でしたけれども、ちゃあんと若旦那を育てるっていう、もっと難しい仕事まで立派に成し遂げられたわけですねぇ、見上げたもんです。
え? いや、わたくしはとっくに隠居の身ですよ、もう教職から離れてそうですね、かれこれ八年・・いやいや、十年ちかく経ちますか、最近はそんな数も数えられなくて、困りますね。まばたきをしている間に一年が過ぎるような心持です。年をとると、本当に時間の感覚が変わってくると申しますが。いやぁ、まだ、その自覚があるうちが華かもしれませんね。
せんにここへお邪魔した時は、そうでした、若旦那は新橋で修業しておいでだった、だからこんなに長くお目にかからなかったんですね。
えぇ、今日は待ち合わせでね、相手は女性ですよ、ふふふ、楽しみでしょう? わたくしも今日の約束を指折り数えて待ってましたよ、遠足前の小学生みたいにね。あぁ、これは内緒にしてくださいよ。えぇ、おっつけみえるでしょう。
あぁ、大将、年寄りが久しぶりに奮発するんですから、少しぐらいは見栄張らせてくださいよ、全部任せますから頼みます。わたくしよりもうんと若い女性ですから、年寄りに気を使った分量なんぞやめてくださいね。
そうそう赤ん坊連れなんです、こちらのこあがりを拝借したほうがいいですかね・・・え?あぁ、ベビーカー、乳母車ですか、あぁなるほど、いつものカウンターの方が都合がいいわけですか、ここにこうして子どもを寝かせて・・・なるほど最近は赤ん坊連れのお客も増えたんですか、昔はこういう店に赤ん坊連れで入るような無粋な客はいませんでしたけどね、あぁ、失敬、スカイツリー効果っていうんでしょう、最近は。
そういや、先代は大将が店にみえるたんびに、睨みつけておいででしたね、子どもが出入りすることにとても気を遣われてたものです。ほら、まだこんな小さい頃に、ここでトランプを使って手品をしてよく遊びましたね。・・・覚えてます? そうですか、覚えておいでですか、大将の真剣度は並みのもんじゃありませんでしたからね、トランプをひっくりかえしたり電灯にすかしたりして、カードを裏表の二枚に裂いてみようとしたこともおありでしたよね、いやいや、子どもの純粋な探究心ですよ、悪意があってのことじゃない。先代は恐縮されてましたけども、わたくしにはとてもいい時間でした。
えぇ、懐かしいと思えるのは、あったかい時間だったからですよ。
それにしても、こちらがご健在でなによりです。ここいらも、スカイツリーの建設でずいぶんと雰囲気が変わったと聞きますしね、まだできあがっちゃいませんけど、それでも人も増えたというので、わたくしも川を越えてくるのはためらっていました。えぇ、都内に渡ってくるのも久しぶりです、日頃は家のまわりとバスで駅まで移動するのが行動範囲の限界ですからね、こじんまりしたものです。それで不自由ありませんから。もっとも国府台だって十分に景色が変わりましたけれどもね、駅から我が家まで見渡せたなんて、今じゃ誰も信じやしませんよ。わたくしだって夢でも見てたんじゃあないかと思うくらいですから。
押上駅からここまで歩いてまいりましたら、町工場がずいぶんなくなりましたねぇ、もっともあのスカイツリーの場所だって、せんにはコンクリの工場でしたから、あの建物がないだけでも風景がずいぶん変わりました。橋のむこうっかわの商店街は、あらもの屋から鶏肉屋からもう、みんなまっさらで、見るかげもなくて・・・いやいや、これじゃただの年寄りの愚痴ですね。変わっていこうとする時代に文句をつけるようではいけません。
―――あぁみえました、大将、頼みますよ。えぇ、子どもを産むときれいになるって言いますからねぇ。もっとも彼女は、在学中からシャンでしたけれどもね・・・え? 死語ですか。まだ大将に通じるんだから、死語なんて言わないでくださいよ。
ともかく、シャンですよ。まぁ、最後の見栄を張らせてくださいな。
―――久しぶりですね、お元気そうで、なによりです。ところで、あぁ、なんだか緊張しますね・・・よく眠ってる!もうちょっと近くで見せてください、おぉかわいらしい、どうでしょう、目元はあなたに似て・・・いますね? この生意気そうな口元は進也似ですか。いやいや、女の子があんなに皮肉屋であっちゃいけませんよ、大丈夫です、似ている口元から同じ言葉が出てくるとは限りませんから。
