表裏一体
小銭には、表も裏もあります。表と裏両方備わって小銭が出来上がっています。
表しかない小銭も、裏しかない小銭も、それは偽金ですよね。
物事には表、裏、両方存在するのが普通です。
善、悪、両方存在するのも普通です。
ところが、人は
「○○は善だ!」
「○○は悪だ!」
と争いたがります。
この世に包丁がなければ、私たちは料理を上手く作れません。包丁とは、非常にありがたい道具です。
しかし、扱い方を誤れば、人を殺傷する凶器にもなってしまいます。
これは、包丁が悪なのではありません。正しい扱い方をしなかったことが悪となります。
こうして、物で例えたらすんなり理解できる人は沢山いるのに、世の中では議論が絶えません。
「お金はありがたい物だ!」
「お金は汚い物だ!」
これらの議論が良い例です。
一昨日の記事に書いた通り、【お金】は【お金】でしかありません。それ自体に善も悪も無く、ただただ正しい扱い方ができないことが悪となっているだけなのに、この辺を理解している人が少ないのです。
物、事、には人々にとってプラスの側面、マイナスの側面、両方を併せ持つのは当たり前で、
『それらとどう付き合っていくのか?』
ここを考えなければいけないのです。
もう少し話を複雑にします。
人の主観とは難儀なもので、起きた事象の善悪を"自身の観念"によって決めてしまいます。観念を最も優先するので、それらをありのままに捉えられない人ばかりです。
例えば、山里に下りてきて悪さを繰り返す鬼を、琴三郎(ごんざぶろう)が退治して、殺してしまった。と、聞けば、琴三郎はヒーローです。
ところが蓋を開けてみれば、半年前、ひっそり山奥で細々と暮らしていた鬼の住処に琴三郎が無理矢理押し入って、鬼の持ち物を勝手に盗んで行った。この経緯の腹いせに、鬼は人里で悪さをして復讐心を晴らしていたのだと知ったら…途端に、先に悪さをした琴三郎が悪いのだと感じる人は大勢います。
立場変われば善悪も入れ替わります。
目の前の小銭も、見ている側を表とするか、はたまた"表と決められている"伏せられた面を表とするか、人それぞれの観念が、その結果を決めてしまうのです。
・物事には表と裏が両立している
・物事の表と裏を決めているのは自身の観念でしかない
この2点が全て同時に存在します。
今、目の前に置かれている小銭が
「表だ!」
「裏だ!」
と議論することに何の意味も無く、ただただ【小銭】として観る必要がある訳です。
私はこの前、
[『人間にはRASという、自分にとって必要だと判断されたものだけに焦点を絞ってしまう機能がある。』と、いう説を前提とした世界観の方が世の中では優位に働いているのだということを知った。]
と、いう内容の記事を書きました。
私個人はこのRASという神経細胞の働きが弱いのではないかという自覚があり、また、世の中には私同様RASの働きが弱い人は沢山いるのではないかと感じています。
RASの働きが強い人にとって、
『◇◇は善だ!!!』
と、決定付けてしまうと、◇◇が併せ持っているはずの反対側の側面は"自分にとって不要な情報だ"と判断されてしまい、盲点へと追いやられてしまう可能性が高まります。
こうして自分の判断に固執してしまったRASの働きが強い人は、【◇◇】を【◇◇】として、あるがままに捉えるのが難しい傾向にあるのではないかということが判りました。
私は上記の点に気付いたときに、
『【RASが強く働いてしまう人】の世界観に縛られてしまっている【RASの働きが弱い人】を解放させてあげるお手伝いがしたい!』
って、強く感じたんですよね。
それで、最近、結構複雑な内容の記事ばかり書いてる気がするのですが、一貫して
「RASに縛られてる側の世界観に留まらなくて良いですよ◎」
と、伝えたいだけなのです。
色んな人を狭い世界観から解放してあげたい。
伝わりやすいかと思うので、またお金で例えます。
貧困で苦しんでいる人間にとっては、
『世の中に【お金】というものが存在しているから自分は不幸なのだ!』
と、考えてしまいやすいでしょう。
しかし、【お金】は【お金】でしかなく、その存在によって人類という枠で見た場合に多くの人間が"公平に"品物やサービスを得られるという安心感を得ている側面があるのも事実です。
そんな中、RASの働きが強い人が
「お金は苦悩を生む要因だ!!!」
と、訴え始めたとしたら、その人にとっては【お金が人類に対してもたらしているメリット】が盲点に入ってしまい、見えなくなってしまう訳です。
こうなると、RASの働きが弱い人にとっては
『まぁ、お金はお金でしかないからね。』
という感覚であったとしても、RASの働きが強い人が
「お金こそが苦悩を生む要因なんだ!お金なんてあってはいけないんだ!お金は悪でしかない!」
と、攻撃性を孕む程に強い主張を繰り返されることで、
『そうか…お金は苦悩を生む要因なんだ…。』
と、洗脳される流れになったりしてしまいます。
↑極端な表現に思えるかもしれませんが、現実世界ではかなり似たようなことが起こっているのです。にも拘わらず、真実は盲点へと追いやられてしまって、見えてない人が多いのです。
