豊島(てしま)―ARTの島、ではない面に触れて。
編集者・藤本智士さんと。
香川県・豊島(てしま)と聞いたら、ほとんどの人が「瀬戸芸の…アートの島」という回答をすると思います。私ももちろんそのひとり。瀬戸内国際芸術祭(瀬戸芸)に合わせ、これまで二度、訪問したことがありました。
さて、とても尊敬している編集者・藤本智士さんが「豊島に行く」と仰ったのが12月下旬のこと。
藤本さんはnoteで「ごみ」について次のように言及しています。
「ごみ」と「編集」の相対性についても…
このnoteを追っていくと…
と書かれています。
なぜ藤本さんが豊島に興味を持ったかというと、高松市庵治町にある”AJI CIRCULAR PARK”を知り、その公式サイトに「私たちの地元・香川県の豊島は、日本で過去最悪と言われる産廃不法投棄事件の舞台となり、島の外から持ち込まれた多くのゴミに、島民が長い間苦しめられました」とあったから。また、この事件を島民として関わっていた方の説明を直接現地で聞くことができるとあって。
豊島の不法投棄について、香川県民の私は「かつてそういうことがあった」という表層の認識だけ。中身についてはまったく。
私は藤本さんの豊島訪問に同行させて頂いたのですが、もう、ものすごい衝撃を受けました。脳も感情も揺さぶられまくったんです。藤本さんも仰っています。
「明らかに人生の転機になるような取材になった」と。
当日
1月19日朝7時過ぎ、高松港へ。平日なので島へ観光に行くと思われる人よりも、スーツを着たり、制服を着たりした人たちが目立ちます。フェリーや高速艇を使った通勤・通学の光景は、当人にとっては日常でも、私にとっては非日常に感じます。雨予報でしたが、雲間から陽光が差し込み、ホッとしながら高速艇に乗り込みました。
5年ぶりの豊島訪問。港に着くとアート作品を楽しみながら島を歩いた記憶が蘇ってきます。
港で私たちを待ってくれていたのは、豊島生まれ・元県会議員の石井亨さん(64)。“廃車王”のステッカーが張られた車に乗り、不法投棄現場へ。現場は島の西端。山道をひたすら走ると「立ち入り禁止」ゲートが。石井さんがゲートを開け、車を進めていきます。「ここです」と車を降りた先は、まっさらな広い大地。そこで、石井さんが事件の詳細を語り始めました。その語り口、克明な説明に私は言葉を失い、ただただ衝撃を受けるのです。
香川県って、なんだろう?
組織って、なんだろう?
法律って?解釈って?
一方で…
なぜ、豊島住民はあそこまで行動を起こせたのだろう?
過酷な状況にあって、活動を継続してこられた理由はどこに?
そんな「問い」が深く深く胸に突き付けられたのです。
豊島事件とは…
1990年、兵庫県警の摘発によって明るみになった不法投棄事件。13年にもわたり、有害産業廃棄物が違法に島に持ち込まれ、野焼きされ、埋め立てられました。その量は50万トン。
不法投棄された場所は美しい海岸でした。この砂浜の砂に有用な成分があることがわかり、砂の採取が行われ、やがて山は切り崩され、自然が損なわれていきます。この事業を行ったのがM事業者。やがて広い土地だけがMに残り、産廃事業へと手を付け始めます。
産業廃棄物を扱うには知事の許可がいるため、Mは香川県に許可申請を出します。1975年のことでした。豊島住民はもともとMを信用しておらず、反対運動を起こします。香川県も事業許可を見送りましたがMは県庁に直訴。
「本当は自分は法を守ってちゃんとした事業をやりたい。住民は反対するし県も許可を出さない。事業が始められないから従業員に給料も払えないし、自分だって生活に困っている。息子はいじめにあい登校拒否になってしまった。女房はがんで長くは生きられない」と語ったといいます。そして、香川県は方針変更。「“事業者の生存権”が侵されてはならない」と、当時の県知事が住民説得のため豊島へやって来て次のように述べたといいます。
これを聞いた豊島住民は激怒。香川県を辞め、岡山県になることを決め、大きな騒動に。そんなことがありながらも、香川県はMに“ミミズ養殖による土地改良剤化事業”という名目で事業許可を出してしまうのです。無害の製紙汚泥、食品汚泥、家畜の糞、木屑の4品目だけを豊島に持ち込んでミミズに食べさせる。そのミミズは魚の養殖用、釣りの餌として需要があり、糞は土壌改良剤、有機肥料として一次産業に販売できると。もちろん住民は大反対するものの、県職員が再三豊島へやって来ては住民に対し「絶対に間違いを起こさせないから」と説得。住民は(産業廃棄物処理場建設差し止め)訴訟を起こしていましたが、裁判は和解へ。和解の内容は、事業はミミズ養殖業に限る、事業内容を変更するときは住民の了解が必要、公害発生の恐れがあるときなどは原因を除去する等。香川県もその内容を尊重し、指導監督にあたると約束。1978年のことでした。
