分離って一周回って…
前の記事と同じというか、逆サイドの話というか…の話です。
スピリチュアル系な話の中で、
「本来、人々の魂は全て1つで、そこから別れて(分離して)私たち個々として地球上に生まれている。」
と、いった風な世界観が語られることがよくあると思います。実際、そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないし、真実を確認することも証明することも難しいことだけが事実ですよね。
この世界観の話の中だと、
「だから、他人も元々自分と同じなんです。」
と、いう話に結び付いていくことが多いのですが、そうやって"他人"と自分を同一視するような話へと転じていくと、結構不和を生みやすいように私は感じています。
「他人も自分なんです。だから、許しましょう。」
↑どうしても許せない人は苦しくなるだけです。
『いやいや、他人と自分が同じ訳ないじゃん!』
↑ワンネスの感覚が全く分からない人にとっては反発心しか感じられなくなります。
「元々同じなのだから、争いを止めましょう。」
↑本当に同じなのであれば、そもそも意見は分かれないし、争いにも発展しないはずです。
他人と自分を同じだと見なそうとする話には、不快感も付きまといやすいものなのではないでしょうか。少なくとも私は、他人と自分を同一視する系の話は嫌いです。
と、言いながら、
「多分魂の元を辿っていけば1つだった。」
と、いう類いの話も、
「他人は自分を写す鏡である。」
と、いう類いの話も、私は本当だと信じているので、この辺りの話の核に迫るような話を書きます。
そして、行き着く結論として
「ハイヤーセルフ(高次元の自分や、自分自身の神様)と、自我の自分が分離してしまった世界の中に、私たちは生きていて、それらを統合させることこそが、ワンネス意識に目覚めるってことなんだよ。」
っていう部分に着地させるので、興味ある人は1個1個、話を整理してみながら読んでみてくださいね🙃
例え話から入ります。
ブラジルにブルボンという種のコーヒーの木があったとします。その木から採れたコーヒー豆を昨年買ったとしましょう。それらの豆の内の1粒をAとします。
今年もまた、同じ木から採れたコーヒー豆を買い、その内の1粒をBとします。
AとBは、当然別物ですよね。
また、昨年においては、【深煎り】でコーヒーを飲むことにハマっていたため、Aを深煎りした状態でコーヒーにして飲みました。
今年は【浅煎り】でコーヒーを飲み比べることにハマったので、Bは浅煎りの状態でコーヒーにして飲みました。
そうなると、AとBはそれぞれ、全く別の味として体感したことになりますよね。A入りのコーヒーと、B入りのコーヒーは完全に別物になります。
上記の例え話の、初めに出てきたブルボンの木が、スピ系の話で語られる【ソース】に当たります。コーヒー豆は私たち【個人】ですね。
同じ木から採れた時点で、確かに同じ【ブルボン】という種のコーヒーで、味も基本は同じです。ですが、豆1つ1つは別個体、更に、煎り方をはじめとして、扱い方次第では全く異なる味わい方ができてしまいます。
・昨年深煎りで楽しんだ味わい
・今年浅煎りで楽しんだ味わい
これらを比べて、違いを楽しむ時に
『この豆はブルボンなんだからどっちも同じものだ!!!』
っていう話、事実ではあっても、今は必要無いじゃないですか。
地球上、あるいは現世と呼ばれる世界観においては、このコーヒーの味の違いを楽しむ段階と同じように、
[私たち人間の個々をそれぞれ楽しむこと]
が重要なのであって、その個々が同じソースから派生しているとかしていないという話は、重要じゃないんですよね。
「私たちは、同じブルボン種なのだから、同じ味として皆さんの口に届かなければならない!!!」
って、頑なに味が変わらない豆がいたら嫌じゃないですか。
『いや、そこは色んな煎り方、挽き方、点て方…それぞれ楽しませてくれよ😦』
って思いませんか?
