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正も負もない
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「人生では、良いことと悪いことが半々になるように起こる。」
っていう言葉、あれ、嘘だから信じちゃダメですよ。
イメージから入りましょう。
100円玉をイメージしてください。
100円玉って、【100】という数字が書かれた面と、【桜の絵柄🌸】が描かれた面がありますよね。
・【100】と書かれている面
・【🌸】が描かれている面
皆さんはどちらが表か分かりますか?
答えとしては、【🌸】の面が表とされているのですが、【100】と金額を示してくれている面の方が馴染みがありませんか?【100】の面の方が【100円玉】を表してくれているような感覚になりませんか?
小銭の表・裏の概念というものは、なかなか微妙な話なのではないでしょうか。
100円玉で支払いをする際、「【100】の面が表に向いていますので、こちらではお支払いいただけません。」
なんてこと、絶対にあり得ないじゃないですか。【100】の面が表を向いていようと、【🌸】の面が表を向いていようと、【100円玉】として受け取って貰えて、支払うことができますよね。
【100】の面、【🌸】の面、両方揃って【100円玉】だし、【100】の面が表を向いていようと【🌸】の面が表を向いていようと、【100円玉】は【100円玉】でしかないんです。
現実的にはあまり無いかもしれませんが、財布からパッと出した100円玉が【100】の面を向いていたときに、
『うげぇ💦【100】の面じゃん…ショック…。』
と思ったり、【🌸】の面を向いていれば
『お❕【🌸】の面じゃん、ラッキー🎶』
と思ったとしましょう。
このときに、『ショック』か『ラッキー』かを判断してるのは自分でしかないですよね。
【100】=『ショック』
【🌸】=『ラッキー』
と定義付けているのは自分でしかないし、
[どちらを向いていようと、【100円玉】として支払いに使用できる]
という事実に変わりありません。
だから、現実世界で生きていて、いちいち
『【100円玉】が【100】の面を向いているか?【🌸】の面を向いているか?』
などと気にする人はあまりいないはずです。
本来、人生を生きる上で、【目の前に起こること】も全く同じなんですよ。
[1人の人と縁が切れた]
ということが起こったとした場合に、
『友達が1人減った。』
と捉えるか、
『悪縁を断ち切れた。』
と捉えるか、それは人それぞれの感覚の匙加減によって変わります。
また、
『友達が1人減った。だから悲しい。』
と捉えるか、
『友達が1人減った。また新しい友達を作ろう。』
と捉えるか、これらも人それぞれ異なりますよね。
『悪縁を断ち切れた。なんで今までこんなに長くかかったんだ、クソ💢』
と思うか、
『悪縁を断ち切れた。やったーーー!!!嬉しいーーー!!!』
と思うか、これらも人それぞれ異なりますよね。
自分がどう捉えて、何を感じようと
[1人の人と縁が切れた]
という事実だけが存在しているのです。自分のジャッジを除いてしまえば、
[1人の人と縁が切れた]
という出来事自体に善も悪もありません。
スピリチュアル界隈で、【アルコン】や【闇の勢力】などと呼ばれているような存在、あるいは【悪魔】と呼ばれるような存在でも良いのですが、こういう存在達が、私たち人間に対して
『【起こった出来事】に対して、ネガティブな意識にばかり傾くようにしてやる。』
と、働きかけているんですよ。
↑この部分を信じたくない人は信じなくて良いので、とりあえずフラットに読み流しておいてください。
100円玉で例えてみます。
普段、財布から出した100円玉が【100】の面を向いているか、【🌸】の面を向いているか、100%確認している訳ではない。それなのに、たまたま自分が見る100円玉の向きについて、
『自分は【100】の面ばかり見るなぁ。』
と思い込ませるのも、悪魔の所業。
「【100】の面は、ツイてない面なんだ。」
という噂を蔓延らせたり、その噂を聞いた人が
「そうなんだ💦」
と、信じ込むように仕向けるのも悪魔の所業。
『ツイてない【100】の面しか出さない自分は、とことんツイてない人間なんだなぁ。ショックだなぁ😔』
と考えるように仕向けるのも悪魔の所業。
『【100円玉】は【100円玉】でしかなく、どちらの向きであろうと支払いに使用することができる。』
という事実から目を背けさせて、
【個人個人がネガティブな意識になるジャッジ】
ばかりにフォーカスを当てさせるよう仕向けるのが悪魔のやり口なんですよ。
で、悪魔に魂を売ってる人間は、他人に対して
【個人個人がネガティブな意識になるジャッジ】
ばかりにフォーカスを当てることしかできなくなるように洗脳する
ということをやるんです。