しかし…
Mはミミズ養殖場である場所に廃タイヤを持ち込み野焼きするなど、許可外の行為を次々と行ううえ、中古カーフェリーを改造し廃棄物専用舟を造ります。そしてシュレッダーダストと呼ばれる自動車破砕屑、大量のドラム缶による液状物が次々と島に運び込まれるようになり、島に黒煙が上がります。住民は咳が止まらないなどの喘息発症率が高くなりました。こうした異様な事態に1984年、住民は香川県に公開質問状を送り付けるものの「現場で行われているのはミミズ養殖である」「金属回収業という事業が行われているがこれは廃棄物の取り扱いではなく誰でもできる事業であること」「どちらも合法で安全」といった返答をします。事態は変わることなく、警察に行くものの「破棄物処理事業は、知事が許可をし、その指導監督の下に行われているのだから、あなた方が行くところは警察ではなく、県の担当部局だ」と言われてしまう始末。
1990年、ようやく兵庫県警が「瀬戸内海国立公園におけるミミズ養殖を仮装した数十万トンの産業廃棄物の不法処理」容疑で摘発。1991年 Mに出された判決は、「罰金50万円、懲役10か月執行猶予5年」。廃棄物は残されたまま刑事事件としては終わります。県は1993年、1000トンほどの廃棄物撤去という実績をもって「安全宣言」を出しました。50万トンを超える産廃が残っているにもかかわらず…。
住民運動の始まり 公害調停へ
一方、豊島住民は事件の真相を調査していました。Mの違法性を認識しながらも黙認しただけでなく、豊島住民に対しては「Mの行為は合法である」と言い続けてきた“香川県の過ち”。1993年、住民会議によって「香川県とM、排出事業者の協力を得て廃棄物を撤去せよ」という公害調停を申し立てることを決めます。問題解決には時間がかかると予測されたため、申請代表人のひとりに当時まだ30代前半だった石井さんも選出されたのです。
弁護団が結成され、実態調査が始まりました。ダイオキシンなどの有害物汚染の深刻さ、それらによる土壌汚染、地下水汚染、海への流出が明らかになっていきます。放置できない状況でした。香川県の安全宣言は“事実無根”。公害調停は裁判とは違い、双方が合意しない限りなんの効力もありません。香川県に「誤りを認め、産廃撤去を実現」してほしくとも、香川県は県民・国民の指示や要求がない限り合意する姿勢は見せません。そこで知事が合意する状況をつくるために住民は行動を起こしていったそうです。それが180日間もの県庁前立ちっぱなし、県内5市38町(当時)316キロに及ぶ徒歩での市町長に対する要請(メッセージウォーク)、東京でのデモ、県内100か所での座談会開催等の運動でした。応援・支援してくれる人々も大勢いる一方で、罵り、中傷の手紙や無言電話も大量にあったといいます。
豊島事件が認知されることは「豊島=ごみの島」という概念の定着、「島のモノは(汚れてて)買えない」という風評被害、「ゴミの処理に莫大な税金を使うなんて…」といった“地域エゴ論へのすり替え”も生んでしまいました。
傷つき、問い直し、揺れ動き…
1997年、調停は中間合意の成立をみます。
県・国の費用で豊島内に中間処理施設を建設し、島外で廃棄物を最終処理することが決まりました。1998年の夏、香川県知事選を控え、調停はいったん停止。選挙後、新知事の発言が島内に波紋を呼びました。
―豊島住民がなぜ(県に)謝罪を求めるのかわからない
―お金が欲しいんでしょ
こんな発言が。
選挙戦に伴うそれぞれの立場。選挙につきものの“しがらみ”や“利害関係”。石井さんも含めたこの住民運動の中心人物は8人。石井さんは述べています。
こんな状況に弁護士からは「エゴが前に出た問題に誰が共感するのか。…あなたがたは『してもらう』ことに慣れ過ぎて、いつの間にか感謝も謙虚さも忘れている」と言われ、中坊公平弁護団長もこう言ったそうです。
1999年3月、県は中間処理施設をー廃棄物の溶融を、隣の直島にある“三菱マテリアル銅精錬所”内で行うと提案してきます。現在の直島もまた、草間彌生の「南瓜」に代表されるアート作品や安藤忠雄設計の地中美術館など、“アートの島”代表であるかのように、大勢の観光客、外国人らが訪れていますが…
この”三菱マテリアル”の歴史は1917年。これ以前、三菱合同会社から精錬所開設の打診を受けた豊島村。水環境悪化の懸念からこれを拒否。一方、財政難に陥っていた直島村は精錬所を誘致し成功。これが「三菱マテリアル銅精錬所」で、直島は経済的にも潤いましたが高度経済成長を経て、同精錬業はしだいに下火に。
県が廃棄物を処理するとは、公共事業。その事業を請け負うのは企業。こぞって企業が手を挙げ始めたといいます。
