鬱を抱えて生きてきた高校生

自粛期間を経て

僕は中学1年生の終わりに、コロナの影響で学校が休校になりました。
剣道部に入っていましたが、運動をしてこなかった自分には少しハードで、ついていくことに精一杯なのもあり、最初はラッキー程度でしたが、徐々に生活習慣が崩れ始め、朝も起きず、夜中になっても寝れず朝方を待つ生活へと壊れ始めました。
剣道部の友人に外へのランニングを誘われましたが、親は未知のコロナや、ひいおばあちゃんが近くにいたこともあり、外へのランニングは毎度断っていました。その選択は若い自分でも、良い選択だったと思っています。
ただ毎度断っている自分に嫌気がさし、徐々に他責思考へと変貌。無理だって言ってるのになんでわからないんだと、口に出してしまうことも多くなっていきました。
そのような生活に慣れ始めたころ、自粛が明け、学校が少しづつ始まっていきました。まだ元の生活に戻れる状態ではなかったのに。

鬱の始まるきっかけ

部活のメンバーと顔を合わしづらい中、新しいクラスに変わりました。
そのクラスというのが本当に苦手な子が多く、仲いい友達も数人しかいないようなクラスで、やんちゃな子が多いのもあり一年もせず担任の先生がうつ病で学校に来なくなるほどでした。
体育祭で、仲のいい友達が後輩を全力で応援してるのを横目に笑ったり、合唱祭では歌が苦手な子を除け者にしたりなど、このままここにいるのは無理だと本能が言い始めます。

合唱祭当日。僕は学校に行きませんでした。

親には素直に学校に行きたくないと言いました。
合唱祭が嫌だったんじゃないんです。環境が嫌だったんです。
ありがたいことに親は納得してくれ、そこからは別室登校をし、何度か家庭訪問をされ、六者面談をしたことがあるほど、先生たちも心配してくれてました。
部活の友人とも徐々に和解し、授業の際は別室。終わったらそのまま自分も部活に参加していました。
なんとか首の皮を繋ぎ、ギリギリの生活をしてきました。

人生の変わる出会い

心療内科を受診しました。起立性調節障害でした。
ただ淡々と時間が過ぎてく中、僕はネットで気の合う女の子と仲良くなりました。
その子は似たような境遇だった僕を肯定してくれる二個上の方でした。
勉強をしていなかった僕に勉強を教えてくれ、もう普段の生活に戻れないと思っていた僕に、君は普通高にいけると優しく言ってくれてました。
そこから僕は塾に通い始め、毎週週二日塾に通い、別室での勉強と部活動と塾での勉強の生活が始まりました。
勉強をしその子に褒められるのがうれしくて、僕は勉強して普通高に行くんだと息巻いていたほどに。
部活動も順調、勉強も再開し、肯定してくれる好きな人がいる。
この環境に満足しているはずなのに、自然と涙が出る日もありました。
僕は学校に行っていない自分が大嫌いだったんです。
周りに追いつこうとしても、一人じゃ追いつけませんでした。
でもそれでも良いと言ってくれるその子に、僕は助けられていました。

僕はその子に告白しました。

そっから僕はその子と付き合い、いいことも嫌なこともすべて共有できる、僕の一番好きな彼女になってくれました。
ですが当時世間はネット恋愛に対する偏見の目は異常でした。
コロナの自粛期間にネットで付き合った人達が軒並み分かれ始めていたこともあり、どうせすぐ別れると、僕の世間ではそう言ってるようでした。
僕はその子と付き合ってることは誰にも言わずに、ひっそりと二人の時間を過ごしていました。それだけで十分だったんです。

終わりは突然

モノクロで淡々としていた僕の憂鬱な日々は、綺麗で色鮮やかな日々に変わり、順風満帆な生活でした。彼女のおかげで大嫌いな自分が少しマシなものに変わり、不自由ない生活をさせてもらいました。
ですが中学二年生が終わる目前に

