誰かを救うよりも…
人間って、自分のコンフォートゾーンから抜けることを極端に怖がるものなんですよね。
例えばさぁ、ずっとロングヘアーだったマリナって子がいたとするじゃないですか。
心機一転、髪の毛をバッサリ切って、ショートヘアにイメチェンしたとしますよね。
マリナは新鮮な気持ちになれたし、自分の中で
『ショート似合うじゃん♪』
って、ウキウキなんですよ。
で、ショートになったマリナを見て、エミリって子が
「えー髪切ったんだね~(^^)前の方が良かったのに~(^∀^)」
とか、ナチュラルに、悪気無く、要らんことを言う…みたいなシチュエーション、たまにあるじゃないですか。
↑こういうことが起こるのって、エミリの中に
[友人のマリナ=ロングヘアー]
っていうコンフォートゾーンが出来上がってて、そのコンフォートゾーンが崩れた違和感を感じてるから、マリナの新しい髪型が何となく不快に感じてるだけだったりするんですよ。
これ、マリナのショートヘアが悪い訳では一切なくて、単純にエミリ側のメンタルの問題なんですよね。
(まぁ、たまーに嫌味で「前の方が良かったのに~。」とか言う性悪もいるんだけど、まじで悪気なく言ってくる人の話。)
で、エミリのメンタルの問題なのにも関わらず
「髪型を変えたマリナが悪いよ~(^∀^)」
みたいな言い方をするから、新しい髪型を気に入ってるマリナとしては、モヤモヤするじゃないですか。
『は?エミリあいつ何なん?!』
って、なるじゃないですか。
もし、エミリが
『マリナの新しい髪型、なんかモヤモヤするなぁ。モヤモヤしてるのは私の問題だよね…。そうか、見慣れてないとか、コンフォートゾーンじゃない出来事に遭遇したから、私は不快寄りのモヤモヤを感じているんだな!』
って、自分で自覚できたら、「えー髪切ったんだね~(^^)前の方が良かったのに~(^∀^)」
なんて言葉、出てこないと思いませんか?
「わ~!ずっとロングヘアーだったから、凄く新鮮だよ!」
みたいに、言葉を選べると思うんですよ。
わざわざマリナに嫌な思いをさせるような言い方をせずに、でも嘘をつくでもなく正直に
「新鮮に感じてる!」
っていう部分だけを伝えられるようになるはずなんですよね。
と、まぁ、こんな風に、
『人間は自分のコンフォートゾーンから抜けることを怖がりやすい性質があるんだな。』
って、自覚をしっかり持った上で、何かモヤモヤすることが起きたとしても
『もしかして、自分の中に何か引っ掛かる原因があるのかな?』
って、まず自分を振り返るように心掛けることが、良好な人間関係を構築する上で結構重要なポイントだったりする訳ですよ。
「えー髪切ったんだね~(^^)前の方が良かったのに~(^∀^)」
「わ~(^^)ずっとロングヘアーだったから、凄く新鮮だよ(^∀^)」
おんなじ感覚、テンションで伝えたとしても印象は全く違うものになります。
幼い頃からの友人同士であれば、前者の言い方であっても
『あーはいはい、エミリはこういう言い方しかできないからね。』
と、マリナ側が大人になって流してくれるようなシチュエーションも大いにあり得ます。
ですが、職場や新しい習い事、趣味の場…などなど大人になってからの社交の場においては、こういう些細な配慮ができるのとできないのでは、その後の交遊関係が大きく変わってくるんですよね。大学を卒業するのが22歳前後だとして、寿命が80歳だったとしても、60年近く"大人"として社会生活を送る上では、こういう細かい気遣いの積み重ねってバカにできません。
私たちは、小学校などを筆頭に
「人に優しくしましょう!」
「世の中の為になることを心掛けましょう!」
「社会貢献は大切です!」
などなど、
[誰かの為になる活動が尊いこと]
という教えの方が強かったのではないでしょうか。当然、地域や学校の方針、世代間でそれぞれ異なるとは思いますが、
「世のため!人のため!」
というニュアンスの言葉の方が世間では多く唱われていると思います。「自分のための活動をしましょう!」
なんて、学校や社会ではほぼ耳にしないのではないでしょうか。
大体セットで、
「人に迷惑をかけないようにしましょう!」
と唱えられやすいのが日本の文化かと思います。
とにかく
[相手(他人)のことをまず気にする]
と、いう価値観が強く根付いているし、あまりにもそれが当たり前に根付き過ぎて、私たちにそんな無意識が備わっていることすら、気付きにくい人も多いのではないでしょうか。
こういった背景から、ホスピタリティーの強い人ほど
「何をしたら、人の為になるんだろう?」
「どんな行動が、世の中の為になるんだろう?」
などと、
【自分ではない存在が助かる行動】
を探したくなる傾向が強いはずです。
これはこれで素晴らしい意識ではあるのですが、あまりにも自分の外側ばかりに意識を向けて、自分の行動が疎かになってしまっていると、自分の無自覚な部分で他人に迷惑を掛けている側面があるということも理解することが大事です。
本当に極端な例えをすると、
『社会貢献は大事だ!』
と、考えて、海岸でのゴミ拾いに精を出すことを日課にしていたとしますよね。
ところが、海岸清掃に夢中になるあまり、自分の家の中のことがおざなりになってしまっていると、害虫や臭いなどの公害を知らずに生んで、近所の人の迷惑になってしまいます。
まず自分のこと細やかな身の回りを整え、自立をした上で他者への貢献を考えられなければ、貢献どころか、他者に迷惑を与えてしまいかねないという点を日本人は特に見直すことが大事ということです。
愛のある言葉を唱えるよりも、他者を不快にさせる言い回しを減らす工夫が大事なフェーズがあるんです。
愛を他者に振り撒く活動に勤しむよりも、他者を不快にさせる活動を止める工夫が必要なフェーズがあるんです。
自分の言動にあまりにも無頓着、無自覚のままにいると、これまた無意識の内に
『周りの人間がコンフォートゾーンから抜けるのが怖い!』
という感覚が発動して、無自覚なまま他者の足を引っ張ってしまっていることがあるんです。
初めに例えたエミリのように、当人は相手の足を引っ張っている自覚などさらさら無いままに、マリナの良い気分を害してしまいます。
他者の邪魔をしないために、自分の言動に自覚を持てるようになることは、何か凄いサイキック能力を身に付けるよりもとても簡単だし、とても重要なことなんですよね。
『誰かの役に立ってるから、自分には価値がある。』
とか
『社会貢献してるから、自分は素晴らしいんだ。』
などのように、自分ではない存在ありきで自分の存在を認めている状態というのは、自分の外側に依存している状態です。自立できていない状態です。
自分の存在意義を何か別の存在に委ねてしまっている、寄りかかってしまっているということは、【迷惑】というエネルギーを生んでいて、どこかにその影響が生じている可能性も高まります。自分と相手、迷惑を掛け合って、「お互い様。」と言い合えている範囲ならまだ問題はありませんが、一方的だったり、第三者を巻き込んでいないか、振り返ることが重要なタイミングはあるので、ピンときてる人は意識してみると良いでしょう。
【人】
という漢字って、1人の人間を横から見た絵が成り立ちらしいです。
自分で立ち上がろうとするときのポーズそのものですよね。
自立を心掛けるって、大事なことなんですよ。
精神的な自立、目指してみませんか?