さぁ、ささ、いただきましょうか、この突き出しは海苔の香りがとてもいい。それに、今日はいいコハダが入っているそうですよ。わたくしもこちらは久しぶりですから、楽しみにしていたんです。いや、まずは形ばっかりですけど、乾杯いたしましょう。授乳中のアルコールはいけないようですけど、お神酒と思ってまぁ口をつけるだけ。
・・・無事のご出産、おめでとう。奇跡が、起きましたね。なによりです。
あぁ、目ですか。えぇ、左はね、もともとよくありませんでしたが、いよいよきましてね、もうどのくらいになりますか、使わないことに決めたんですよ、はい、なんとか光がわかりますが、ものの形は、からっきしです。うまくしたもんで、勤めを終えてからの話でしたから、四月に新しくなる教科書を読む必要もありませんしね。
いやいや、手術が怖いってわけじゃないんですよ、あぁ進也がそう言いましたか? 言いそうですねぇ、子どもがやいやいと、はやすみたいに。いやいや、そんなに笑わないで下さいよ。
怖いと言うのじゃなしに・・・そうですね、なんだかこういった老体に維持費をかけるのは、もう、よしにしたいのですよ。いや、老体だから粗末にしていいというのではありません。なんというか、今は自然に枯れていくことが難しくなりましたね。悪くなったら、なったままで構わないのです。そうして世代交代できたら、なによりじゃないですか。
なにも大げさな話ではありません。こうしてお目にかかるのも今日で最後かもしれない。おいしいお寿司をいただくのも、今日で最後かもしれない。こうして町に繰り出すのだって、最後かもしれない。歳をとりますとね、日々そのように思いますよ。しかしね、
―――そうです。道を歩いていて車にはねられる確率は、万人に同じだけあるのです。何十年と同じことを申しておりますね、わたくしは。
あぁ・・・そうやって、楽しそうに笑うと、あなたは制服を着ておられた頃と変わりませんねぇ。お子さんを生む年齢になったとは思われない。
授業で? えぇ、出生率の話をしたことがありましたか、なるほど、三十代で出産するだろうという未来予想はあらかた当たっていたと。あぁ、それでも同級生の中では早い方ですか。そうでしょうね、最近では五十代での出産も話題になったと聞きます。
わたくしも生殖技術の進歩は、ある程度予想はしておりましたが、一般に、日本人の倫理観として欧米と同じようには進まないのではと考えておりました。ところが実際は技術がひとり歩きですね。歩きというより・・・ひとり猛ダッシュ、とでも申しましょうか。ものすごい勢いです。いまや、赤ん坊を「授かりもの」と考える人はごく一部の年寄りだけのようですよ。
話がとぶようですが、先日、新聞にこういった記事を書いている方がいました。『政治が変わらないとみな言うけれど、結局のところ政治家に政治を変える気がないからじゃないか?』
・・・わたくしは思うのです。法整備が現実的でないとか、生殖技術にかかわる者への倫理教育が欠けているとか、いろいろなことが言われます。どれも当たっているでしょう。しかし結局のところ、技術者が技術を追いかけることに夢中になりすぎて、無法地帯のやりたい放題の状況を変える気がないからじゃないか?と。
実際、自分が「常識の範囲」ととらえている状況を変えることには、誰でも抵抗があるものです。技術者がなにも考えていないというのではありません。かたくなに現況を変えたくないと拒んでいるのでもありません。ひとつずつ段階を踏んで状況を変えていくだけの技量がなかなかない。
なぜでしょう。情報量の多さと速さという要因もありましょう。けれど、技術を言葉にして伝える人間があまりに少ないからではないかとわたくしは思うのです。文系だ理系だとおかしな分け方をするあまり、全体を見渡せる教育者がいない、ひいては全体を見渡せる大人が育たなかった、まれにそういう者が現れると「風変りなやつ」になってしまいますからねぇ。
大げさに言えば、教育者のひとりとして、今まで来た道が正しかったのか、戸惑うことはありますよ・・・まぁ、そうは申しましても、老いぼれの雑談に、教育もなにもありませんね。
今日は別に、講義をしたいわけではないのです。その・・・一般論的な話ではなく、進也とのことを話しておかなくてはと思いましてね。大変なところ、お呼び立てしたわけです。
いやいや、ほんとうに。大げさでなく、もうお目にかかることもできないかもしれませんし、それに・・・ぼけてしまって、自分に都合のいいことだけを語るようになったら、かないませんから。
