次の方、どうぞ(13) 社長教サラリーマン
「なんにもしてない、みたいに言うなっ、俺は、俺なりの立場で、やることやってんだよ」
ろれつの怪しい、怒号とともに中年男性が診察室に転がり込んでくる。見本のような酔っ払いは、まっすぐ歩けてはいない。なのに患者用の椅子にはしっかり座ることができる。背もたれもないのに。
「酔ってないぞおらぁ」
俺は、なのか、「オラァ」と威嚇しているのか、語尾の意味はどちらともとれる。アルコール臭がきつい。
何故、泥酔した上でクリニックのドアをたたくのか。いや、そりゃ、ここは確かに夜の商売の有象無象が住まう街ではある。そこにクリニックがある方が異質だと言われればそれまでだ。叩くべきドアを間違える輩がいてもおかしくはない。
が、しかし。
ここに来るということは。
「・・・アラキさん、愚痴は吐くだけ吐いて構いませんよ」
「うるせえぞ、えらそーに、名指しで指図すんなっ・・・てぇ、なんで俺の名前知ってんだおめぇ」
知ってんだもなにも、首からはIDカードをかけたままだ。くっきりはっきりとサラリーマンの立場と名前が刻まれている。常に身分表示をするのが、サラリーマンの律儀さだと評価された時代もあったかもしれない。最近では、社外に無駄な情報を流しかねない、自己管理のできないやつと評されるのか。
「世の中にはなぁ思い通りになんねぇことがいっぱいあんだよ、さちょーの言う通りにすんのがサラリーマンてもんだろう、ボケてなんかいねぇよ、さちょーは、よぉ」
この手の酔客はとてもわかりやすい。
発することばのすべてが、自分が抱える問題を説明している。心のどこかでは「自分は自分が思う仕事をしていない」と感じているのに「社長の言う通りにすること」でバランスをとっている。だからこそ「あなたがすべき仕事をしていない」と指摘されることに、異常なほどの怒りを感じてしまうのだろう。それこそが自分が抱えるコンプレックスだからだ。
中小企業にはファミリー経営が多い。昭和の時代にはなんとか回ってきた世代交代も回らず、経営者の高齢化は著しい。認知機能が怪しくなっても社長は社長だ、という意識から抜けられないこの男も、昭和の時代なら隠居できていた年齢だろう。
「思い通りには、なりませんね、たしかに。アラキコウゾウさん」
肩をぽんぽんと叩くと、恨みたっぷりに私を睨んでいた目が、ぱったりと閉じられた。
患者の背後に立つマユミに頭を任せ、まぶたを裏返す。もうサラリーマンとしてのフィルタを外してやってもいい年齢だろう。社内の常識が、世の中の常識ではないと気づいてほしい。
昭和のサラリーマンに多い「社長教」の信者に、それと気づかせるのは簡単ではない。まるで教祖のように社長の言動が「絶対」だ。Z世代でなくとも異議を唱えたくもなるだろう。
こぶしを握っている手を開いて、手のひらに小さな鏡を埋め込んだ。いい加減、社長の評価ではなく、自分の指標を見て判断できる年齢でもあるだろう。あってほしいという願望をこめて。
あるいは、と思い直す。
自分がありたいと願う姿と、かけ離れた自分の姿を真実だと知ったら、立ち直れないかもしれない、と。
埋め込んだ鏡に、文机にあった手帚をかける。軽く傷がついて、鏡の表面はほのかに濁る。この程度でいいだろう。ぼんやりとでも、外の指標ではなく自身の指標を見ることができれば。
今さら? そう、かつてなら還暦と祝われる年齢の、今こそが、自分と向き合える老人に成長できる、最後のチャンスなのだから。
そう遠くない自分の行く末を案じながら、ぱんっと手を叩きアラキを覚醒させる。「次の方、どうぞ」