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南無阿弥陀仏症候群


前回洗濯の話を書いたから、洗濯の例えから入ろうかな。

例えば、私たちの日々の生活で
[着用した衣類を綺麗にすること]
が重要であり、目的じゃないですか。

でも、そこで、
[洗濯機を回すこと]
を重要視してたら、それって少し変ですよね?着た服が綺麗になろうとなるまいと、
『とにかく洗濯機で洗われていればそれで良い。』
という感覚です。

こうして文字に起こすと、後者が変であることがすんなり理解できる人はほとんどだと思うのですが、案外、日々の生活で後者の感覚に偏ってる人って多いんですよ。手洗いで洗濯することに対して
「手洗いなんて綺麗にならない!」
と、怒ったり、洗剤が足りなくても
『まぁ、洗剤はちょっとでも入ってれば良いでしょ!』
なんて、洗濯機を回すことを優先してしまうような考え方になってしまう人、結構いるんです。



これは洗濯に限った話ではなくて、本当に様々な場面で
[○○を目的に□□すること]
ではなくて
[何が何でも□□する]
という感覚で物事に取り組む人は驚く程多いんですよね。特に、日本の文化ではそういうマナーやエチケットが根付いてしまってるものも結構多くて、ツッコミどころは満載なんです。

私はブログで
「マナーや周りに気を配るのは一部大事だと思いますよ。」
と、よく書いてきていたと思いますが、それは
本質を見極めて相手のためになる行為を選べることが大事だよね?」
と、言いたいだけであって、
「△△の場面では必ず◆◆しなさい!!!」
と、いった系の教えに対しては正直、

『ばっかじゃねーの。』

って思ってしまうことも多いんですよね。

多分、私のブログをよく読んでくれてる皆さんは、私の言いたいことが伝わる側の人だと思うんですけど、生きてると、まぁまぁ
「じゃあ結局、マナーは守れば良いのか、守らなくて良いのか、どっちなの!?」
みたいに、話にならない人もいるんですよ。↑この手のタイプに上手く教える術を私は知らないから、たまぁ~に頭を抱えます。時間がある場合は懇切丁寧に説明できるけど、そうじゃないときは
「もう、好きにしろよ。」
って丸投げになってしまいます。

こうして、私が変なことを言ってるように捉えられてきた経験もちょいちょいあるから、この話題は色々とモヤることが多いんですよ。



話は変わりまして、昔
「「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば、死んだ後に極楽浄土へ行けますよ。」
と、いう教えが広まったこともあったといいますよね。

これは、読み書きを習得していない、できていない民衆が
「お経を自分で唱えられない自分たちは、極楽浄土へは行けないのでしょうか…。」
と、悲しんでいたところに与えられた手助けです。現代のように修学システムの基盤が整っていなかった時代の、一般庶民のための救済ということです。

識字率がほぼ100%である現代の日本という国において、信仰心高く、
『少しでも学びたい。』
と思っている人がいたとして、その人が
『じゃあ、「南無阿弥陀仏」さえ言っておけば良いよね。』
という考え方をすること。それは、かつての一般庶民、一般庶民を助けるために起こしたムーブメントを愚弄する考え方でもある、と、振り返ってみることも一部必要なことだと思いませんか?

現代の、ほぼ100%の人間が学校に通える、学びを得られるような環境に身を置いていて、更に
『学びたい。』
と思う気持ちが少しでもある以上、南無阿弥陀仏より先へ学びを進めていくのが筋だと思いませんか?

