止観
私の体の中には、過去に性的な嫌がらせを受けたことによる
ぎこちなさが残っていた。
今日は思いつくままに
その性的な嫌がらせが、その人に対してどのように影響を与えるのか、私の経験を簡単に通して文字にしてみようと思う。
「良い時もあれば悪い時もある」
自分の体に残るのは、命が無くなる、崩れ落ちる感覚というものがある
それに支配されると中々始動するのにも時間がかかる、一日動けず眠るしかない時もある。むしろ眠れることがありがたい。
元気な時は、ポジティブな感情を持つこともできる
仕事の時は仕事モードにもなれる
ポリヴェーガル理論で考えると止観も、ものすごくやりやすくなった。
今はこの理論についてきっちりは書かないけれど、知れば自分自身に対して優しく理性的に観ることができる
整体やヒーリングも受けた。
少し元気になった時は体から変化を促すことができた。
自分から動けない、だけどこの人はある意味、深い所ではつながらないからこそ
表面的に笑いながら整体の施術を受けることができる、とか
この人になら辛さを話してもプロとして距離を取ってくれる、とか
自分からHELPを出しつつ、自分の中の冷静さを取り戻してくれる人を頼った。
自分自身の生命体としての生きる活力をそのままそっくり奪われ否定される経験は
流石にそれまでに経験したことは無かった。
これは体を動かすと、数々の感情に見舞われる
過去、恨みに支配されることもあった。
体の中にはまだまだ何かがあるのはある。
そのうちの一つには怒りもある
この怒りの矛先が自分に向かうことの方が多かった。
性被害を受けるのは「君が悪いからだ」と言われることもあった。
体の中にあるぎこちなさ。
私の体なのに私のものでは無い感覚
他人に支配される絶望感と虚無感
コルチゾールだろうか、それによって筋肉が溶ける感覚など
拒絶しても無理という経験
「ちゃんとしなきゃ」「自分ならできる」「大丈夫」
私の場合は言葉を使うと悪循環になったので、あまり使わないようにした。
とにかくセルフヒーリングで癒していくのみだ。
そして<活動する力>を得るためには
怒りの矛先を変える必要がある。
自分に矛先を向けず外に出せるように
(恨みを持つというのは、
まだ自分に矛先が向いているのかもしれない)
今日は体を動かそうと養生功をするときに、体の内側から吐くに吐けない何かが立ち現れてきた。
危うく自分を傷つける想像をそうになったが、
ただその体の中にある何かを、危害を加えてくる相手を象徴するものに投げつけてみた。
そうすると、体が急に楽になった。
その後は自分自身の体の動きそのものに集中することができた。
これは本当に久しぶりの経験だった。
これからはこの感覚が立ち現れた時に安全にそとに出せる方法を
より多く見つけ出そうと思う。
ボディーブレードを振り回すとかもいいかもしれない。
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