冒頭に書いた、「人生では、良いことと悪いことが半々になるように起こる。」
という言葉も、悪魔憑きによる言葉だから、信じない方が良いのです。
そして、この【悪魔】という存在は、【遺伝子のバグ】や、【脳のゴミ】と置き換えて考えても問題ありません。自分がスッと伝わる言葉に置き換えてイメージしてみてください。
先程説明したように、本来、
【目の前に起こる出来事】
は
『表裏一体で存在しているけど、【目の前に起こるただの出来事】でしかない。』
ものなんです。
表裏、これを
『善か?悪か?』
という視点で見ようとしているのは個々の主観によるものでしかなく、本来は、表は表、裏は裏でしかありません。
起こった出来事に対して、
『表が出たな。』
『裏が出たな。』
とフラットに捉えていれば、幸にも不幸にもならないんです。
わざわざ、
『表=善=幸だ!』
『裏=悪=不幸だ!』
などと決めつけていなければ、
『今起こった出来事は、良いことだ!』
『今起こった出来事は、悪いことだ!』
と、一喜一憂することが無いんですよ。
「『表=善=幸だ!』
『裏=悪=不幸だ!』
などとそれぞれ決定付けているべきなのですよ!」
という思想を唱えるのは、悪魔の思想なんです。
これが、旧約聖書の創世記に描かれている、
「蛇にそそのかされて、善悪を知る知恵の木の実を食べてしまった。」
という状態ですね。
エデン、楽園に帰れるのは、【目の前に起こった出来事】に対してのジャッジを無くせる人なんです。
『人生で良いことが起こったのが○○回…悪いことが起こったのは□□回…。』
などと数えている限り、解脱には及ばない、ということは覚えておいた方が良いでしょう。この話に出会ってるということは、そういうことですよ。
人生で起こった出来事に対して、良い面を観るか、悪い面を観るかは自分次第で選べるし、わざわざ良い・悪いと決めにかからなくて良いんです。
そうは言っても、何かが起これば感情は動きますよね。
ただ、感情が動くことと、善悪は別の話であることは解ってなきゃいけないんですよ。
『自分がイラッとしたから、これは悪い出来事だ!』『自分が悲しくなったから、これは悪い出来事だ!』
と結び付けるのではなく、
『この出来事で、自分はイラッとするなぁ。』
『この出来事で、自分は悲しくなるなぁ。』
と、事実だけを観るようにするのが正しい在り方なんですよね。
ですが、悪魔的思想の人々は、私たちに
「『自分がイラッとしたから、これは悪い出来事だ!』とジャッジするようにしなさい!」
「『自分が悲しくなったから、これは悪い出来事だ!』とジャッジするのが賢いことだ!」
って、植え付けてきたんです。だから、なかなか自分の感情とジャッジを切り離せない人が多いのも事実です。そこから抜け出すのは、時間はかかるかもしれません。でも不可能ではないということも覚えておくと良いでしょう。
『自分の感情が善か悪かを決定付けるのではない。』
ということを改めて刻み直してみませんか?
自分の感情が動くということは、その辺の出来事やキーワードにまつわる話題の中に、
【自分が気付くべき何か】
が眠ってるんです。それを探ることに注力する方がよっぽど大切で、
【感情を動かした出来事】
にいちいち八つ当たりの感情をぶつけていても埒が明かないんです。
自分の中にいる悪魔や、悪魔憑きから受けた洗脳のせいで、
『【感情を動かした出来事】がいかに悪いか、咎められるべきか!』
という視点からなかなか抜け出させてくれないことも多いのですが、1つ1つ断ちきっていくことが大事なんですよね。
『今、自分の感情が動いたなぁ。何故動いたんだろう?どうして自分はこのことで感情が動くのだろう?』
と自分にフォーカスを当て直すようにする必要があるのです。ときには自分のトラウマに抵触する内容だったりもするため、自分と向き合うことがとてつもなく怖いように感じる場合もあるかもしれません。そういうときは無理せずに
『とにかく悲しかったよね。』
と、自分に共感を示すこともとても大切なことです。
人は
『みんな、この出来事に対して怒りを覚えるに決まってる!』
のように、他の人みんなが自分と同じ出来事で同じように怒りを覚えるはずだと思い込みやすいのですが、それは違います。
人それぞれ、怒りを覚えるポイントは異なるし、何故怒りを覚えるのか、その理由も人それぞ異なります。だから、自分の中に
『何故自分はその出来事に対して怒りを覚えるのだろうか?』
と自分に集中し直して、怒りを周りに広めない、自分の中で解消させることが大事なんですよね。
怒りなどのネガティブな意識を蔓延させようとするのも悪魔の所業なんですよ。
『みんな、自分と同じように怒りを覚えるはずだ!』
「みんな、腹が立つだろう?!これは由々しき自体だ!みんなで反撃するぞ!」
の、ように怒りのエネルギーが周囲の人々の中に連鎖させる思考になるのは、悪魔、もしくは悪魔憑きからの洗脳によるものがほとんどなんです。
