コスト意識と生命至上主義の衝突~あえて落合陽一と古市憲寿を擁護する。
落合陽一と古市憲寿のこの記事が炎上しております。
そもそも、二十一世紀に入ってITだAIだと自動化や合理化を受け入れてきた日本で、やはり人命というものは経済的な価値基準で合理化するという主張はまだまだタブーなのかな、とも思ってしまいます。
そもそも、例えばもう死にそうな老人を病院に長期入院させることが社会保障費の無駄遣いだ、という話は今に始まったことでもないし、ずっとそれを減らすために受益者負担を増やそうというのがある意味日本の高齢者福祉のあり方であり、それを取り入れても社会保障費は増える一方で減らないというのが現状です。北欧みたいに社会保障の比率を上げればいい、という話もありますがやはり物価が上がるから日本のリベラルな方々が妄想するように住みやすい社会かと言えばそうでもないのです。
経済を合理化しちゃうことに反発するのはアナクロな田舎の保守主義と人的福祉を減らしたくない左の側の反合理主義的リベラルの双方にあると思います。
医療や福祉なんかはリベラルな方々の利権でもあるから、ここが削られると彼らの食い扶持がなくなるから落合×古市のこの主張を悪魔のそれと見なして言論弾圧しちゃうんでしょうね。この国には言論の自由があって、どんな反福祉的な言論でも一応は耳を傾けるべし、と日本国憲法にもあるのですが。
とにかく、健康で文化的な最低限の生活を営む権利は第二次大戦後、日本とあといわゆる先進諸国の国々にだけ保障された権利であり、理想や理念としてはあってもいいけど、全世界に普遍的にある権利だとは言いきれないのも事実です。
生存権は大事なのですが、それが生命至上主義を産み、人間の傲慢さを産み、人間の実存を甘やかしてるのも事実です。
生命自体、絶対の価値でもないし、それを過剰なコストを掛けてまで守る必要が果たしてあるのか、と思うのです。やはり生きるコストを適切に設定しないと、そのツケが次代に回るのです。
この国では、長らく社会福祉の経済がマルクス主義で回っていて、それはそれなりに成果があったのですが、マルクス主義は数学との親和性が悪かったので結局IT社会になって近代経済学とその後に続く新自由主義経済に国家の経済理論が置き換わると、古臭いマルクス主義経済は無意味なコストが掛かる非効率なものになってしまったのです。
新自由主義はトリクルダウンを生まず資本サイドの内部留保をいたずらに増やし続けたという弊害があり、おそらくこの後は資本主義は保護主義と国家主義が台頭して国家資本主義みたいな形で国が主導して民間の内部留保を国民に回す形になるのです。
いかんせん、非効率なやり方はたとえ人命が絡んでいても受け入れられないと思います。
社会福祉や医療(あるいは教育もそうなのですが)にはびこる経済的な効率の悪さは、やはり国家の富というか国民のエトスを劣化させると思うのです。
弱者はもちろん救うのが強者のあるべき姿なのですが、そもそも弱者は社会的・経済的コストに対する感覚に無頓着すぎるゆえに弱者になってしまうケースの方が多いと思われます。
教育の現場で経済や金融についてきちんと教えることが大事だし、日本社会に長らく根付いた医療や福祉は水と同じように安価で無尽蔵にあるものだという発想を変えて、コスト意識をたとえ社会的弱者であろうとも持たせないと、まずます財政赤字は増えるだけだと思うのです。
そして上手く、企業や個人が抱える内部留保を医療や福祉分野に吐き出させることも、政治の役割だと思います。その点では後期高齢者の医療費の負担割合を(所得に応じてだけど)もっと上げてもいいと思います。
病人だから、とか弱者だから、と言って福祉に甘えすぎるのもどうかと思うのですが。
日本に蔓延る生命至上主義にも違和感があります。安楽死や尊厳死をタブー視せず議論した方がいいです。
ただ何となく生きながらえるだけの怠惰な人生にはあまり価値がないのです。
お金と命の問題はデリケートなのですが、コスト意識を絡める議論をタブーにしないで、いかに生き生きとした命を全うできるかをもっと真剣に考える必要はありますね。