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#014 誰がために法はあるのか

裁判に関わっている。
とある現象を目の当たりにしていた原告側の証人として。

もうすぐ丸3年が経つ。
その間に裁判官が3人変わった。

人事異動だそうだ。
この裁判では、少なくとも。
異動が近くなると、裁判官は判断保留にするか、強引な和解を迫るかの2択だった。
友達の弁護士に聞いた話だが、なぜこうなるかと言えば、裁判官のノルマ評価、スキル評価に直結するかららしいのだ。

もちろん、世の裁判官全てがこうだとは思わない。
でも、この期間で接触した3人の裁判官が3人とも、異動を前提としたジャッジをしているということもまた、法制度の限界なのかもしれないと、感じている。

現在の3代目裁判官。
今までの裁判官よりも、自分の頭と心で考えることができる印象はあった。

でも、やはり最後は、ロジックへの依存に帰着しつつある。

端的にいうと、
「事実関係とそれに伴う心象はその通り。人間としてごもっともです。でも、法理論的には、人間の心のように定性的には判断できないのです。人の心の物差しは千差万別で何が正解とか絶対真理は無い、だから定量的に考えるのです。そうすると、たとえ心象的に理解できる事象であっても、明らかに被告に責任があると心では感じていても、論理的に筋が通る弁論の方が優位なのです。だから、和解に向けて善処してほしいのです」
という促しであった。


論理と目的について、考える。
論理。それは手段であって目的ではない。

しかしながら、論理は目的化しやすい。
それゆえに、論理と目的、目的と手段はしばしば二項対立の思想に陥りやすい。

この二項対立的思考の厄介なところは、そもそも二項対立でピチッと区分けできないような心の揺らぎを、論でもってビシッと白黒つけられてしまうような錯覚を心にもたらすところだ。

この錯覚が、法の番人である司法の拠り所でもあるのだ。
もちろん、全てが錯覚なわけではない。

当事者に近い位置から見ているバイアスも多分にあるだろう。

でも、本質としてはとてつもなく暴力的であっても、論としては極めて明確に筋を通すことができる現状には、とてもモヤモヤする。


法理論的に筋が通るから正しい。
これが判決のロジックだ。
裁判官が和解に促すのは、裁判官自身、このロジックに心底納得していないからなのだろうな。

そう考えると、そもそも裁判とは白黒つけるところではなくて、喧嘩両成敗の延長線上にあるのかもしれない。

でも、なあ。。。

ぼくは、一部始終を知っていた。
見ていたから。
だから、どちらが「明らかな嘘」をついているのかもわかっている。
それなのに、それなのに。
裁判では、この「知っていた」ということは、ロジックには乗らないために、跳ねられる。
見ていたという証拠がないから。

エビデンスがない以上、見ていた、知っていたということは,法理論上は証拠にならないのだそうだ。


もちろん、これは歴史の一側面。
相手側の視点から見たら、きっと真逆の言説が綴られるだろう。


法って、誰のためにあるのだろうか?

いや、そもそも。
誰のため、というロジックは埒外なのだろうか?



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