私個人は、
『学びたい。』
と思っている人、興味を持ってる人なのであれば、
[その人自身のペースで一歩一歩、先へ進もうとしないこと]
は、
【かつて学びたくても学べなかった側の人への愚弄】
にあたるとも思っているので、

「学ぶのを止めるか、先に進むか、どっちかにしなよ。」

という気分になるんですよね。だから、
「自分はスピリチュアルに精通しています。」
って言っておきながら
「「ありがとう。」さえ唱えとけば良いから。」
「この開運日に▲▲さえしておけば良いから。」
の、ような言動をする人に憤りを感じる部分が多いんですよ。
『そういう態度、一部の先人に対して失礼過ぎない?』
って。恵まれた環境にいることに気付かず、胡座をかいておきながら
「「ありがとう。」を言いましょう~。」
なんて、ナメ過ぎだろ、って笑



スピリチュアルでお金を稼ぐことは悪ではないんですよ。生活するためにお金が必要な世の中において、生きるためにお金を得る手段がスピリチュアルを介する方法であることに、何の問題も無い訳です。

ですが、
「みんなでこれを言いましょう~。」
「ムーブメントを起こしてみんなでハッピーになりましょう~。」
の、ように特定の世界観の中に囲い込む手法は、それはスピリチュアルじゃなくてお金儲けのやり方なんですよね。それを
「この言葉を唱えることがスピリチュアルだから~。」
って言ってるからおかしなことになるんですよ。分かってやってるならまだしも、スピリチュアルと金儲けの区別も付けられないで
「これがスピリチュアルです~。」
って言ってる人間は質が悪いと私は思います。それを唱える人も、乗せられる人も、自分を振り返った方が良いと思います。



例えば真っ暗闇で、何にも見えない中で歩くのって物凄く怖いですよね。そっと、一歩一歩、確かめながら歩みを進めないと、なかなか進めないものなんじゃないでしょうか。

そんな中で、先人が小さな光を点々と残しながら進んでくれていたことで、後続の人々が楽に進める道もあったりします。

自分の光の灯し方を教えてくれる先人もたまにいます。

と、いう中で、1ヵ所に強めの光をしっかり灯して
「皆さん、ここに居れば安全ですよ!」
って閉じ込めるのがお金儲けの真髄です。古い時代のスピリチュアルも、そういう手法を取らざるを得なかった部分も大きいのでしょうね。情報が廻りにくい場面では一定の世界観を一定期間強く唱え続ける必要があることも凄く分かります。

でも、本当に私たちに必要なことは、道を進み続けることなんですよね。立ち止まるときがあるのも当然。振り返ることがあるのも当然。それでも、進むことを前提にしてるから、立ち止まれるし振り返ることができるんだって、頭の片隅に思っておくのも大事です。それを特定の世界観に縛り付けて他人を進ませないようにする行為なんて、嫌がらせでしかないじゃん、と私は思います。お金儲けだけを考えてる人がそういうことをやるのは、まぁ仕方ないというか、多分、そういう人たちにはそれが悪いことだって分からないんだろうなぁ、ということは分かるんですよ。でも、スピリチュアルを謳う人間、
『助けになりたくて…。』
と考えてるような人間がやるのは違うでしょ、と思うんです。

救いたいなら囲うな、囲うなら「救いたい。」とか言うなよって。




また、ちょっと洗濯の例え話に戻るんだけど、私は衣類を綺麗にしたいんですよ。衣類が綺麗になるなら、洗濯機を回そうが回すまいが、何でもいいんです。
「洋服が綺麗になるなら、方法は何でも良いよね◎」
って考えるタイプです。

でも世の中には
洗濯機を回しなさい!」
って、方法に拘る人が結構多くて、
「いやいやいや、方法を縛るなよ!」
って言っても、一筋縄で伝わらなかったりするんですよね。

こういう、方法に拘る類いの人間、しかも、特に、特定の方法をやらないことに過剰に怒るようなタイプって、
『自分の知ってるやり方以外の方法で洗うと、どうなるかな?』
って、これまでと違う方向に思考を廻らせることを極端に嫌う人が多いんですよ。考える能力が無い人よりも、考えることを拒む人が圧倒的に多いんです。

