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図々しい弱者


最近、断捨離の好転反応というか、私個人の中に溜まっていた、人間関係にまつわるモヤモヤが浮上するために、対人面におけるプチトラブルが多発しております。

最近なんて、何か嫌なこととかモヤモヤすることが起きても
『あぁそうか。私はあのことに気付くために、今回の嫌な出来事が起きたんだな。』
と、その事柄が起きた原因を見付けるのが早くなっているので、モヤモヤを手放すまでにあまり時間がかからなくなってきてはいるんです。

それでもやはり、誰かと誰かの間にトラブルが起こるということはお互いの中に何かしら気付いたり、乗り越えないといけない何かが残っているということにはなるので、そういうときに
『何で私が一方的にイライラさせられなあかんねん!』
と、いう類いの出来事が起きると、納得できない部分は残ってしまいます。

これだから、繊細は疲れますね。

こういうことを繰り返していて、私が妙に解せないことの1つに関する話なのですが、

「できない、わからない、なら、もうちょっと謙虚になっても良いんじゃない?!」

と、いうイライラにまつわる話です。



何でもそうなのですが、
【何かができる人】
というのは、その9割強が

[昔はできなかった]

[努力したり、頑張ったり、精進したり、工夫したり、できるようになるまで続けた]

[できるようになった]

側の人だと思うんですよ。そりゃあ一部には才能があって、物心付いたときから自然とできていた人なんかもいるでしょう。でも、大半は、できないところからできるようになった人だと思います。

なので、【何かができる人】は、【それをできないときの感覚、気持ち】も内包した上で【できるときの感覚、気持ち】でいる人がほとんどなんじゃないかと思うんですよね。



でも、【何かをできない人】って、【それをできないときの感覚、気持ち】の方しか知らないじゃないですか。

【できるときの感覚、気持ち】が分かるなら、できないままでいる訳もないし、それが分からないせいで、できないままだったりすることも沢山あると思うんですよ。

私も、めちゃくちゃ走るのが遅い人間なんですけど、速く走る人の感覚なんかが分からないから速く走れなかったりする部分もあるので、[できない]ということは【できるときの感覚、気持ち】を分からないということでもある、って感じるんです。

だから、【できない人】が【できる人の
感覚、気持ち】を理解できないということは、まぁ当然というか、仕方ないというか、そういうものなんだとは思うんですよ。



なんですけど、私はこれまでにあまりにも沢山
『できない人の気持ちを汲むべき!』
『できない人の感覚に寄り添うべき!』
『できない人に合わせるべき!』
みたいな考え方の人と出会う機会が多かったことが、妙にモヤモヤするんですよね。

「何で、できるように工夫して挑戦し続けた側が、挑戦する気すらない人間の怠惰に付き合ってやらなあかんの?」

の、ようなモヤモヤを感じた経験が結構あるんですよ。地味~に色々ありました。地味~にね。



もしかしたら前にどこかの記事で書いたかもしれませんが、一番古い記憶の中では小学校1年生の頃のエピソードです。

私は学校で知らないことを習うのも好きだったし、楽しいと思っていたし、どんどん先に勉強を進めて欲しかったのに、学校はできない子のペースに合わせることを当然としました。その理屈も十分に分かりましたが、できない子のペースを優先するために私が我慢させられて当たり前のように諭されたことも凄くモヤモヤしたんですよね。どうしようもないのも分かったので、
『私が我慢するしかないんだな。』
とは思ったのですが、どうもその理不尽なルールが解せないまま、今日にまで到っています。

↑このエピソードに関連する内容においても、私だって初めから知っている訳ではなく、先生の説明を
[私がしっかり聞いて]
[私がしっかり頭の中で考えて]
[私が自分で納得できるように話を噛み砕いて自分の中に落とし込む]
などと、私なりに工夫して"頑張った上での"理解なのに、
「"簡単に"分かる子は、分からない子を待ってあげないとね。」
の、ような扱いを受けることが悔しくて仕方ありませんでした。

「何で、人の頑張りを「簡単なこと」だなんて、あんたが判断する訳?」

って色んな大人に怒鳴り散らしたいですね笑



できない人ってさぁ、
「こんな風に工夫したらできるようになったよ。」
とか
「こういう風に考えたら分かりやすいんじゃないかな?」
みたいに、できないところからできるようになるためのヒントを教えてあげても
「そんな工夫できるのは、Nagyちゃんが簡単にできるからでしょ。」
とか
「Nagyちゃんみたいに簡単に考えられないから分かんないよ。」
とか、なんやかんや言い訳して、やろうとしない、考えようとしない、その人の問題でしかないのに、あたかも
「できない側の気持ちを汲めてないあなたがおかしい!」
みたいな言い方する人がすっごく多くてさぁ。

正直腹立つよ。

できるかできないかの差は、やったか、やらないか、程度だって言っても過言じゃないと私は思う。できる人が恵まれてる訳じゃなくて、できるように頑張ってその成果を得ているだけなのに。できない人間は言い訳ばっかり達者で、やろうとしない怠惰を
「やってる人間がおかしいんだ。」
ってすり替える発言ばかりするから、関わりたくなくなるよね。

あー!どっか行け!



近年はどうか知らないし、もしかしたら違う地域は違うかもしれないんだけど、
『できない側に合わせるべき。』
『立場の弱い人が優遇されて然るべき。』
っていう感覚、日本は強過ぎる気がする。これ、本当に止めて欲しい。

『弱い立場に回ってしまえば何もしなくて良いじゃ~ん、へへ~ん。』
って、ズルい人間がどんどん言い訳を重ねる隙を生んでるし、好奇心とか向上心持って生きてる人間が損しやすい環境を増やし続ける思想だから、本気で振り返ってみる人増えて欲しい。

目指すべきは
立場が弱い人が優遇される社会
じゃなくて
立場が弱い人でも問題なく生きられる社会
なんじゃないの?



