鬼滅の刃ネイティブ
ネイティブという言葉は特に、母国語によく使われる。
例えば、日本語のネイティブとか英語のネイティブとか。
でも、それだけではなくその人が慣れ親しんだ文化に対しても使われることがある。
幼い頃からインターネットがある環境で生きている人はインターネットのネイティブだ、とか。
アニメや音楽といったサブカルチャーも、当然文化を構成するのに大事な要素だ。
サブカルチャーの範囲の中でもネイティブが存在する。
特に鬼滅の刃は日本人的精神や感覚をとてもうまく表現している作品だと思う。
この作品はDemon Slayerとして海外でも流行した。
しかし、非ネイティブの人たちはDemon Slayerではなく鬼滅の刃をネイティブの人たちと同じだけ楽しめているのだろうか。
映像シーンの美しさや戦闘シーンの緊迫感だけでなく、言葉にしづらいような日本人的感性や感覚を感じることができているのだろうか。
それは、逆の立場でも同じだと思っている。例えば、アメリカで生まれた映画や音楽を、非ネイティブの私たちがネイティブの人たちと同じように楽しむことは稀で難しいことだと思っている。
楽しみ方は一通りではないという前提を認めるにしても。
昨今、日本の文化にネイティブであるアーティストが日本以外の文化、いわゆる世界に挑戦することがあるが、それはとてももったいないことだと思う。
非ネイティブのカルチャーを楽しむことも難しいことなのに、それを作りネイティブに届けるということはとても難しいことだし、自分がネイティブの文化の市場規模が相対的に小さいものだったとしても卑下する必要がないものだと思うからだ。
自分が非ネイティブの作品を作りヒットを生むことが難しいように、自分たちの文化でただ売れるだけではなく本質的に刺さる作品を、自分たちの文化において非ネイティブの人たちが作ることは難しいことだと思っている。
だからこそ、市場規模に魅せられることなく、その人だからこそ生み出せるものを生み出し、その作品がヒットするということ以上のことを目指してほしいと一消費者目線で思っている。
特に鬼滅の刃は、読んでいておもしろい作品であるというだけでなく、消費者にファンになりたいと思わせられる作品だと思っている。
それは製作者も消費者も同じ文化のネイティブだからこそできたことではないだろうか。
別の例を挙げると進撃の巨人も同じだと思っている。なぜなら、”壁”やそれに対するコペルニクス的転回に、島国に住んでいて第二次世界大戦で敗戦国である日本で暮らす人間だからこそ感じれるものがあると思うからだ。
海外でヒットを残せる人よりも、本質的価値を生み出せる人が本当に”良い”アーティストであり、そういった作品を大切にしていきたいと、私はそう思っている。
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