おはなし『先生と、』 寿司屋にて@2010 #2
・・・どうですか、競馬場で、その日あった男の言葉で、全財産賭ける勇気が、あなたにはおありですか。
わたくしは、ある意味、オダさんを尊敬しますね。信じると決めたからには信じるという漢気が、あのやわらかい笑顔の中にあるということにね。
競馬に当たったのは偶然でしょう。しかし、そこから二人の縁が始まった。オダさんは一度きりと決めていたので、伯父が博打で手にしてくるなら金は受け取れない、とそう言ったそうです。だから伯父は、いつでも正直にこれは弟に借りてきた金だと、話していたようですよ。いや、別にそこらへんはうまく嘘をついてもよかったんじゃないかとは思いますが。父や母もオダさんからの礼状で金の行方を知ったと、あとになって知りました。
・・・大将、そろそろお冷をいただきましょうか。肝心な話ができなくなりそうだ。
家内は、当時は決して一般的な病名ではありませんでしたが、「不育症」でした。妊娠はするものの、赤ん坊が産み月まで育たない、という症状です。最近では不妊治療という発想自体が非常に一般的になりましたから、よく知られた病名と言えましょう。ともかく当時は、原因がわからないが、という説明で・・・医者も説明に苦慮しているのが、痛いほどわかりました。二度流産し、三度目は、死産でした。
あの、三度目は・・・三度目の正直という期待もありましたし、十分に腹回りも大きくなった臨月までの時間が・・・おそらく家内の、もっとも満ち足りた時だったでしょう。
前時代的だと思われるかもしれませんが、後継ぎが産めないのであれば離縁、と言われる風潮はまだありました。わたくしの両親は、同情こそすれそういったことは一切申しませんでしたが、あるいは何も口にしないことが、家内には重荷だったのかもしれません。家内の縁者には離縁して信州に戻るよう強く勧める者もいたようです。本人は口にこそしませんでしたが、それを考えてはいたのでしょう。
いっぽうで「試験管ベビー」という言葉が、衝撃的に現れた時代でもありました。それは「受精という過程を試験管中で人工的に手助けする」操作を意味するものでしたが、家内にとっては、別の響きに聞こえたのでしょう。そうです、人工子宮はいまだに性能としては開発途上のようですが、わたしの代わりに赤ちゃんを育ててくれる装置があるらしいと言い始めました。わたくしは・・・言葉に詰まりました。これをただ、否定していいのかと。その時点で、家内が少しずつ病んでいることに、気づくべきだったのかもしれないと、今でも思います。
いや・・・気づいていたのでしょう、わたくしは、しかし、認めたくはなかった。
それまで何十人という学生たちに、生物学を教えてきた者として、たったひとりの、目の前にいる女に、正しい科学的知識を伝えられずにいる自分を、認めたくなかったのです。
だからはじめ、近所にできた『みんなの家』が、公表こそしないけれど養子縁組できる夫婦を探していると、家内が聞きつけてきた時・・・こういう情報は公表しないからこそ、案外はやく流れるものだと、その時強く思いました。家にこもりがちだった家内に、誰が情報を持ち込んだのかはわかりません。ひそかに、その者を恨んだこともあります。
その頃わたくしは三十路を過ぎていましたが、家内はまだ二十代でした。今なら、その年齢で、いわゆる不妊治療をあきらめるなど、考えられないでしょう? わたくしたちに限って言えば、妊娠しないことに悩んだのではなく、子が育たないことに悩んだのです。妊娠出産は、基本的に女性の負担ですが、わたくしたちには、それが一層、偏ったものでした。これ以上、家内にだけ負担をかけることを・・・ 気持ちの負担を含めてですが、私は望みませんでした。
しかし、だからといって、養子縁組という選択を・・・他人の子を右から左に受け入れることを、あっさりと受け入れることはできるとは、思えませんでした。わたくしはなるべく『家』の話題にふれないようにしました。
わたくしが、その家に近づきたくなかったもうひとつの理由は・・・自分を抑えきれなくなることが怖かったからです。わたくしたち夫婦は、子どもが育たないことで悶々としておりました。世の中にはそれ以前に、子を成すことができない夫婦がたくさんいることも知っています。子は・・・人と、人とが、男と、女が、触れ合ってなすものですから、非常に繊細な悩みがたくさんあることも、想像がつくでしょう。ふたりだけで・・・いえ、相手に伝えることもできずに、ひとりで、抱え込む問題もたくさんありましょう。
しかし、どうでしょう。『みんなの家』には、奇跡の中で生まれた子どもたちが捨てられているのですよ。いえ、この表現がよろしくないことは存じています、それぞれの子がそれぞれの事情を抱えていた、しかし、当時のわたくしにはそれを冷静に受け入れられるだけの度量はなかった。冷静に子どもと向き合うより先に、その親たちへの怒りを、どうしようもない怒りを、抑えきれる自信がなかったのです。
