気を使わない関係がいい!のか?
友だちや恋人、家族を選ぶときその関係は気を使わないものがいいという話を聞いたことがある。
たしかに、長い時間を共にする人とは気を使わず、楽で無言でも苦にならない方がいいという意見もわかる。
しかし、私の理想はその逆だ。親密な関係の人たちにこそ自分が持っている労力の多くをさきたいと思っている。
それは当然ではないだろうか。
もし親密な人と気を遣わなくていい関係を持ちたい理由が、長い時間を共にするのに大きな労力をかけてしまったら大変だから、であるなら逆に親密な関係を築きたいと思わない人に気を使う、労力をかける、ということなのだろうか。
だとしたら、おそらく有限である人生や人にかけれる労力の配分を間違えているのでは無いだろうか。
悪い言い方をするが、どうでもいい人を大切にして、大切な人を無下に扱うことになってしまっている。それよりも、大切な人を大切にして、そうではない人とはそれなりに関わるというのは当然正しいことだと思う。
親しき仲にも礼儀あり。という言葉があるが、私が言いたいのはそういうことではない。
大切にしたい人との関係にこそ、その関係を良好にしたり、維持したりするための労力やコストを有限な範囲の中でしか持っていないものから払うべきだということだ。
人は皆平等という考えがあるが、ミクロな個人の関係において、それは失礼な考え方だと思っている。なぜなら、誰しも心に1人は残っているような許せないあいつと、一生感謝してもしきれないような恩があるあの人が、自分にとって同等な存在になってしまうからだ。
それよりも恩があるあの人を特別扱いしてでも、人は平等だという考えを捨ててでも、その人を大切にすることが誠実な振る舞いだということだ。
(そもそも人は皆平等という考えは根源的な部分やマクロでの話だと思うが。)
それに、多くの人間にとって意味があって大切なことというのは、それを実行することがめんどくさいことが多いのではないだろうか。
労力をかけて関係を作り上げていくことがめんどくさいことだということは、それは価値や意味があるということの裏返しだと思っている。
以上から私は、親密なもしくは親密になりたい人と気を使わない関係でありたいというよりも、多くの労力をかけたいわゆるめんどくさい関係を持っていたいと思っている。
人に投げた労力が自分に返ってくることを期待することは傲慢で自分本位なことだとする考え方もあるが、親密な関係だからこそ、返ってくることを期待する権利があり、振る舞いも含めた”相手”に関心が適切に向いている健全な状態だと考えている。
だから、私は親密な関係を持っている、または持ちたいと思っている人との関係にこそ労力を割きたい。
また、同じようにそう思っている人と普通の友だち以上の親密な関係を作り上げていきたいと思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?