下記に挙げる、石井さんによる言葉の意味を、私たちは常に問い続けなければいけないのだろうと思います。
「香川県はただのシステムでしかないのだから」(※同著p298)。
水俣(公害)、福島(原発)についても本のなかで触れている石井さん。公害を出すような有害物に対して…
と語っています。
見えない「行方」、見ない「行方」、「見ようとしていない私」
家庭ごみを詰めたごみ袋を集積所に置いた後の行方、ごみ収集車の行方、処理方法を、私たちはどこまで具体的に知っているのでしょうか。
私は、内省しきりです。
さて、豊島に廃棄されたもので最も多かったものはシュレッダーダストだといいます。
これらの石井さんの”綴り”に、ものすごく胸が痛くなります。いとも簡単にゴミを出している私。分別すら曖昧で、ごみの行き先をほとんど想像してこなかった。豊島事件のことだって「ごみ問題で話題になった島」という認識だけ。事件の中身について知ろうともしなかったし、興味もなかった。
調停が成立したのは2000年。
最終合意の内容は“県が廃棄物を撤去し、汚染された土壌や地下水も浄化し、住民に土地を戻す”というもの。ここまでにかかった時間、25年間。
県が過ちを認め、ようやく謝罪の意を表したのです。そして国の特別措置法、公費によって、県は廃棄物と汚染土壌の廃棄物の完全撤去、土壌汚染の浄化を進めてきました。撤去完了が2017年3月、直島での無害化処理完了が同年6月。処理された総量は約91万2000トンと発表されました。そして2023年3月、投棄現場の整地工事が完了。総事業費は約820億円。しかし、地下水の浄化はまだ続けられており、いつ住民に土地が戻されるのかは定かではありません。豊島事件は終わった、とは言えないのです。
石井さんは「無謬性」という言葉を挙げています。
これまでの事件の流れを追っていくと、誰でも思いますよね。
―どう見ても違法・問題だった不法投棄を「県」は止められず、判断を誤った。なぜ?
それは「行政とは権力は行使するが、責任は取れないただの“システム”でしかない」(同著p233)というところに起因するのでしょう。
立脚
私たちはどこへ向かっていけばいいのだろう。何をどうしていったらいいのだろう。
ここからはもう一冊の石井さんの本『未来の森』にある言葉を大切なヒントにしたいと思います。その最も大きなものに「共同体」があります。
島だからこその人と人の「近さ」。
豊島には救急車が来ません。
石井さんは「豊島の人たちの闘いは“共同体”のなせる業であった」と言います。
日本でも感じる明かな異常気象。世界中で起きている気候変動。レジ袋有料化もしかり、身近になったマイクロプラスチック問題。地球環境に関する問題を肌実感しつつある私たち。それらも、パンデミックも、コロナ禍も、結局は私たち一人一人の選択した行動の集積によって行きついた先なんですよね。
石井さんは、豊島で生まれ育ち、農業を学び、アメリカでも過ごしました。帰郷したのち、荒れ果てた農地を再び耕し、無添加での平飼養鶏を始め、ようやく出荷…のタイミングでの不法投棄摘発。そこから石井さんの人生はガラッと方向転換せざるを得なくなります。
「この事件は長引くに違いない、自治会の役員は高齢者が多い、また任期ごとに交代すると継続性が失われる。その対策として、長引いても死なない世代を、任期のない永久役員として今のうちに入れておこう」(『未来の森』p39)として選出され、石井さんは公害調停申し立ての選定代表人の一人になりました。この選択そのものが、“共同体が生きていた豊島”だからできたのだと想像できます。その後、公害調停のまっただなかにおいて、石井さんは県会議員も務めました。心身に鞭を打ちながら、心底激しい闘いをしてきたことは、著書を読めば痛いほど分かることです。膨大な量と時間をかけ、ただただひたすらに豊島事件と向き合ってきたからこそ、豊島での石井さんの偏りのない説明に、ものすごい衝撃を受けたのです。
石井さんは水俣も訪問しています。その時、老女が海を眺めて笑いながら言ったそうです。
豊島で石井さんの話を直接聞いて、現場をみて、本や資料を読み漁って私が思うこと。それは…
わたしが、立脚すること。
ここにしか、ない。
自ら「問い」「考え」「行動」する。この姿勢こそが、本当にあらゆることの“本質”に繋がっているのだから。
どれだけ真摯に、
本気でやるか。
そう思うのです。
私の仕事のひとつである介護・ケアにだって結びついている本質。
豊島の学びから、言えることが確実にある。
それをまた、綴ってみたい。
…………………
■豊島事件、問題についての参考サイト
■処分地の見学について
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