しかし、話だけでも聞いてみようと繰り返す家内の気持ちも、わからなくもありませんでした。我が子をなすことができない家内の焦りも汲んでやりたい。
揺れました。
勤めのある日は、考えないようにしました。
そして、日曜のたびに悩みました。具合が悪いからと言ったり、あるいは学校行事があるなどと言って、外出したこともあります。家内にはすまない、と言いながら、日を置けば置くほどわたくしの気持ちは沈んでいきました。
・・・なんと言いましょうか、気持ちが沈む時、ここかな、という底まで沈みきると、ようやく立ち直れる時がありますね。そういう底が、まるで見えない沈み方でした。「先の見えないトンネル」なんて言い方もしますが、ここがトンネルだとわかっているだけマシだと思いました。底なし沼に身が落ちていくような心持です。今いるここが、沼なのか空なのかもわからない。
今でも、あの頃のわたくしの授業を受けていた学生には詫びたい気持ちです。変わらない授業をしていたつもりでしたが・・・この上なく、暗いものだったでしょうね。あるいは最近のように、メンタルヘルスなどという観念があったとしたら、まず間違いなく私自身にうつ症状の診断が下されたことでしょう。
・・・あぁ、せっかくのお吸いが冷めてしまいますよ、いただきましょうか。
そんなある日、伯父がふらりとわたくしのところに立ち寄りまして、散歩に行くぞと言いました。「行こうか」とか、「行かないか?」とか、そんな誘い方じゃありません。聡子さんもほら、支度して、とね。わたくしにも、家内にも、有無を言わさずに。
行き先は案の定、オダさんのところでした。『家』に着くと、伯父は少し年長の子どもだけを集めて、カードゲームをしました。ちょっとした手品みたいなものもまじえた、記憶力テストみたいなものです。よくよく見ているとそう難しくはない。しかし気をそらす話芸が、伯父にはあった。それでみんな、まんまと騙されるという寸法です。いや、まったく寅さんのバナナのたたき売りみたいなものですね、今思うと。
見るともなしにその風景を眺めていると、オダさんご夫妻が、さり気なく家内とわたくしに話しかけてきてくださいました。特に具体的な話ではありません。世間話でしたが、こもりがちだった家内には、よその人と話をすることがありませんでしたから、ずいぶんと気持ちがほぐされたようでした。家内が、ささいなことで、声をあげて笑うのを耳にするのも久しぶりでした。あの場の空気は、今もよく覚えています。
わたくしは、はじめて、「底」を見たような気がしました。もしかしたらこれから少しずつでも、この闇が薄らいでいくのじゃないか、と。自分は、ある日突然、からっときれいに晴れることだけをのぞんでいたのかもしれない、しかし少しずつ闇が薄闇に、薄闇がほの灯りに、変わっていくこともあるのだ、と、その時にうすぼんやりと思ったのです。そうすることで、自分の居場所が少しは見えるのかもしれない、目が慣れていくのかもしれない、と。
帰り道、伯父は『家』のことは一切話しませんでした。わたくしにも、家内にも、何も尋ねませんでした。ふらっと誘ったのと同じように、そこらへんを散歩してきたかのようにぶらぶらと歩いたのです。何か感想を述べたほうがよいのだろうかと考えていましたら、おまえは昔っから頭でっかちでいかん、見透かしたように伯父はそう言って、笑いました。わたくしが返す言葉を探して、言い淀むと、
「人と人とは、出会いたいと思って出会えるもんじゃないんだ」
そう呟いてから、おもむろに、先生口調で立ち止まったのです。
「偶然を大事にしない生き物は、滅びる。」
立ち尽くすわたくしに、誰の言葉か忘れちまったけどな、と笑って背を向けると、ひらひらと手を振って、伯父は駅に向かいました。
その背中が、元気な伯父を見た、最後でした。
今でも、伯父の、あの『家』での振る舞い方は、あまりに自然だったので、たびたび思い出すことがあります。まるで映画のワンシーンみたいにね。何気なさが、あたたかいんですよ。子供たちとの距離の取り方が、うまくて。
わたくしは、伯父やオダさんから依頼があったわけではありませんでしたが、日曜になると『家』に通うようになりました。もちろん、勤めから帰ったらカードの練習もしました。
―――ねぇ?大将、ここでもずいぶん練習さしてもらいましたね。
えぇ、大将がね、こーんなちっさい頃から、ここにお邪魔してるんですよ。それにしても今日の鯵はまた一段とうまくお造りにしてくださいましたねぇ、この脇に添えてくださったなめろうが、なんとも言えません。
さ、うんと召し上がってください、まだ赤ちゃんがよく眠っているうちに。
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