物価が上がり続けてる昨今の中でさぁ、
「こんなに働き方の自由度が上がった時代にお金を稼ぐ工夫をしないのは、その人が悪い。」
っていう意見もあるけど、逆に言えば
「『沢山のお金をかけないと生活できない人間の水準に合わせて然るべき。』っていう押し付けはおかしいんじゃないの?節約する工夫をしないのは、その人が悪い。って言わない癖に、その理屈が何故まかり通ると思ってるの?」
って話でもあると思うんですよ。

↑これが良い例で、世の中、
何かの基準に合わせなければいけない
じゃなくて
どんな立場の人でも生きやすい仕組みを目指す
のが筋なんじゃないの?

と、私は思うんですよね。どっちかがどっちかに合わせるべき、っていう感覚からいい加減抜け出ろよ、と。



で、さぁ。

さっきも書いたんですけど、できない人ができる人の感覚や気持ちが理解できないのは仕方ない、当たり前だと、私も思うんです。

でもせめて、

『自分は○○ができないから、○○をできる人の気持ちを解ってない立場の人間なんだな。』

って自覚できてる人は増えた方が良いと思うんですよね。これは、色んな場面で思います。

何においても、できない人って、できる人の足を引っ張ってしまうことはあると思うんですよ。それは当然だし、仕方ないし、そこに怒るのは違うじゃないですか。けど、

『自分はできない側なんだから、できる側の足を引っ張っても良いんだよね。』
っていう感覚は絶対違うからね!

と、私は非常に強く感じております。

できなくても許されるけど、できないから何しても許される・何もしなくても良い、ではないからね!

って大声で訴えたいです。

その位、できない図々しい人間にイライラさせられる経験を、私は多く経てきたなぁ、と、最近ゲッソリしておるのです。



たまにさぁ
「私、覚え悪いから、迷惑かけます…。」
「私、頭悪いから、お手数おかけします…。」
みたいなおばちゃんにも出くわしてきたけど、それも本気で改める人増えて欲しいですね。

「私は覚えが悪い。」
って、自分で自分に暗示をかけ続けるな!そんな暗示をずっとかけ続けてるから覚えの悪さが悪化すんねん!

「私は頭が悪い。」
って、自分で自分に暗示をかけ続けるな!そんな暗示をずっとかけ続けてるから人の話をまともに聞けへんよーになんねん!

卑屈と謙虚を履き違えんな!バカヤロー!

しっかりさぁ、
『自分が理解できるように向き合ってくれて、懇切丁寧に対応してくれてるんやな、ありがとう。』
って、1人気付けることで、不幸な人が2人減るってことを見直してよ。あんたの自己憐憫に付き合ってあげられる程暇ちゃうねん!



前にも違う記事内で触れたんですけど、これからの時代では、
[誰かの犠牲の上に誰かの幸せが成り立つ]
っていうことがどんどんできなくなっていくんです。

言い換えれば、自分の人生(選択)には自分で責任を取らなきゃいけないようになるとも言えるし、自分次第で際限なく自由に生きられるようにもなっていくとも言える訳です。

その転換期の中で、
『自分さえ我慢すれば…。』
『ここで自分さえ口をつぐんでおけば…。』
と、いった自己犠牲がどんどん通用しなくなるし、↑こんな風に考えがちな人ほど、ハッキリ断らなければならない場面ではハッキリ断るよう促されるような出来事が目の前に起きてくるはずです。

多くの場合
『この人に反論、言い返すよりは、自分がやってしまった方が早いよね…。』
と、考えて口をつぐみたくなってしまうような相手にこそ

「自分でやってね。」
「あなたの仕事ですよね。」
「ご自分でどうぞ。」

と、ナチュラルに押し付けられる何かを綺麗にそっくりそのまま、押し付けてくる当人にお返しする訓練を促されるでしょう。

私は絶賛その渦中の中にいて、図々しい人バスターを頑張っています。喧嘩腰にならない程度にハッキリ、ピシッと言うというのがなかなか難しくて心折れそうにもなりますが、私が負担すべきじゃない、他人の課題はしれっとお返しできるようになってきてるのではないかと思います。

もしかしたら、人によっては
「やってくれたっていいじゃんケチ。」
「ちょっとくらい手伝ってくれたって良いのに…。」
の、ようにブー垂れてくる場面も0ではないのかもしれませんが、いつまで経っても
「できない(めんどくさい)からやりたくない。」
というようなタイプを放置しておいてはいけない、そんな時期に差し掛かってきているのです。経験を積ませてあげることの方が引いては相手のためになるということを理解していかなくてはならない時代に突入している訳です。仕事を奪わずに、"させてあげて"くださいね。



これも前の記事で触れたことですが、人を"立ててあげて"はダメなんですよ。"立たせてあげる"のが正解なんです。

やってあげるんじゃなくて、できるように促してあげる。確かに、自分がやった方が早いし、どんなことでも教えるのも簡単じゃないんですけど、そこをグッと堪えて、相手が成長するように促してあげなきゃいけない役目が回ってくるときはあるので、ピンときている人は、意識しておいてください。



自分が幸せ、自由になるために貪欲になれる人は増えるべきだけど、自分が楽になるために他人の足を引っ張る人は撲滅していきたいものですね。

また、自分で経験すべきことから逃げて他人に押し付ける人がしっかり自分でツケを払えるようになって欲しいな、と、思います。

私はもう、誰にも邪魔されない生き方目指して突っ走るからな!

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