周りを巻き込んで怒りを増幅させることは、正義ではないということ、改めると良いのではないでしょうか。
何故、今更改まってこんな話を書いているのか、という部分の話をしますが、今日の話のテーマが、最近の私のテーマなんですよね。
少し前に
「私は、『自分が本当に欲しいものを手に入れるには、何かしらの代償を差し出さなければ手に入れることができない!』と思い込んでいた、ということに気付きました。」
という話を書きましたが、あれから、
『じゃあ、何故支払いが必要なのか?』
『物々交換ではなく、お金を介するから助かっている、というメリットも沢山ある【お金】とは、どういう付き合い方をするのが望ましいのか?』
の、ような部分にうっすら疑問が残ってたんです。
そしてつい先日、ふと、理解したのでした。
『自分がこの【お米】を手に入れるためには、【お金】を代償として渡さなければならない。』
という心持ちでお金を支払うのも、
『【お米】を私の手で作らずに、脱穀などもせずに、簡単に手に入れさせていただいて、ありがとうございます。これは、ほんの【謝礼の気持ち】です。』
という心持ちでお金を支払うのも、結果は同じだということに気付いたんですよ。
以前までは、
『自分が本当に欲しいものを手に入れるには、何かしらの代償を差し出さなければ手に入れることができない!』
と頑なに思い込んでいたため、このような発想に到れることは絶対にありませんでした。しかし、その思い込みを手放してからしばらくして、
『【お金】を【代償】と決め付けているのは、私でしかないよね。』
ということが解った訳です。そうして改めて考え直してみると、確かに、
『お米を作ることも、稲からお米の状態にすることも、それらを小分け(数キロ単位など)にしてくれることも、大変で手間がかかることなのに、それらを全てやってくれた上で、私は【お金】だけ支払えばそれで手に入るのだから、ありがたいことだよね。その【お礼】として【お金】を渡すことに、苦い気持ちになる要素なんて無いじゃん。』
と、呆気なく腑に落ちたんですよね。
そしたら、
[お金を支払う]
という行為につきまとっていた【苦い念】を完全に打ち消すことができたような気がするのです。
以前から何度も書いてきた通り、これまでも【お金を支払う際の心持ち】にまつわる色んな気付きを繰り返してきて、マスターしていると思っていたのですが、マスターできていなかったことがハッキリ解りました笑
お金は代償なのではなく、謝礼なんですね。
お金だけではないんですよ。
私はこれまでの人生で、本当に苦しくて辛い思いをしながら生きていることが多かったのですが、
『これまで苦労した分を丁度プラスにして0になる人生がこれから待ってるんだ!』
と、いうような考え方にはどうも納得できなかったんです。
『私は絶対にこれから、無限に幸せを手にして良いし、幸福に制限なんて、あるはずがない!』
と、信じてるんですよ。じゃないと、これから生きていこうとは思えないですからね。今までのマイナスを0にする程度の人生しか残ってないなら、私はこのまま人生を終わらせます。
前にも
「自分がいつか落としてしまった1円玉だけで、パラレルワールドを集約させて1億円手元に集めることは可能なんです。」
という話も書いた通り、この世は無限の可能性があるんですよ。幸せの可能性も無限だし、人生や運命なんてものは天秤で量れるような小さいスケールの話じゃないんです。
それなのに、「人生は、良いことと悪いことが丁度半々になるようにできてるから…。」
という言葉を思い出したものだから、つい深掘りしてしまったんですよね。
そんなみみっちぃ世界観の中に生きる必要なんてない。私たちには無限の幸せを追い求める権利はあります。
注意が必要なのは、
「努力してこそ…。」
「苦労してこそ…。」
っていう世界観から抜け出せてない人たちの言葉ですね。この手の人たちの中には、
『自分をわざわざマイナスにおいやってから、それをプラスにするのが好き。』
というタイプも結構いて、"善意のつもりで"他人のことをマイナスにひきずり下ろそうとすることが結構あるからです。
先程例えた、
[1人の人と縁が切れた]
という状況を用いて説明すると、何気なく
「この前、1人の古い友達と連絡取れなくなっちゃってさー。」
と話しただけで、
「まぁ!それはそれは可哀想に、友達を失って辛かったでしょ?辛かったよね?辛いときは無理しないで、良いことはきっとあるから!」
の、ように
①どんな出来事のことも【悪い出来事】に仕立て上げる
②【何かしらの出来事(悪い出来事に仕立て上げた出来事)】を経験した人間は【可哀想な人間】だと決め付けてかかる
③【可哀想な人間】が立ち直るストーリーを夢見ている(もしくは、【可哀想な人間】を健気に支えたアテクシが大好き)
と、ある意味頭の中お花畑なのです。
男性に多いのは、根性論を持ち出してきては、スポ根漫画よろしく
『苦労するときはとことん苦労するべき!』
と、攻撃を畳み掛けてくるタイプですかね?