個を楽しむ上では、"元"が同じかどうかという点は放っておいて良い話なのです。
前回の話では、
『自分と他者は同じはず!』
ではなくて、
『他者も自分と同じかもしれないな?』
という方向性で捉えてみることの重要性がワンネスの感覚を大事にすべき理由なんじゃないかと思う。
と書きました。
この点をコーヒーで例えるなら、
『自分が好きなコーヒーはどういうコーヒーなんだろうな?』
って、探ってる時の感覚が大事なんじゃないかと思う、という話になります。
『自分が今飲んでいるコーヒーが、美味しいと思うか、美味しくないと思うか?また、前回飲んだ、違うコーヒーと比べて、今回の方が好きか、嫌いか。前回との違いは?共通点は?前々回や、前々々回と比べたら?………』
こういうことを自分の中で探っている時って、
『今飲んでいるコーヒーは、前回の物と同じはず!!!』
なんて先入観からは探り始めないじゃないですか。
『違うだろう。』
っていう予測を前提として、自分が好きだと感じる要素を見付けたときに初めて
『これはもしかすると…煎り具合が前回と同じなのかもしれない?』
の、ように共通点が見付かるものですよね。
『自分はXXという豆が好みなのかもしれない。』
『自分は○○な煎り具合が好きかもしれない。』
『自分は◇◇産の豆が好きな傾向が強いなぁ。』
『自分は△味の方が好みだなぁ。』
自分の好みのコーヒーを探る上では、『コーヒーなんてどれも同じはず!』
っていう先入観は邪魔なだけですよね。これと同じように、自分にとっての幸せな人生を見付けていく上では、
『他の人も自分と同じ意見のはず!』
っていう先入観を持ったままだと上手く探せない側面があるんですよね。必ず、
『他の人は他の人で意見は違うだろうけど、共通する点は何だろう?』
の、ような感覚で他者と接した方が、他者との会話の中から自分にとって必要な意見を見付けやすくなるものです。
これもある意味他者を鏡として観ているのと同じような感じではあるんですよ。朝起きて、鏡を見た瞬間、とんでもない不細工が写ってたら、ハッとして顔を見映えの良いように整えていくじゃないですか。
【理想とかけ離れてる自分】
を
【理想の自分】
に近付けていくとき、
[理想と異なるポイントを見付けて、理想に近付けていく]
って方法を取りますよね。
【意見の異なる他者】
と話していて
【自分と共感する意見】
を見付けたとき、
[自分が求めてる方向性が見える]
みたいな感じなんです。
だから、
『自分がこう思うのだから、相手もこう思うに決まってる!』
っていう先入観を持ちながら生きてると、自分の可能性を引き出しにくくなるんですよね。
「他人は鏡。」
って、人間の感覚的に捉えると、半分正しくて半分間違いって感じなんですよね。
子供の頃を筆頭に、人生経験が浅い、あるいは精神年齢が幼いようなときに出会う【嫌な相手】って、完全に自分を丸写ししてることが多かったりします。あるとき
『あ、あの嫌な人と、自分も同じことしてたわ…。』
って、身につまされることは大いにあり得ます。
少し精神性が高まってくると、さっき書いたように、他者と自分の違いが見えるから、その差を元に自分の望む方向性を測れるようになってくるんですよね。ただし、そういう測り方をする際、
『幸せとはお金が沢山あることだ!』
『結婚しなければ、幸せになれない!』
みたいな、世の中から思い込まされてる幸福像を頑なに抱き続けてると、他者との比較が嫉妬に結び付きやすくなってしまうんです。だから、自分の中の固定観念がある程度外れていないと、自分と他者の差を比べて自分の望む方向性を見出すやり方が難しくなる訳です。
本来、
上手く【他者と自分の差】を活用できない(嫉妬ばかりに結び付いてしまう)
→自分の観念を見付けて手放す
のが理想のところ、
上手く【他者と自分の差】を活用できない(嫉妬ばかりに結び付いてしまう)
→『比べるのが間違いなんだ、ワンネスなんだからみんな一緒だよね!』
などと、
・嫉妬心を手放せない自分
・固定観念を持ち続けてる自分
を一切見ようとしないで、"それっぽい"言い訳を並べる
という風にスピリチュアルを活用してる人も沢山いるから、世の中では色々な話が拗れている側面もあるのです。
他者と自分は違います。違うけど鏡に写ってる…みたいな感じですね。ですが、固定観念が強すぎたり、ダメな(だと思い込んでいる)自分を頑なに認められない人には、この部分は絶対に通じないんです。だって、差があることを認めてしまったら、自分がダメだってこと認めなきゃいけなくなりますからね。本当はダメっていうジャッジがそもそもの間違いでもあるんですけど、『自分で自分をダメってジャッジしてる』ということすら認めるのを怖がる人も結構いるから……通じない人には通じないのも知ってます。
そして、人間の感覚だと、
『鏡に写り込んだ他者は他者じゃん。自分じゃないじゃん。「他人は鏡」じゃないじゃん。』
って、気分になるのは、きっと私だけじゃないはず。だから、「他人は鏡」って言い方は間違ってるような気もしてしまうよね。言いたいことは分かってるんだけどね。
自分が幸せか、幸せじゃないか、を決定付けることに他人なんて無関係なんですよ。本来は。
でも、人間の感覚だとどうしても
『あの人のせいで自分は嫌な思いをする羽目になる!』
とか
『あの人さえいなければ、自分はもっと楽なのに…!』
って感じてしまいやすいものですよね。
他者に対して苛立ちを感じる原因の多くは
『何で、解ってくれないの?!』
『何で、伝わらないの?!』
みたいに、自分と他者の違いによる"通じなさ"じゃないでしょうか。皆さんはどうですか?