僕の彼女は自殺しました。

彼女の同級生とも何度も喋ったことがあり、友達のような存在だった同級生から聞かされました。
嫌なことを共有していたはずが、僕は彼女の本当の苦痛から救い出すことはできなかったんです。
家庭環境が劣悪だったのは知っていました。
彼女が中学校に行かない選択をした時や、通信制の高校に入ることを選択した時などに、親に頭を下げても怒鳴られ、モラルに欠けた言葉を浴びせられていたことなどは知っていました。
僕に話すことで少しでも楽になっていたと思っていました。
ですがその思考は、僕が楽になるための思考なんだと、彼女が亡くなって気づかされました。
思ってもいませんでした。
身近な人が亡くなったことがなかった僕は、その時はじめて気づいたんです。
人が亡くなることの恐ろしさに。
若くして自分で死ぬことを選ばされた彼女を、違う選択もあると示せなかった僕のせいだったんです。
僕は教えられるばかりで、何一つとして教えることができなかったようです。
これが僕の人生で一番の後悔です。
そっから僕の生活は、亡くなった彼女の生前の言葉に縋る、モノクロの生活へと逆戻りしていきました。

でも僕は

それでも生きていかないといけなかった僕は、部活を適当にこなし、勉強に少し力を入れ、普通高へと進学しました。
僕に普通高にいけると言ってくれた彼女の言葉を信じていました。

ですが人生はそこまで僕を甘やかしてはくれませんでした。

登校に一時間弱、学校での六時間授業、部活動。

今まで僕が逃げてきたものすべてが一日のすべてであり、僕はまた逃げる選択をしました。

二か月経たないほどで、僕は学校に行かなくなりました。

友達はいました。学級崩壊していませんでした。
ですが僕に現実を押し付けるかのように毎日が苦痛で、ブランクという言葉に逃げ、そのまま通信制へと転入。
モノクロだった世界は、真っ黒なものに変わりました。

精神病との再会

通信制に転入した一年目、高校一年生の時はバイトだけの生活でした。
鬱病になり、人と喋るのすら億劫で、楽しいことなんて今思い返してもありませんでした。
高校二年生、今から一年前。
僕は週二日学校に登校するコースに変えました。
友達ができ、剣道では全国に行き、可愛い後輩がいて、ゲームする仲間も増え、【普通の】楽しい学生生活を送っていました。
ですが楽しい生活の裏腹には、精神病がちらつき始めました。
人と関わることが一気に増えたせいか、僕は躁鬱、不安障害、統合失調症の三つに悩まされる生活が始まりました。
特に酷かったのが不安障害でした。
毎日

  • 戦争が始まったらどうしよう

  • 明日殺されるかもしれない

などを考えは怯え、外に出ることや、普段通りゲームを心から楽しむことができなくなりました。
無いものに怯えてパニックになっては頓服薬を飲み、もうこの生活が変わらないなら僕も死んでしまおうかと、四六時中死ぬことについて考えるようになりました。
情けない自分、変わってくみんな、楽しそうな友達。
全てにやり場のない憤りを感じ、だれにも理解されずになだめられることしかされない状況にうんざりしていました。

不安障害は半年ほどかかりましたが、ある一言で一気に急変しました。
それが

「それは起こってから考えればいい」

です。

一見そんなの当たり前かのように思われる言葉ですが、実際そうなんです。
ですが僕からしたら魔法の言葉で、戦争が始まるかもって、戦争が始まった考えればいいことだったんです。
分からないことは考えてもしょうがないって思えたんです。
精神病がピークの時は、盲目になりがちで、視界が狭いんです。
どれだけ客観視できるようになるかがとても重要なんだとそこで初めて知りました。

これから

ただ不安障害を乗り越えただけで、僕はまだ乗り越えないといけないことがまだたくさんあるんです。

貧血、低血圧、統合失調症、躁鬱。

貧血で倒れたり幻聴が聞こえたりテンションがコントロールできなかったり。
まだまだ時間がかかりそうです。
ですがいつか自分の精神病を治し、自分のことを好きになり、亡くなった彼女を安心させられる人間になるまで、僕は死ねないんだと、今は心の底から思っています。

色んなことに挑戦しようと、今はyoutubeでゆっくり実況を始めたり配信をしたり、今このように文章を書いたり。

いつか自分を認められるようになる日まで、僕と一緒に頑張りましょう。

最後まで見てくれてありがとうございました。
時々更新するので暇なとき覗いてみてください。

僕の精神病が治るその日まで。

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