あの手の人たちは、頑として
「人生では、良いことと悪いことが半々になるように起こる。」
という世界観が大好きなので、無理に改心させようとせず、放置してフェードアウトするのが正解です。
側にいると、【自分にとって何でもない出来事】なのに、
『【悪い出来事】が起きたわね!!!』
と、鼻息荒く、他人を【悲劇のヒロイン(ヒーロー)】として【"慰めてる体の"貶める発言】を連発するので、本当に悪い状態へと落としにかかられますからね。無意識に
『人の不幸は蜜の味。』
と思っている癖にその自覚は一切無く、
『可哀想な人間を放っておけない、心優しい自分!』
に酔いしれているので、あれこそ悪魔の化身なんじゃないかと思います。
「努力してこそ…。」
「苦労してこそ…。」
と唱える割に、本人たちの怠惰さ、苦労耐性の無さにはある意味驚かされます。距離を置くに限りますね。
これも何度も書いてる話ですが、人生で頑張らなければいけないタイミングって、何かしらあるものかと私は思うんですよ。ですが、そういう場合に「努力」も「苦労」もしてはいけないんです。
「精進します。」
という言葉を使って、自分の行いを実りに昇華させていくことが大切なんです。
言霊ってあるんですよね。不思議と。この話を読んでるあなたが繊細だったり、HSP、エンパスである自覚があるのであれば言霊に気を配るだけでかなり生き苦しさから解放されることが増えるので、気にしてみてください。
特に、我々日本人が使う漢字は、元々が象形文字など、絵・図が元になっている物なので呪い(まじない)としての力も結構強いんですよ。
自分が繊細だという自覚がある人ほど、知らず知らずの内に言霊や文字の持つエネルギーの影響を受けやすいので、意識して悪い言霊からは離れるようにすると良いでしょう。
必ず、自分の行いを実りにする場合は
「精進します。」
と言い、「努力しなさい!」「苦労は大事!」
という言葉は無視していきましょう。これ以上、自分の氣(エネルギー)を奪わせる必要なんてありません。
「人生、良いことの方を多く体験できるように精進する。」
これが大事なことかなぁ、と私個人は考えてます。
これは何も頑張り続けなければいけないという話ではなくて、
「人生で嫌なことが起こったとしても、『こういう出来事が起きたなぁ。』とフラットに捉えるように心掛け、引きで自分を見つめ直し、その出来事を『良い経験になった。』と昇華できる心境へと力を抜けるようになること。」
が大事だと考えてるんですよ。考えているというか、今まで私が学んできた色々から導き出した、今のところの答えですかね。
私たちには、無限の幸福を求める権利も、得られる資格も、あるんですよ。本来はね。ですが、それらを封印させられてしまってる人は私だけじゃないはずなんです。だから、解放したい人に上手くこの話が届くと良いなぁ、と思っています。
∞に、正も負も無いと私は思います。数学者からはバカにされるかもしれませんが、
-∞…0…∞
と、延々に続いた先で、-∞と∞は収束すると私は感じるんです。つまり、
「∞の対極に0がある。」
と、私は感じるんですよね。
「人生では、良いことと悪いことが半々になるように起こる。(要するに0になる)」
なんて話、私は信じないし、信じたくない私の同志にこの話が上手く伝わりますように願っています。
今日は私の考えをまとめるために書いた話なので、いつもより収まりが悪いような気もしますが、この辺の内容は何度も繰り返し書いてきた内容なので、まぁ良いでしょう笑
解脱に向かう仲間たちにしっかり届くと信じてます。
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