#018 考えている時
考えているとき ぼくは何を考えているのかを考えてみた
たとえば家を考えるとき
ぼくは小人になる。
目の前には、少し前にぼくが引いた朧げな線の集合体があって
その集合体が脳内にミラーリングされると同時に
小人のぼくはその集合体の住人になる。
そこでぼくは 歩いたり 座ったり 寝転んだりして
いくつもの「へり」を感じながら、
朧げだった集合体が鮮明になっていくのを感じる。
鮮明になってきた集合体が、空間。
だからぼくはその空間の部位に名前をつけて、居場所を考える。
「床」とか「壁」とか「天井」とか。
「窓」とか「机」とか「椅子」とか。
でも、そうやって命名するのが、なんだかしっくりこないのだ。
名前をつけた途端に、
その「へり」が固まってしまうように感じて、気持ち悪いのだ。
もちろん、床だって壁だって天井だって、窓だって机だって椅子だって、
ぶよぶよもしていなければ、どろどろもしていない、固形物だ。
固まっていて当然のもの、だってそこが空間の境界なのだから。
でも、小人のぼくにとっては、そこは空間の境界である以前に、
ぼくの境界でもあるのだ。
つまり、「集合体のへり」とは「ぼくのへり」なのだ。
小人のぼくは、
「へり」を感じる時に「ぼく」を感じ、
「へり」を感じる居場所に「ぼく」を感じる。
これはつまり、
「ぼく」という概念を時間と居場所に照射して跳ね返ってくる知覚
を束ねているようなもの。
この知覚の束の変化量が、僕の知覚の濃淡として感じられるとき、僕は「固まらない境界」を感じることができる。
そう、だから。
ぼくは空間の中に居場所を考えているとき、
居場所を固定化することは考えていないのだ。
知覚の束がゆらゆらと変化し、その濃淡を味わうことができるような、
そんな「固まらない境界」を考えているのだ。
ぼくは「そんな固まらない境界」のような、
そんな「へり」をいつもゆらゆらと考えている。
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