私は、【強い思い込みから強い主張だけを繰り返す人】は放っておいて、【狭い世界観に縛られざるを得なくなってしまった人】が解放されることを望んでいます。
容易なことではないような気もしますが、
「脳の機能のせいで偏った側面しか見れないようになってしまう人もいるみたいだから、冷静に、"自分が"どう感じるのか、で、物事を見てみてね!」
と、訴え続けることが大事だと思うんですよね。
物、事、は表と裏、2つで1つ。両側目あることも当たり前だし、見る人によって表裏反転してしまうことも当たり前。そんな複数の要素を孕んでいる物、事、と
『どう向き合っていくのか?』
は、自分がしっかり見極める必要があるんだと、目を覚ませる人が1人でも増えますように祈っています。
RASが強く働く人はきっと、
[物、事、には複数の要素が混在している]
という捉え方が苦手な人が多いのでしょう。全員でもないとも思いますが。
先程の例え話でいえば、
・人里を荒らした鬼
・鬼の住処を荒らした琴三郎
どちらが悪いかで議論しがちな人は多いです。
どちらかが正義で、どちらかが悪でなければならない、そんな世界観の人は結構います。
まぁ、この例え話だと、喧嘩両成敗という概念から、
「どっちも悪いでしょ。」
と、言う人も多いのかもしれませんが、世の中で浮上する様々な問題においては、必ず"いずれかが"悪にならなければいけないと思い込んでいる人、結構いるんですよね。
本当にどちらかに、法を犯すなど何かしらの落ち度がある場合であれば、キツい口調で責め立てたくなる気持ちも、まぁ……分からなくもない部分はあります。
ところが、善、悪、が全く関係ない、マジョリティとマイノリティに分かれただけの場合でも、マイノリティを悪として撲滅させようとする意識になる人、以前はよく見掛けた気がします。(さすがに最近はもういなくなった…よね?少なくとも私の周りには今はもう見掛けなくなりました。)
マジョリティとマイノリティが同時に存在することを頑なに許せないような人、いたんですよね。
私は、↑こういうタイプを見て、
『何で昔の人は意見が揃ってないと気が済まないんだろう?』
という風に疑問に感じていたのですが、先日の気付きを元に
『揃ってないと気が済まないというか、相反する意見が同時に存在できる、という世界観を理解できない人が多いのかもしれないなぁ。』
と考えるようになりました。
今となっては、
『脳の機能のせいで理解できてない節もあるかもしれないのか!』
と理解できたので、少々心を広く持てますが、
[意見がマイノリティなだけで激しく責め立てる]
なんて行為、結構モヤモヤしてたんですよ。
『マジョリティはマジョリティのやり方、マイノリティはマイノリティのやり方でそれぞれ自由にやれば良いだけじゃん!なのに何でわざわざ意見揃えないといけないの?!』
と、何故マイノリティ側に嫌がらせをするのか納得できなかったのです。
その辺の不和の原因がちょっと見えた気がしました。
こんな感じで、相反する意見が同時に存在できるという感覚が分からない人から、私は非常に攻撃を繰り返されて参りました。何故ならば私はマイノリティになってしまう経験が多かったからです。
そう。今となっては、
『脳の機能のせいなら、しゃーないかも。』
と、思える余地も出てきましたが、かつては、
『マイノリティっていうだけで嫌がらせされる…。』
という風に感じていたので、
『コイツら、何でこんな性格悪いん?!』
の、ように、結構恨んでました。
恐らく、私と似たような苦い経験した人も結構いるんじゃないかと思うんですよ。
だから、意見を統一させないと攻撃的になる人が、何故そうなってしまうのか、という点をこうして書いておくことで、少しは気が晴れるのではないでしょうか。
あれ、嫌がらせじゃないらしいですよ。
私は、世の中に不幸が蔓延する根本の原因って、
[自由に選択肢を選べないこと]
なんじゃないかと思うんです。
お金の存在しない地域で生きることも選べたりしたって良くないですか?
学校なんか行かなくても生きられる選択肢を選べたって良くないですか?
納税しない代わりに社会の様々な恩恵受けない、っていう選択肢があったって良くないですか?
何故、みんなで同じ生き方をさせられなきゃいけないのでしょうか?
安全のための柵が檻になるべきではないと思いませんか?
制度や法を色々変えて、何でも自由になるのは、あまりにも無法地帯へのリスクがあり過ぎて、現実的な話ではないと思います。
ただし、様々な意見、考え方に対して
『まぁ、色んな考え方の人が存在するのは当然だよね。』
と、
【"自分が認められない意見"を攻撃しない人】
が沢山増えることは必要です。
脳の機能ごときに支配されていてはいけません。
私は、マイノリティの意見を持ってしまっただけで攻撃を受けたことがある人が、そのトラウマに負けずに堂々と自分の意見を発せられるようにいて欲しいと思っています。
何よりもたかだか"他者の"脳の機能に支配される人が減ることを祈っています。
そのために、もっと
『異なる意見同士が同時に存在していて良いんだ。』
と解っている人の人数が増えますように。
表裏一体が当たり前である世の中となりますように。