考えることを拒む人は、恐怖心が強い人とか、勉強コンプレックスが強い人とか、先天的な能力の特性とか、まぁ色々いるんですけど、とにかく思考停止を止めたがりません。

自分が思考停止を続ける分にはご自由にどうぞ、なんですけど、それを
「考えるお前が悪い!」
「そんなこといちいち考えるな!」
って、他人に当たり散らかすのは、まじでいい加減にしろよ、と私は思うんです。ただのチキンの癖に粋がってんじゃねぇよコノヤロー、と、思うんですけど、それが伝わらないから、私どうしたら良いのか分からないんですよね。最近会うことは無くなったけど、過去のモヤモヤがずっと地味に残っててさぁ。悩んでる訳でもないけど、
『どう対応するのが正解なんだろうな?』
ってちょっと考えてしまったりもします。まぁ結局
『もう、そんなヤツら知らんがな。』
で、終わるんですけどね笑



スピリチュアル界隈でも、自分の思考停止の言い訳に【スピリチュアル】を活用しちゃってる人間が結構多いし、しかも、優しさだと称して
「考えなくて良いんですよ~。そのままの自分で~。」
とか、人の成長を食い止めるような考え方、発言になっちゃってる人も多いから、見ててモヤりますよね。
『焦らせる必要はないけど、前に進むための進み方を教えてやれよ。』
って気持ちになります。あと、さっき書いたように、
『現代みたいに伝達手法が充実してなかった時代の先人たちの創意工夫を愚弄してんじゃねーよ。』
って気分も湧いたりします。

ほんでその、"優しさ"が、廻り廻って私を傷付けまくって、足を引っ張りまくってきてたから、

『スピリチュアルを体の良い言い訳として活用してきた人間全員にバチが当たれば良いのに。』

と私は密かに呪っております。



日本人はね。
「愛情だ。」
って称して他人を呪ってることが多過ぎるんだよ。長い歴史の中で色んな教えが色んな方向に屈折しちゃったのは仕方ないとは思うけど、人を救うための教えだったはずのものが人を縛ってしまう呪いに転じてしまった色々は正すものは正していかないと、誰も報われなくなるからね。たまに気を付けた方が良いんじゃないかな。

家畜の鶏にとって鶏小屋は安心・安全な家かもしれないけど、野生のカラスに小屋を作ったとしたら、それは檻でしかなくなります。

本当にさぁ。どんな鳥であっても全ての鳥に対して
『小屋がある方が幸せに決まってる!』
って、押し付けたり、意見を集約させようとし過ぎなんですよ。色んな場面でね。

社会生活を送る上では確かに、ある程度の規範があることが多くの人を救ってはいるんですけど、それを【スピリチュアル】を謳う側の人間がやるのは違うんですよね。個々のスピリットは自由なんだよ。個々に違いが無いのなら、この世に別個体として誕生する必要なんて無かったんだよ。なのに、孤独への恐れを"優しさ"と称して
みんなで一緒にやりましょう~。」
って転換して唱えてたら、その歪みによって誰かが傷付いてしまう可能性があることは本気で知って欲しいですね。

そして、何故私はこういう歪みの被害を受けやすかったのか…本当に悔しい気分に苛まれるんですよ。たまに。最近はほぼ無くなったんですけど、ちょっと思い起こされてさぁ。



現代の日本人は、義務教育の制度とかが整ってて、ほぼ全ての人が勉強できる世界の中で生きてる訳じゃないですか。逆に言えば勉強しなきゃいけない、ってマイナスな側面も孕んではいるけど、確実に、『学びたい。』と望んだなら、それが簡単に叶う世の中ではありますよね。

そういう世の中に生きていながら
「これさえ言っておけば良い。」
「これさえやっておけば良い。」
って何でもかんでも言動を制約しようとすることが
『先人たちに対して失礼なことなんだな。』
って、ちょっと振り返ることができる人が1人でも増えていけば、道楽者の足蹴にされる人も少しずつ減らしていけるんじゃないかな、って私は考えてます。

いい加減、
・やってるフリ
・分かってるフリ
・精通してるフリ
を"演出できる"言葉を唱えるの、止めましょうよ。

しっかり自分の中に落とし込むまで学ぶか、そこまでやる気が起きないってことはそもそも学びたい事柄じゃないってことなんだから、キッパリ諦めることも大事ですよ。何事においても。自分が本当にやりたいことに注力する方がよっぽど大事なので、"フリ"で固めないといけないような事柄からは手を引く方が良いです。本当に好きな事柄なら、一定の段階で留まってないで、一歩でも良いから先へ進まないと。自分のペースでそれぞれのんびり進めば良いじゃん。一定の段階で「みんなで一緒にやりましょ~。」って固まってるから後続の邪魔になるんだ、って気付かなきゃいけない人は本気で気付かないとダメだからね。

まぁ………↑こういうことが本当に伝わるべき相手には私の話なんて届かないんだろーけどね笑

どんまい私!



