ユニバーサルとインクルージョンーpresent 遅れであって、贈り物で
約2年前から、作業療法士がキーワードになっていて、周辺の取材を進めていて、何か形になったらいいですねとある会社と話をしているのですが、ここ数日、強い気づきがありまして、それをシェアしたいと思います。
私の娘・小学一年生。ちょっと変わり者でユニークです。
勉強嫌いで、外遊びが大好きなやんちゃタイプ。同級生やら周りには愛されているのか、いろんなモノをもらって帰ってきます。
テストは54点だの、62点だの。足し算・引き算の概念をようやく理解したと思ったら、二学期に入り、繰り上がり(下がり)の足し算・引き算にものすご~く苦しんでいます。
発達障害か否か
年中のころ、幼稚園の先生から行政が運営している「発達障害支援センター」に相談するのはどうかと持ち掛けられます。そのときは、「うちの子はザ・子ども。障害のわけないやんか!」とプンプンスルーしていたのですが、年長になって就学前検診にひっかかり、再検査を受け、再び担任の先生から「行ってみたらどうか」と相談を勧めれました。年長の担任の先生はあれこれ話をしやすく、娘の性格もよく理解してくれていて、「一度行ってみようかな」と面談を受けることになったのでした。
斜めに構えて、支援センターに行きました。臨床心理士の先生がいるだけで、その先生がその子の様子を見て、あるいは少しテストしたりして、特徴やらをつかみ、親と面談(療育相談)していくというものだったのですが、相当に面白かったのです。その先生が。娘の特徴をものすごーくよくつかんでいました。
「最終、大人になったときに笑顔でいられればいいんですよ」
「本人が機嫌よくいられるように長い目でみて…」
と言ってくれたことがとにかく印象的でした。
その人の出す雰囲気でどんな人か(長年、取材の仕事をしてきた身としては)ある程度わかるつもりなので、もうすぐさま「このひとはっ」と思ったのですが、数か月に一度のペースで通い続けているのです。
11月18日、三か月ぶりの面談でした。
この数日前、私が仕事から帰ると、娘の泣き声が聞こえてきました。どうしたんだ?と思ったら、制服を着たまま、大粒の涙を流して、「おばけがぁ…」と。繰り下がりの引き算の宿題がわからなくて、できなくて、悔しくて「お化け」と称して泣いていたんです…。
ここ最近、一桁の足し算が、たとえば6+3=がスムーズになってきて、「あ、良かったぁ」と思っていたところ、繰り上がりの足し算に。レベルが上がってしまったんです。引き算も同様。
追いつけない娘。
「でもさ、3月生まれなんだよ。あと一か月遅れていたらまだ年長さんなんだよね。できないわけじゃない。時間かかるけど、少しずつ理解はしてきているよね」
と夫も私も、最大の援助者・義母はそういう風に見ているんです。
そのことに関しても、臨床心理士の先生に話しました。すると先生は次のようなことを言われました。
遅ればせながら
(先生)学校のペースは一方的で、到達度別になってないですからねぇ。中学校入るともうさらにすごいです。
そこで向かいたい方向、将来何になりたいかなど、やりたいことがはっきりしていれば、この勉強は必要ではない…となりますけど、一年生という、算数や国語だけといったなかではやるしかないですから。基礎がないとどうしようもないので基礎は大切。8割を10割にしていくことが大事。宿題と勉強を分けるのもいいと思います。宿題は約束事、修行の場として割り切る。できないなら手伝っていい。
彼女、文字を必死に書いています。覚えたことを書こうとしている。コミュニケーションも成長しています。以前とは全然違う。知的にはまったく問題ないですから。
(私)―そうなんです。最近ひたすら文字を書いたり、手紙をくれるんです。
(先生)幼稚園でそれにハマる子が多いのでしょけど、彼女は少し遅れてそれがやってきているわけですね。成長していっています。
このとき、私は森田真生さんの『数字の贈り物』を思いだしていました。
『岩波古語辞典』によると「おくり」と「おくれ」は同根のことばだそうだ。
たしかに「贈り物」を贈るときには、いつも「遅ればせながら」の実感がある。
心に抱きながら、伝えられずにいた思いを、おくれの自覚とともにおくるのである。人は誰もが、この世に遅れてきた存在である。