まだ頭のはっきりしているうちに・・・えぇ、これでもまだね、本人はそのつもりなんですよ。
・・・あぁ、大将、もう一本、燗をつけてもらいましょうか。これから長い話になるんでね。
進也と出会ったのは、あなたもご存じの『みんなの家』です。
話が遠回りになりますが・・・わたくしには、ひとり、それこそ「風変りな」伯父がいましてね。風来坊という言葉をそのまま形にしたような人でした。柴又の寅さんほどではありませんが・・・まぁ似たり寄ったりかもしれませんね。
わたくしの子ども時分には、その伯父は、我が家にとっては貧乏神のようなものでした・・・えぇ、要するに金の無心に来るんです、弟である、わたくしの父のところにね。しかし、本人が派手な生活を送っているようにも見えず、いつもさえない恰好で、何に用立てているのか、はじめは皆目見当がつかなかった・・・と、まぁこれはあとから母に聞いた話ですが。
その伯父が、わたくしはなぜか大好きでね。親類関係でも相性というものがありましょう? 親子や兄弟姉妹だからといって、仲がよいものだと思うのは早計です。あなたならおわかりいただけると思いますが・・・
わたくしは若い頃、特に父と折り合いがよくなかったせいか、伯父のひょうひょうとした雰囲気に触れるのが、居心地がよかった。せんにも話したことがあったかもしれませんが、わたくしの父の家系は代々医者でして、父の五人兄弟のうち四人が医者でした。つまりその伯父以外はみんなね。長男は軍医として戦死、次男は戦後に医者の不養生で死に、末の叔父は若い時分からアメリカに渡って医者になりましたから、結果として私の父が白石医院を継いだわけです。
三番目の伯父は二人の兄が若くして死んで、思うところがあったのでしょう、医者の道を選びませんでした。それでも生き物に興味があるのは家系とみえて、M大学の生物学教室に籍をおいていましてね、わたくしが生物学という道に進んだのも、この人の影響です。
ご記憶かどうかわかりませんが、先の天皇陛下はナマズの研究をしておいででした。研究には皇室の、きちんとした先生が、もちろんついていらっしゃいましたが、陛下がひそかに気に入っておられたナマズの参考書というのが・・・えぇ、伯父の著書でした。とうに絶版になっていますがね。どうも一般受けはしないようです。書き手に似て、著書まで風来坊なんですよ。
ですから子ども心に、学者ってのはもうからないもんなんだな、強く思っていました。えぇ、それは今も思ってますがね・・・ 伯父の金の使い道を知ったのは、恥ずかしながら、すっかり大人になってからでした。その頃は、父も母もお金の行方も承知していましたから、いつでも心づもりをしていたようです。
今でこそボランティア、なんて言葉できれいごとのように言いますが・・・実際、オダさんはご自分の生活をなげうってあの『家』を作りましたからね、いくら金があっても足りるということはなかった。なんとかまわっている、まわしている。オダさんはそれでも笑顔の絶えない方でした。
伯父とオダさんはね、どこで知り合ったと思います? わたくしもね、オダさんの葬儀の時にはじめて奥様から聞いたんですよ。あの年代ですから、戦友だとか、義兄弟の契りだとか、そんな話が出てくるものと思っていましたら、ねぇ?
・・・ナカヤマだそうです。えぇ、競馬場の。オダさんは『家』の立ち上げに必要な資金がどうしてもあと十万足りなくて。
当時の十万と言ったら相当なものですよ、文字通り博打ですね、一世一代の勝負に出かけたらしいんです。後にも先にも博打で稼ごうと思ったのは一回きり。馬券を買う仕組みさえわからなかったらしいですよ。それを指南したのが、伯父でね。どんなふうに調子よく吹き込んだのか、想像するだけでわたくしは笑ってしまいますね、おそらく、うんと調子のいいことを言ったんでしょう。あるいは生物学上の実地調査だとかなんとか言ったのかもしれませんね、もっともらしく。勝つ自信があったのかどうかも、そのアガリを、伯父がどうしようと思っていたのかも、今となってはわかりません。しかしオダさんは、パドックで馬を見ていた伯父の一言を信じたそうです。
「強い生き物かどうかは、目を見りゃわかる」
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