私が他人に対して苛立ちを感じる原因の多くは、その"通じなさ"なのですが、この、
『通じなくてムカつく!!!』
という感情が生まれる原因を深く探っていくと
『ハイヤーセルフの意見が自我の自分に伝わらなくてムカつく!!!』
の、せいで起こっていることが結構あるんです。現実世界に現象として起こる【他者との不和】は、即ち【ハイヤーセルフと自我の不和】のせいであることが少なくないんですよ。【ハイヤーセルフと自我の関係性】が【現実世界の他人との関係性】として反映されることがしばしばあるということです。
当然、人間関係の不和が起こる理由は様々あって、全てが【ハイヤーセルフと自我の関係性】のせいではないんですけど、
『もっとハイヤーセルフと繋がってよ!!!』
ってアプローチを顕著に【他者との関係性】として現象化してきやすいのも事実なので、本当に気を付けた方が良いですね。裏を返すと、ハイヤーセルフと自我の自分が良好な関係性を築けていれば、その分の"嫌な現象"は起こらなくなるということでもあります。
ハイヤーセルフと自我が一致してないから、人間関係の不和という現象が起こる。
ハイヤーセルフと自我が一致していると、人間関係が(一部)平和になる。
明らかに、まずハイヤーセルフと自我、つまり【自分】を一致させることが非常に大切ということです。世界や世の中を平和にするには、ハイヤーセルフと自我を統合させることが必須条件なんです。
ハイヤーセルフと自我を統合させるためには、他者なんて無関係なんですよ。ただし、他者との関係性を観て
『あ、ここがハイヤーセルフと自我のズレてるポイントだな。』
って判断ができるということなので、そういう意味では他者と自分を観察することは必須です。他者だけを監視することには何の意味も無いですが。
ハイヤーセルフと自我が完全に分離した状態のまま過ごすと、【目の前に起こる嫌な事象】は、災難にしか感じられなくなるんです。
そこから、ハイヤーセルフと自我を統合させていくにつれ、【目の前に起こる嫌な事象】は自分が進むべき方向性を示してくれる座標の役割でしかなくなっていくんです。
『こんな嫌なことがあった…最悪だ!』
『こんな嫌なことがあった…これが嫌だということは、こうなって欲しい!よし、そっちを目指そう!』
両者がそれぞれ進む未来が明らかに異なるということが想像に容易いはずです。
自分が嫌だと感じた事象に対して
『災難だ!』
と、モヤモヤしていても、そのモヤモヤは何も生みません。それどころか、また似たようなモヤモヤを引き寄せるきっかけになる可能性すらあります。
一方で、
『目印だ!』
と捉えるようにすることは、自分が進むべき方向性を見付けやすくなるということなので、仮に嫌なことが起きたとしても
『あ、また自分の指標を示してくれたんだね、ありがとう!』
と、無理することなく感謝すら湧いてきたりもするんです。そんなメンタルでい続けられたら、そりゃあ幸せな方へしか進めないと思いませんか?
「ハイヤーセルフと自我の分離を止めましょう!」
って、堂々と思えませんか?そういうことなんだな。って、最近腑に落ちてるんですよね。
確かに、
「ソースからそれぞれの魂が分離した」
って話も
「ワンネスの意識に繋がって愛ある選択を…」
みたいな話も、多分間違ってる訳じゃないんですよ。
「でも、そこじゃないよね?」
って話で、
「分離してしまったハイヤーセルフと自我をまた1つに統合させて自分の内なる平和を構築し、自分の平和な心、意識を現実世界に反映させていきましょう。多くの人がそれに取り組むことで、世の中もどんどん愛の世界へと変わっていきますよ。」
って、それだけのことなんです。
なのに、私は変にスピリチュアルな話を調べ過ぎたせいで、意味が分からないまま若干遠回りしたな、って思いがちょっとあって。だから、スピ難民の皆さんを正しい方向性にショートカットできる話を書いておこうと思いました。本当に、世の中に溢れてるスピリチュアルな話、知らなくても全然良かったわ、と、私は思うので、迷走しなくて済む人が1人でも増えたらいーなって思ってます。
本当、
遠きを知りて近きを知らず
は良くないよね。
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