橋を渡る。空を見る。
三男の通うミニバスの練習は週3回、週末は昼練なので夫が行くことが多いが、平日にある夜練のほとんどは私が送迎する。
練習場所である隣の市の体育館まで25分程度。
その途中、橋を渡る。空いていれば10秒とかからずに通り過ぎる橋を渡るのが、私は結構好きだ。
一級河川を跨ぐように掛かった道路橋は、右手には山々が広がり、左手には遮るものがない広い空と、1キロほど先にあるもうひとつの橋が見え、夜には連なった橋灯の光が暗闇を照らす。
普段はゆったりと流れている川は、雨が降れば一気に水量が上がり、茶色い水が生き物のように轟々と音をたてて流れ、時には折れた木まで飲み込むほどで、十数年前に集中豪雨で氾濫した姿を思い起こさせた。
そんな橋を、三男を乗せて渡る。
学校から帰ってきて、18時からの練習に間に合うように17時には夕食を食べ終わる三男は、橋を渡る頃にはウトウトと寝てしまう。その姿を横目でチラリと確認しながら、私は同時に左手側の空を見る。
一瞬だけ目を向けると、少し前までそこには大きな夕日がゆらゆらと揺れていた。
夕日は空を橙色に染め、横長に伸びた雲に影を作り、川を幻想的に彩る。
「綺麗」
そう呟きながらすぐに視線を戻して、今日もいい空が見れたと満足しながら車を走らせる。
秋が深まるにつれ、送迎の時間にゆらゆらと揺れる夕日は見れなくなってしまったけれど、沈んだ夕日を名残惜しそうに空は藍色に広がり、その色が紅掛空色というのだと私は初めて知った。
紅掛空色(べにかけそらいろ)とは、かすかに紅がかった淡い空色のことです。
綺麗な色だと思った。
そして昼が終わり、夜が始まるまでのわずかな時間を、絵の具で繊細に描くように表現しているこの言葉が、なんだかとても心に沁みた。
明るくも暗くもない。
それはまるで人の心のようだ。
人は輝く太陽みたいに笑える日も、長い夜に怯えて泣く日もあるだろう。それでも日々は過ぎていくし、時間は誰にも止めることができない。
夜から朝に、昼から夜に変わる瞬間、少しだけ混ざり合った空は、お互い主張する訳でも邪魔する訳でもなく広がっている。
そうやって広がった紅掛空色はとても綺麗で、ここ最近、夕日よりも揺れていた私の心に沁み渡り、『そうか。これでいいんだな』と思わせた。
多分、これでいい。
一方的に姉と決別し、知人の病気に胸を痛め、心は不安定に揺れていた。しかしその気持ちに無理に抗わなくてもいい。無理に混ざらなくてもいい。橙色と藍色の狭間で立ち止まることにもきっと意味はある。
正解なんて分からない。
でも自分の人生は、この空のように明るくも暗くもなく、ただ穏やかであればいい。その包み込むような穏やかさが、周りの人にも広がればいい。
多分、私の願いはそれだけだ。
日没が早まった秋の空は、私をそんな気持ちにさせてくれた。体育館について頭上を見上げると、そこには星が瞬いていた。