私の小学校1年生の頃のエピソードなんですけど、私、めちゃくちゃ身長が高かったんです。小学校2年生とか下手したら3年生と同じ位に、体が大きい子供でした。でも、私と同じ位に体が大きい子が他にもいて、その子と休み時間に遊んでたときのことです。

その子が、
「ねぇねぇ、この遊び知ってる?」
って、私の顔をパンチしてきたんですよ。
『え?パンチする遊び?何それ?知らないんだけど…痛いし…何が楽しいのか分かんないけど…私もパンチすれば良いってこと?』
と思って、
「え?分かんない。けど、こうしたら良いの?」
って、私もその子にパンチしたんです。当然、思いっきりではなく、私が受けた程度と同じ位になるような力加減を心掛けました。

そしたら、相手の子が鼻血を出しちゃったんです。

そうして、周りから責められまくったんですよね。

『いやいや、先に殴られたの、私なんだけど!!!』
って、泣くしかありませんでした。

誰かが担任の先生を呼んできてくれて、事情聴取開始です。

結果、先に私のことを殴ってきた子は、
【殴るフリをして目の前で寸止めする、それにビビって目を瞑ってしまったら負けゲーム】
をやろうとして、ミスって私に当たっちゃったらしいんですよね。

でも、そんなゲーム知らなかった私は
【殴るゲーム】
をしなきゃいけないのかと思って、痛みに耐えながらしぶしぶ殴っただけなのに、悪者扱いされて、本当に腑に落ちない気分だったんですよ。いきなり訳も分からない状態で、先に殴られたのは私だったので。

その後先生は私たち2人に
「2人とも体が大きいんだから、誰かを傷付けるような遊び方しちゃダメだよ。」
と、いう風な注意をしてその場を収めました。当時子供ながらに、

『分かるし、そうなんだろうけど、そこじゃないよね?!』

と、何とも言えない後味の悪いモヤモヤが残ったものです。当時は上手く言葉にできませんでしたが。

私はどうもそういう経験が多いんですよね。先に傷付けてるのは相手の方で、私は相手の行いをそっくりそのまま返してるだけなのに、私が悪者のような状態に追いやられてしまうこと。私の行動だけを切り取って、私を悪者だって責め立ててくるような単純b洞察力が少々足りない人、結構多くてビックリします。昔は小学生だったから、周りもみんな子供だから分からなかったのかと思っていたのですが、大人になっても、表面的にしか捉えない人が結構存在していて、閉口せざるを得ないことがまぁまぁあったので、色々と思うことが積み重なってきてました。



[先に誰かを傷付けてしまったこと]
に気付かず、それを棚に上げて、自分の行為を返されただけなのに
「自分は被害者だ!」
って、喚く人も多ければ、
[起きてしまった問題事の本質はどこにあるのか]
を見極めようとせずに、目に止まった相手をここぞとばかりに責め立てる人も多い。

人間なんて、悪魔に取り憑かれてる人数の方が多いんだよ。



極楽浄土を目指すことも大事なんだけどさぁ、他人を地獄へ引きずり下ろすことを止める思想も広めないといけないと私は思うんですよね。日本は特に。

阿弥陀様に頼る前に、自分の行いに意識を向けられる人が増える方が大事ですよ。今の時代は特にそうです。

今度もう少し別の角度からの話で説明を詳しく書きますが、今回の話ではとにかく

「『体裁だけ整えておけば良い。』という考え方からは離れて行きましょうね。」

という点が伝われば万々歳です。

必要な人に届きますように。

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