自分を取り戻していけば、優しくて強い自分になれる
プロローグ
やさしい人は、人とふれあって生きている
やさしい人には、
「これを食べると『頑張ろう』という気になる」ような食べ物がある。
やさしい人には、
「この歌を聴いたら、あー涙が出る」というような歌がある。
あるいは、
「この歌を聴いたら元気が出る、世の中、辛いのは自分だけじゃないんだと思えて
くる」ような歌がある。
やさしい人には、
「思い出すと『人生は長くない、今日も頑張って働こう』」という場所がある。
それは、人とふれあって生きているから。
水をあげる。
やさしい人は、ふれあうことでエネルギーが出る。
やさしい人は、いっぱい涙を流す。
ネコが死んでも、泣いている。
やさしい人は、花に水をあげるときにも、
「もし自分が花なら水を欲しいだろうな」と思って執着性格者のように義務で水をあげることはない。
義務ですることは長くは続かない。
執着性格者は、生真面目で仕事熱心だけれど、一緒にいて安らぎがない。
それは、幼少期の心の傷を水に流せないでいるから。
何かを取り返そうと思っているから。
取るに足らないことを悩んでいるから。
そういう執着性格者に対して、
やさしい人を、私は愛着性格者と呼びたい。
愛着性格者は、一緒にいて心が安らぐ。
「今が今」だと感じて生きているから。
愛着性格者は、執着性格者のように自分の許容範囲を超えることをしない。
無理がないから、いつも心にゆとりがある。
愛着性格者は、服をたたむのも「今日一日ありがとう」という気持ちでたたむ。
愛着性格者には、信頼する人がいる。
愛する人がいる。安心している。自分に自信がある。
そして、それゆえに自分のエネルギーがある。
これが生きる土台である。
それにしても、今の日本、あまりにもやさしさがない
そして、あまりにもやさしさが尊ばれない。
今の日本に必要なのは石油ではなく、やさしさである。
先に『不安のしずめ方』(PHP文庫) で、
私は、公的生活では真面目が大切だが、
私的生活ではやさしさが大切であると書いた。
この本では、そのやさしさについて考えてみたい。
人間性の核にあるのはやさしさ
人は心に問題を抱えていれば、やさしくはなれない。
その点で、やさしさを考えることは、人間の心とは何かを考えることでもある。
私たちは「人間性、人間性」と騒ぐが、
人間性の核にあるのがやさしさであろう。
人間性とは、自分の内面を犠牲にして過剰に適応することではない。
人間性とは、なによりもそれはやさしさである。
そして、やさしさには、能動性、社会性、積極性、自主性などが伴う。
自分の内面を犠牲にしないで成長することのできた人は、自然とやさしさを身につけ、能動性、社会性、積極性、自主性などが同時に備わるものである。
これが私のいう愛着性格者である。
この本では、その人間性の核にある「やさしさとは何か?」を考えた。
そして、「人がやさしくなれない原因は何か?」
「やさしい人になるためには何が必要か?」
「そのやさしい人をどうして見つければいいのか?」 などを考えた。
やさしさとは何かを考えることは、やさしそうに見えるが、じつはやさしくはないということがあまりにもたくさんあるからである。
やさしさについて、いろいろな誤解がある。
私たちは「やさしい人」というとき、何を基準にしているだろうか?
人は、「やさしさ」というと、「やさしい行為」を考える。
しかし、やさしいかやさしくないかは、行動だけでは判断できない。
「やさしい人」というときの基準は「心」である。
私は、やさしい人が大好きです。
優しくて弱い人ではなくて、
優しくて「自分がある」強さがある人が大好きなんです。
だから私も、優しくて自分がある強い人に近づけるように、それ以外の自分を振り落としている毎日です。
過去に、優しくて弱かった事で、色んな理不尽な目にも合ってきたけれど
それでも、優しい自分で生きてきたことを誇りに思う時があります。
だいぶ傷だらけになったけど、
怒りや憎しみから、優しくない人にならなくて本当に良かったと思うんです。
不格好だけど、優しくて弱い自分を貫いてきて良かったなと思うのです。
優しくて弱い人だけが、優しくて強い人になれるのだから。
生き辛さを感じる人は、優しくて弱い人が多いです。
優しくて弱いから、悩んだり、傷ついたりするのだから。
そうなってしまう原因はハッキリしていてね、
自分が無いからなんだよ。
自分を取り戻していけば、優しくて強い自分になれる。
そこが伝わる様な文章を書きたいと思いながら、
毎日、このブログを書いています。
優しくて弱い人の心の傷が癒される事を願って。
どんな世の中だろうと、私は優しい人が大好きです。
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