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人が終わり方を選べることは当然のことなのか。

人は根源的に自由であるというならば、人が権利を持っていることが当然だだというのならば、この世からいなくなる権利もあるはずだという意見を聞いたことがある。平たく言うと安楽死する権利、終わりを選ぶ権利が人にはあるというものだ。

しかしそもそも、人が権利を持つこと、人が権利を行使できることはいわゆる当たり前ではないと考える。(根源的な意味で権利が人にあるはずだという議論は今は除くが。)

今日当たり前とされている権利は、歴史を構成した人たちが文字通り勝ち取ったものであり、その権利を行使できる状況で生まれ育った私たちは、それを忘れてしまっているのではないか。

だから、今行使できない状況にある権利を行使することや、行使できる状況にあることを望むならその権利を戦って勝ち取る必要がある。そういう意味で、権利とは当たり前ではないと考える。

また、誰かが何か権利を行使するとき、別の誰かの他の何かの権利を侵害してしまうのであれば、その権利の行使は歓迎されるものではないはずだ。

ここでは、個人の利益を追求した結果、社会全体にも価値が生み出されていくことを合理と定義する。その合理だけで社会が構成されているわけではない。

例えば、いわゆる倫理がある。それをここでは、個人の損失が社会や集団の利益を生み、本人や別の個人に利益をもたらす考えのことだと定義する。

その上で、社会は合理と倫理がバランスをとって成り立っているのではないだろうか。そうしたとき、一個人が自死を選ぶ権利を良くないとする倫理を排して、合理的にその権利があると社会的に認めることは、不健全な社会を作ってしまうのではないだろうか。

なぜなら、自死が良くないとされる倫理観を持つ社会で、自死は社会的損失であると考えられていて、それはいづれかの個人に損失を与えるという、権利の行使が別の権利を侵害するという構造を持つものだと考えられているからだ。

しかし、私がここで主張したいことは自死は良くないということではない。
私がここで主張したいことは、権利を持つことや権利を行使することはあたりまえではないということだ。

なぜなら、自死の権利を行使することを良しとしないという権利は、人生の終わりを選ぶ権利を同様に侵害しているからだ。

だから、私は人は権利を行使できることがあたりまえである。ならば、自死を選択できることもあたりまえであるという考えを否定する。

もし自死を許されていない環境で、その権利を行使したいのならば、歴史を構成した人たちが行なってくれたように、その権利を戦って勝ち取る必要があると考える。

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