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破却と忘却の城 なごや城 ー 尾張なごや じゃないよ 備前なごや だよ ー

本日のなぐツー(なぐなぐツーリスト)は、
唐津市の北西部、鎮西ちんぜい町よりお送りしまーす。

ここに、もうひとつの「なごや城」

名護屋城があったのをご存知ですか?
本日は、名護屋城址を巡りまーす。


◇◇

「尾張なごやは、城でもつ」

私の地元は愛知県、その中心地は、なごや。
そして、名古屋市の誇るものと言えば、金のしゃちほこ! と呼ばれるくらい、お城と名古屋は縁が深い。

だが、この歌詞『尾張なごやは、城でもつ』に、いつも引っ掛かりがあった。

実はこの歌詞は、伊勢音頭のもの。
この伊勢音頭では、
 『なごやは、城でもつ』
ではなく
 『尾張なごやは、城でもつ』
と、唄われているのだ。

高山市が、飛騨高山と呼ばれているのは、「高山」という地名が全国にあるから、飛騨の高山だよ。と、区別するためだ。


江戸時代に、「尾張なごやは城でもつ」と、唄っていた方々は、伊勢神宮近くにあった遊郭である「古市」の遊女たち。つまり、全国から伊勢神宮参拝と称して集まっていた観光客おとこどもに向けて唄われた歌詞なのだ。ただそこでは「なごや」ではなく、「尾張なごや」と唄う必要があったのだ。


石切りの痕が残る、名護屋城の石垣



◇◇

鎮西町の歴史

でも、唐津市鎮西町にあった、名護屋城
愛知県の名古屋城と漢字が違うじゃないか?
と、おっしゃるかもしれませんが

調べてみると、この鎮西町の前身は、「名古屋村」「村上村」なのだ。その後(大正11年)「名古屋村」が「名護屋村」に改称し、(昭和31年)名護屋村と村上村が合併して、鎮西町になった、との事。(Wiki鎮西町より

明治時代は、村名だけでなく城も「名古屋」と記載していたようだ。大正に入り、愛知県の名古屋に遠慮配慮して「名護屋」表記にしたとのこと。(Wiki名護屋城より


このことを知って、納得
全国から人が集まる伊勢神宮界隈では、あとからできた名古屋城を「尾張名古屋」と呼称しないと、紛らわしかったのかも知れない。

ということで、こちら(鎮西町)にある名護屋城は、「備前なごや城」とも呼ばれているようです。


◇◇

前置きは

これくらいで、名護屋城址を巡りまーす。

歴史に詳しい方ならご存知、名護屋城とは、豊臣秀吉が天下統一を果たした後、続けて朝鮮半島に攻め込むために築いた拠点。
巨大です。

ということで、自力でひとつひとつ見て回るより、手っ取り早くガイドさんのチカラをお借りしましょう!

ガイドツアーは、40分で一人200円(驚安!)
ホームページを見ると、3日前から予約が必要
と書かれていますが、当日でも参加できました。

なぐツーポイント


当時の東松浦半島(鎮西町)は、こんな感じ
歴史好きな方は、これを見ただけでワクワクしませんか?

名護屋城との距離感は、信頼感の証


ガイドツアーは、名護屋城大手門から三ノ丸、本丸、天守台跡までを案内してくれます。

上の地図の通り、この半島に、120~150ほどの大名家が集結しそれぞれ陣屋を構えました。武士以外の給仕係含め、総勢10~15万人が暮らしたようです。今の唐津市の人口が12万弱ですから、それを超える人々がこの半島に暮したと考えると・・・

「どんだけ~!」


しかも築城は、たった8ヶ月で完了。突貫工事

いまなら過重労働、労基法違反です!


本丸跡より、徳川家康の陣を臨む

家(白壁とオレンジ瓦の2階建て)の奥に、林に囲まれた運動場のような平地が見えるよね。そこが、徳川家の陣屋跡。秀吉から見て不穏な動きが把握しやすく、睨みを効かせられる場所。しかも、そのさらに奥の湾の反対側に別陣として兵を分割させられている。

家康が怖かったんでしょうね~

北西の
朝鮮半島側に目を向けると

右端から、加唐島かからしま松島まつしま。左に馬渡島まだらしまが見える。
松島の左奥にうっすらと見えるのが、壱岐島。さらにその奥、写真の中央の彼方にぼんやりと対馬が見える。

朝鮮半島は、対馬のすぐ先だ

秀吉じゃなくても、すぐ行けそうな気がしませんか?

なんだか、いけそうな気がする~

天津木村 おぼえてますか?

観て妄想を巡らす。
これが、現地を歩く醍醐味、旅の楽しさだ。

あと、名護屋城で面白いのは、
山里丸と呼ばれる場所(建物)があること

本丸が仕事場なら、山里丸はプライベートな空間。
山里丸では、茶屋があったり舞台も楽しんだようだ。


プライベートには、仕事は持ち込まないタイプ

秀吉


◇◇

ガイドさんに、本丸まで案内していただいた後は現地解散。そこからは、自由に散策できる。

ガイド時間含めて、じっくり回ると2時間ほど必要。

なぐツーポイント


おっと、名護屋城の見所を、忘却するところでした。

それは、

破却

朝鮮への出兵が失敗しゅっぺーに終わり、秀吉亡き後、名護屋城は取り壊されました。他者が再利用するのを防ぐため、石垣も取り壊されました。これを「破却はきゃく」と言います。


名護屋城址含め、大名の陣屋跡が多数残るのは、
ながらく、忘却された場所であった故のこと、皮肉なもんです。

そして、名護屋城址は
築城時の状態に復元するのではなく、
破却された当時の状態に復元することを、目指しているようです。


ここまでで、2時間ちょい
お腹がすいた

駐車場わきの食堂で、昼食を食べながらお別れです。
また、来週!

佐賀県もちゃんぽん文化



つづく…



伊勢の遊郭が気になってしょうがない方は、
コチラ!

壱岐に行きたくなった方はコチラ



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