高校野球があったから今でも
千葉県は高校野球が始まりましたね。
母校の成田高校も今日が初戦みたいです。
知っている選手がいなくなってから深く追うことはなくなりましたが、今でも応援はしています。
僕は今でも野球を続けている、というより辞められないでいるのは、高校野球の経験があったからだと思います。
高校時代~1年時~
僕は1年の秋に初めてベンチに入ることが出来ました。
夏の練習試合、Aの試合は常にベンチ入りが19人で試合をしていました。
(大会のベンチ入りは20人)
そして、練習試合の中日にベンチに入っていない人たちで紅白戦をしました。
その紅白戦で「今日1番良かったやつをベンチに入れる」と監督から一言。
俄然気合が入った僕は、その日2ベースを打ち、翌日の練習試合からベンチに入ることが出来ました。
とはいってもヒョロヒョロでパワーがない僕はスーパーサブという形でのベンチ入りでした。
つまり、試合に出るには圧倒的に実力不足でした。
秋の大会もただベンチを温めるだけで終わり、春に向けて練習を積む日々が始まります。
しかし、帝京高校との練習試合でサインミスし、それからずっとベンチ外。
さらに、腰を怪我してしまい、冬のトレーニング期間を棒に振ります。
当然春、夏はベンチに入れずにスタンドで悔しい想いをしました。
高校時代~2年秋から3年春~
そして、最高学年になった夏。
守備は当時から評価されていたため、バッティング練習に時間を注ぐ毎日。
当時の成田の夏休みの全体練習は守備練習だけで、基本的に2時くらいには終わっていました。
それ以降は自主練という形になり、日が落ちるまでバッティング練習をしていました。
しかし、トスバッティングをしていると、相手の打球が右目に直撃。
6針縫い、一時的に視力も落ちました。
これから練習試合が始まるという大事な時期に練習を離脱。
半端じゃない焦燥感が僕を襲いました。
そして復帰後初の練習試合で、ベンチに入ることは出来ましたが2,3番手ショートというポジション。
しかし、たまたまサードの1番手と2番手がミスをし、監督から「サード出来るか」と声がかかります。
ちゃんとサードやった記憶なんて小学生以来でしたが、高校球児に断るなんて選択肢は持ち合わせておらず、また絶好のチャンスだと思った僕は
「はいっ!」と即答。
そして、途中出場したその試合。初打席はいきなり大チャンスで回ってきました。
僕の記憶だとそこで右中間に2ベースだったはずです。
会心の一撃を放ち、長い夏休み、僕はサードのレギュラーを獲得します。
夏休み、僕は本当に調子が良かったので少し自慢させてください(笑)
・出場イニング2位(299イニング)
・打率2位(.634)
・3塁打1位(4本)
・打点2位(17)
・盗塁2位(5)
・犠打1位(11)
という振り返ってもあり得ない成績を残していました。
当時、打順をいろいろと変えながら練習試合をしていましたが、
”2番長谷”だけは固定されていました。
それだけ調子が良かったのです。
しかし、好調は長くは続かず、秋の県大会が始まる頃には背番号5番を付けながらベンチを温めていました。
最後の冬は怪我に最大の注意を払いながら乗り越え、春も背番号5番をもらうことが出来ます。
しかし、またしても春の県大会、ベンチを温めていました。
高校時代~3年夏~
秋、春と直前で調子を落とし、負けた試合に全く関われないという悔しい想いをしました。
夏こそは。最後の夏こそは。
その思いが強くなっていました。
夏はバッティングよりも、セカンドの守備を買われ、サードからセカンドに本格コンバート。
そして、背番号4を最後の夏にもらうことが出来ます。
しかし、またしてもベンチを温めていました。
忘れもしない。横浜創学館高校との練習試合。
8番セカンドでスタメンでした。この試合までは。
相手投手はのちに高卒で阪神に4位指名を受ける、望月投手。
守備でも好プレーをし、1打席目はセンター前、2打席目はアウトにはなってしまいましたが、良い当たりのショートゴロ。
そして、3打席目、望月投手の外のスライダーに手が出てしまい、3球三振。
ベンチに帰ったときの監督の表情を今でもはっきりと思い出すことできます。
その日はダブルヘッダーで、1試合目のメンバーから考えると僕は2試合どっちも出る予定だったのだと思います。
三振をするまでは。
横浜創学館高校との2試合目以降。僕がスタメンで出ることはめっきり減っていきました。
守備を買われてもらった背番号4番。
僕も守備には自信がありましたし、夏の大会で親を始め、多くの人に僕の自慢の守備を見てもらいたい気持ちは大きくありました。
夏の大会でも守備固めで出ることはありましたが、守備機会は0。
最後の試合、木更津総合高校。当時2年生、現楽天の早川投手との対戦。
その日もベンチスタート。
守備を買われたはずの僕に「代打行くぞ」の声が。
代打は昔から本当に苦手で、1本でもヒットを打った記憶がありません。
さらに相手は2年生とはいえ木更津総合の実質エースの早川投手。
結果はしょうもないセカンドライナーでした。
ただ、もう1打席あれば・・・という手ごたえを感じていました。
しかし、次の打席の準備をし、ネクストバッターズサークルに進む僕に聞こえてきたのは監督の
「長谷、お疲れ。」
という言葉でした。
悔しくて悔しくて。
ベンチに戻る時も涙がこぼれそうで。叫びたくて。
だけど、みんなはまだ戦っているから泣くことも出来なくて。
結果は1対7で負けました。
背番号1桁をもらいながらスタメン出場がなかったこと、
守備に自信があったのに、見せ場が1度もなかったこと、
それが本当に悔しくて、
望月投手との3打席目を変えたくて、
早川投手との2打席目に立ちたくて、
僕は今でも野球を続けているのかもしれません。
もちろん、ベンチに入れなかった仲間を思うと、僕は相当幸せだったと思います。
悔しい気持ちも彼らと比べると、とんでもなく小さいことかもしれません。
でも、もっとできたことがある。もっとやれたはず。という思いが今でも野球をする原動力にはなっている気がします。
もちろん、野球が好きという気持ちがあるからなのは間違いありません。
友達からは「野球に呪われている」と言われます(笑)
そんな不完全燃焼で野球を終えてしまった人がいれば一緒に野球をしませんか・・・?