#001 悲しみに囚われて足踏みしているぐらいなら
或る1人の父親の話。
友人Aと対話をしている中で、彼が「自分が創作をするのは、子供たちに父が今どんなふうに考えて生きているのか、ひとりの人間としてどう生きているのかを知ってもらいたいから」と言っていたのが深く心に刺さった。
これはね、どうしてオンラインに投稿する必要があるのか?という問いを僕が発したことから派生した内容だったんだ。
僕はいままで、オンラインに投稿するという行為の背景には、自分の意図とは関係なしに、否応なしに「評価」というものさしがついて回ると考えていた。
そこに、他意が混じってしまうことで、自分の想いの純度が濁ってしまうように感じていた。
でも、この考えは評価という物差しを曖昧にしか定義していない、そう気づいた。
そしてもうひとつ、評価というものを過剰に意識しすぎている自分に、気づいた。
まず評価という物差しは、評価を求める先が顔の見えない他者の場合には、他者ではなく評価そのものに自己の意識が向くことになる。
でも、評価を求める先が、顔の見える他者(例えば子供たち)の場合には、評価そのものではなく他者(すなわち子供たち)に自己の意識が向くことになる。
後者の場合、評価をするのは自分では無いということが明確だから、そもそも評価をもとめない。自分の存在を示すだけ。じつはこの時は、評価という物差しから自分は自由になっている(もちろん、子供に認められたいという承認欲求から自己を改ざんするような意識を持たない場合に限る)。
一方で前者の場合は、もらった評価に対するジャッジを自分自身が行うことになるから、評価という物差しから逃れることができない。
こんなふうに分けて考えてみると、僕がオンラインに投稿するという行為に忌避していた評価というものは、この後者の評価の方だなって気づいたんだ。
そしてオンラインであるか否かという基準は、不特定多数の他者の可能性を呼び寄せる基準という側面もあるけれども、もっと本質的な部分に「(ネット社会が存続する限り)圧倒的に広い範囲で存在し続けられる足跡」という側面もある。
そしてこの足跡は、歩かなければ、つかない。
オフラインの日記帳にしるしたものも足跡にはなるけれども、それは日記帳という物体の中とそれを書いた人間、手に取ることができた人間にしか存在し得ない。
つまり足跡の範囲が、圧倒的に違うということ。
投稿という言葉が象徴するように、オンラインには何か生み出したものを「投げ入れる」というイメージを持っていた。
そうすると、投げ入れる先、投げ入れる効果のようなものがセットとして思考の枠に垣間見えてしまうことに、忌避感を持っていた。
でも、投げ入れるだけではなく、ただオンラインに足跡を残しておく。そういうこともできると思った。
それにそもそも、足跡を子供たちに見てほしいという想いはあるから、不特定多数の誰かの目に留まるという可能性は必然的前提でもある。
だからといって、この前提があるからといって、自分の投稿が高評価を得るために投げ入れたものであるという枠組に絡め取られてしまうわけではない。
もちろん、望むと望まないとに関わらず、読み手の意図によってあらゆる評価を受けてしまうこともあるだろうとは思うけれども、そこを忌避するあまりに、足跡そのものを残さないというのは、子供たちが足跡をみる可能性すらも奪ってしまうことになる。
そもそも、この一連の見方自体が、話し手・書き手主体の思考に他ならない。自分が忌避する思考バイアスに自分が絡め取られていることに、考えを巡らせる中で、気づいた。
もちろん、一昨日のAとの対話の段階では、ここまで意識していたわけじゃないけれども、それでもAが創作をする想い、意図にものすごく共感したし、僕もそうすればいいんだと思った。
そして、そう思った途端、さっきまで収録していたラジオも、読書も、建築も、なにもかもが、自分の足跡で、子供達に伝わる可能性があるならネットのどこかに残しておこうと思ったんだ。
伝えようと思っても伝わらないことはたくさんある。
言葉は常に言葉足らずだから。
同じ言葉でも、受け手が変化すればその言葉から受け取る内容も変化する。
言葉は常に言葉足らずだから。
だから、伝わるタイミングというのは、読み手・受け手のタイミング次第なんだ。
だから、いま・ここで伝わるかどうかというのは、本質ではない。
5年後でも10年後でも20年後でも。
死ぬ間際かもしれないし、もしくは一生伝わらないかもしれない。
それでも、足跡がなければ、確実に言えるのは、この「かもしれない未来の色々」はゼロだということ。
足跡があれば、このかもしれない未来のどれかは、確実にある。
「これも、子育てだと思うんだ」
とAが言ったその気持ちが、今の僕には深く刺さった。
彼も、相当悲しいのだと思う。理解されない悲しみ、誤解される悲しみ、誤解されても仕方ない悲しみ。
でも、悲しみにはまっていても、足跡はつかない。
それに、この悲しみの素は、僕の選択の一部でもある。
だから、悲しみにはまるのが苦しいのだったら、その選択を変えたらいい。
でも、僕の選択は、自分の内蔵が選んだ直感。自分のなかの揺るぎない想い。だから、頭が苦しんでいても内蔵は喜んでいる。
内蔵は言葉をもたないから、頭の言葉が支配的になるけれど、内臓が発している「形なき言葉に宿る気配」を抱くことが、本質的には大切だということを、頭もほんとはわかっていると思うんだ。
だから、この悲しみは本質ではない。
悲しみに囚われて足踏みしているぐらいなら、その足を前にだして足跡をぺたぺたとつけたらいい。
「そういう足跡を残したい」
そんなふうに思ったこの想い。言葉は違うけれど、このような内容をおぼろげながらAに語ったと思う、あの時。
そして、それを聞いた彼が「わかるよ、、、、わかる」と真っ直ぐ僕をみて、ゆっくり、噛み締めるように、言ってくれたのを見て、
「ああ、Aも、同じように考えた末に、創作にいきついたんだな」
ってそう思った。
だからね。
僕は創作をオンラインに投稿していこうと思うよ。そんな足跡で、自分自身も幸せになれるだろうし、いつかどこかで子供たちの目に触れることがあるかもしれないという「かもしれない未来」を今感じることが、目の前の悲しみを超越してくれるからね。
(10月23日、或る人へ綴った手紙より)
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