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うた 宇宙(そら)のまにまに⑥

自己(おのれ)

一番小さい時の記憶は何?

唐突に 投げかけられた質問

目の奥を 覗き込まれて 訊かれたので

誠実に 応えなければと

奥へ 奥へ 更に 奥へ

記憶の貯蔵庫に 分け入って

アレか コレか 否 ソレか

「最初」の思い出を 探してまわる

そのうち アッと 気がついた

この発問は、

自己(おのれ)の起動の瞬間を

尋ねられているのだと

あまりに深く大切な問いだった

リサーチの動きは ハタと止まり

困惑が わたくしに まとわりついてくる

果たして 答えていいのかと

「本当の」回答が 求められているのかと

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一番古い記憶、それはほぼ自己の認識の始まりと同義だろう。 

どうしてそのようなことを問われたのか。その前後の会話の記憶があやふやなために、理由はわからない。

けれど、相手がわたくしに対して興味を持ち、わたくしの何かを知りたがっていることだけはわかった。

他の問いなら、すんなりと答えられるし、適当にすませることもできただろう。

けれども、問われて初めて、わたくしは意識を向けたのだ。自己(おのれ)への認識の始まりや在り方に、自分がそれまで全く無頓着でいたことに。もうとうに二十歳は超えていたというのに。

戸惑いと狼狽のようなものに、予期せず襲われて、迂闊に答えることができなくなった。

焦って言葉を濁しているうちに、助け舟を出すつもりなのか、相手は今度は勝手に自分の一番古い記憶を開示してくれた。

それは、暖かな縁側で母親の膝枕の上で耳掃除をしてもらっている思い出だ、と。

その人は、そこで初めて母親と別の人格を自らに認めたのだろうと、推量られた。幸せな愛される自己、それがこの人の人生の基盤だと。

自己はSelf、自分が意識する自分自身のこと。その人は、幸福な人生のスタートを切ったのだろう。まことに、喜ばしいことである。

だが、そう理解した途端、わたくしは「本当の」最初の記憶についてますます言いづらくなった。わたくしは、ここ(地球)は違う、とずっと感じていたのだから。

わたくしの本来の居場所は此処ではない、という違和感。何故此処に居なければならないのだろう、という納得のゆかなさ。そのような感覚にいつも囚われてきたことを、その質問は指差したのだった。結局ちゃんとした答えも返さずに、その会話は有耶無耶に終わったのだけれど、一度はっきりと輪郭を得たわたくしの中の違和感は、その後もずっと胸の何処かに居付いたままになった。

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それから人生の変遷を経て、五十肩の激痛に苛まれる最中に、友人が見舞代わりに貸してくれた一冊の本。それが、積年の棚ざらしの懸案へのヒントをもたらしてくれる契機になるとは、予想外の展開だった。智慧深い友に心底感謝である。

「世界にありながら世界に属さない」

まさに、わたくしの長年の違和感を表わす言葉であった。今はなかなか入手できない書籍が、わたくしにとっての「本当のこと」を呈示していた。ある意味、身も蓋もないことがあからさまに書かれていて、痛快だった。

https://blog.goo.ne.jp/yutaka1947/e/96747a6862729383f5b10d79bb4eb512

この本を読むことで、自己認識の在り方が、すんなりと了解出来た。そして、生来の違和感や他者との距離感、親近感についてのモヤモヤもかなり晴れた。生育歴からくるのではなく、存在についての根源的なテーマに、わたくしは不如意だったのだろう。

そこを認識できていたおかげで、随分時が過ぎたのにも関わらず、思いもよらない本との出会いに、何十年来の疑問に回答を見つけることが出来た。長くかかったけれど、このように難問も放り出さず生きていれば、得られる成果もあるのだ、と素直に嬉しく思う。

そして、この著者の吉福伸逸氏やトランスパーソナル心理学についても、興味がわいた。そこで「癒やし」についての考察も深くなされているからである。その考察は、更に「おのれ」である自己から、コアとも言える、エゴや潜在意識としての「われ」、つまり自我にスコープしながら、反転して、全体性のワンネスやスピリットにまで拡がっていく。

https://www-lifehacker-jp.cdn.ampproject.org/v/s/www.lifehacker.jp/amp/2019/09/book_to_read_transpersonal.html?amp_js_v=a6&amp_gsa=1&usqp=mq331AQKKAFQArABIIACAw%3D%3D#aoh=16302329449008&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&amp_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&ampshare=https%3A%2F%2Fwww.lifehacker.jp%2F2019%2F09%2Fbook_to_read_transpersonal.html

常に在る、一人であるという認識も、スピリットと共に在るのだから、寂しいわけがなかった。そのことも大きな発見になった。

遊びに熱中したあとの心地良い疲れや、空腹をおぼえて食べるご飯の満足感なども、虚弱児のわたくしには殆ど体験がなかった。それに加えて、人恋しさもあまり感じない子どもだった。どちらかというと、人見知りで、来客があると直ぐに隠れてしまう。

いい大人になって、虚弱もまぁまぁ手懐けることができた今でも、親しい誰かと共に過ごしながら、常に「一人でいる」感覚が強いのだった。それは家族や友人に不信だということとも違う。とにかく単に、スタンダードに「自分は一人」と認識しているのだ。特段、一人を寂しいとは感じない。寧ろ、一人になる時間がないと、窒息するような感覚に見舞われるくらいだ。

寂しいとか哀しいとかではなく、ただそのようにあると気づいているだけ。この世に生まれてくるときも、去る時も一人であるのは皆同じ。それにスピリットの概念が加わると、納得が深まった。宇宙と一人で向き合いたいのだ。

そして、わたくしは、人嫌いではない。どちらかといえば、人間は助け合わなければ生きられない動物だと認識している。生んで育ててくれた人がいて、数え切れない人の助けを受けてここまで生きてこられた。自己はそうして存在してきたのだけれど、やはり、宇宙に一人なのだった。

だから、もし、自分に人を手助けできる機会があれば、喜んでお手伝いさせていただく。人間として、社会を構成する役割としても大事なことで、そのように行動することは、種として自然で当然だ。それが、もし誰かに喜ばれたとしたら、オマケに当たったように嬉しいことだ。

実際に、往来でよく時間や道を尋ねられ、できる限りそれに応えている。電車では席を譲るのも自分がよほど弱っていなければ厭わない。人と支え合いたいと希望している。 

不思議な人だと、言われることもある。きっと矛盾しているように見えるのだろう。素っ気ないのに、親切にする。

ただ、わたくしは宇宙に一人で存在しながら、ワンネスの一滴として在るだけなのだ。

茫洋とした認識の貯蔵庫を、自分の中に抱えているのはわたくし一人ではない。その中の、一等古い記憶は今生の自己のスタートかもしれない。さて、あなたは、どのような自己(おのれ)から始まったのだろうか。

しまい込まれ、忘れられていた宝物が其処に在るのかもしれない。

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