だから、生きることは、学び続けることになる。
(途中略)
学ぶことは、前に進むだけでなく、自分の遅れに目覚めていくことである。
自分の果てしない遅れに戦慄するとき、現在はただいまのままで贈り物になる。
私は、娘から「present」を受け取っているんだ。
親として。
親として「present」を受け取らなければならないんだ、見逃してはいけないんだと気づきました。
どうしてこう、こっちは疑わないんだろう
11月に入り、広島県三原市へ取材に行きました。若者の居場所提供や社会参加づくりの活動をしているNPO法人の代表の方にお会いしたのです。その方は作業療法士。
テープ起こしをしている最中、ふとSNSを見たら「学校にオーガニック給食を」という活動をしている知人が「ランドセル症候群」というものを投稿していました。どうやら、ランドセルの重さが「学校嫌だ」の原因に一役買ってしまっているとか…。そういうことに気づくことって、大切だと思うんですよね。
私は埼玉で育ちました。埼玉の小学校には制服はありませんでした。だけれども、香川に来て…香川では制服を着るのが小学生はアタリマエだったんです。
制服は高価です。3年に一度の買い替えで済むように、大きめサイズを購入するから、一年生なんてみんなブカブカ。それに重いランドセルを背負い、まして今はマスク。給食も、みんなでワイワイ食べることができません。
ランドセルが重くて、学校に行くのが嫌だ。
制服を着るのが嫌だから、学校に行きたくない。楽しくない。
アタリマエのハナシですよね。
こういう外的要因があり得ることを、大人はきちんと配慮しないといけないなぁと思うのです。
知人のお子さんに中三の男の子がいます。トイレに行く頻度が多すぎて、 それが苦痛で、学校に行けなくなりました。
家族会議をして「不登校のままでOK。学校には(無理に)行かない判断をした」とのことです。
ある人に勧められた、高松市内の発達障害をみる病院は予約が一年後だとか。そのくらい、「障害児は増えている」のだそうです。
でもそれホント?
本当なら、やはり農薬や食品添加物などが脳に与える影響があるのでしょうか。
一方で、私たちの子どものころにも、当時は「発達障害」なんて診断がなかっただけで、「ちょっと問題がるよね」って子はクラスメイトにどこでもいたよねと言うこともできます。診断名がついて、診断しやすくなったから増えているだけ?しかも、ある人に聞いたのが、「わざと診断したがる自治体がある」ってこと。「社会的判断」があったほうが、いろいろ都合がよいのでしょうか…。浜田寿美男さんの言葉「人間みなちょぼちょぼ」を思いだすのです。みんなどこか生きづらさを抱えているもんだ…と。
インクルージョン
そんな折に、テープ起こしをしていて「これはとても大切だなぁ」という気づきがあったんです。
「ユニバーサルというのは誰しもが使いやすい、というものですけどやっぱり、一人一人が輝けるように支援をするという意味ではインクルージョン。学校はインクルージョンでないと。学校は『不登校の人に対してどうしたらいいですか』って聞きますけど、そうじゃなくて、この子に対してどうしたらいいかを一緒に考えないと。不登校の人に対して何か考えてもいいものは生まれませんってよく言うんです。そうじゃないと学校の組織をなくすことくらいしかないですよという話なんです。“授業をなくす”とか“座らなくていい”とか、そういうのは学校はできんでしょって。この子に合うようにしていくというのが一つのミソかなって思います」
作業療法士のこの方のお話は、きちんと記事にして、伝わるものにしたいので、ただいま、丁寧に整理して執筆中です。
地域のなかで、学校(自分の今の居場所)に通えるとか、仕事ができるとか、日々健やかに過ごすことができるとか、いってみれば“その人自身の力でその人らしく作業できる日々”ならば。
(作業療法の世界って、ホント面白い!しかも、人類学の思考と絡めると、もう、たまんないなと『働くことの人類学』を読みながら感じています)
そりゃ、人間だもの。喜怒哀楽、日々色々ありますが、だいたい“おもしろい日々”なら、いい。
その人のワーク、営み、存在が地域に活かされて、めぐりめぐっていくなら、いい。
それが、きっと本来の社会なんだろうなと思うのです。