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戦争映画のはなし:なぜ、地球防衛軍はミステリアンに勝利するのか? −敗戦と原爆との戦い−

戦争映画のはなし:なぜ、地球防衛軍はミステリアンに勝利するのか? −敗戦と原爆との戦い−

映画『地球防衛軍』の海外版DVDジャケット


 日本のSF特撮映画について書いてみたいと思うが、今までとはちょっと違った視点から観察してみたい。
 原爆と日本のSF映画という観点から語れば、ありきたりなものになってしまいそうだ。
 そこはちょっと、変わった視点から解読してみようと思う。

① 日本のSF映画の3つの形態

 1950年代から1980年代くらいまで、日本のSF映画の主なジャンルは、だいたい三つに分かれていた。

1、怪獣もの
2、犯罪スリラーもの
3、SF戦争映画

 1、の怪獣ものについては、日本の本格的なSF映画が、1954年の本多猪四郎監督の『ゴジラ』から始まっているからである。これについては説明は不要だろう。

 2、に関してはゴジラと同じ年の1954年に小田基義監督が『透明人間』撮ったところから始まっている。これは前年の同じ小田監督の『幽霊男』から引き継がれているもので、横溝正史原作の金田一耕助ものの一本だった。そもそも、日本の戦前のSF小説を担っていたのは、香山滋(のちのゴジラの原作者)や海野十三といった、探偵小説作家であり、特に海野十三の作品は擬似科学を使った探偵推理小説が多かったためである。

犯罪スリラーSFの一本
『電送人間』(1960年・監督:福田純)

 3、のSF戦争映画については、戦前にはほとんど系譜がないのだが、押川春浪の『海底軍艦』や海野十三の『火星兵団』などの小説は存在した。映画としては1956年の島耕二監督の『宇宙人東京にあわらる』と、その翌年の1957年の本多猪四郎監督の『地球防衛軍』からとなるだろう。

『地球防衛軍』(1957年・監督:本多猪四郎)

 『ゴジラ』(1954年)はビキニの水爆実験の影響で目覚めた大怪獣が日本に上陸するというお話しで、『透明人間』(1954年)は透明特攻隊の生き残りを中心にした犯罪もの、『宇宙人東京にあらわる』(1956年)は人類の原水爆保有を警告してくる宇宙人の話、『地球防衛軍』(1957年)は怪遊星ミステリアンが武力を持って地球侵略してくる話である。

 その後の、これらの3つの路線はともに戦争がいくらか関係した形で進行してゆくことになる。

② 日本のSF映画と「科学戦」

 日本のSF映画は絶えず戦争というものを意識してきた様相がある。

 『地球防衛軍』(1957年)と、その続編的作品『宇宙大戦争』(1959年)は完全に戦争映画だ。
 地球上での宇宙人との戦いを描いた『地球防衛軍』、その戦いを宇宙にまで広げた『宇宙大戦争』。未来の核戦争を描いた『第三次世界大戦ー四十一時間の恐怖』(1960年)『世界大戦争』(1961年)、そして、帝国海軍の秘密兵器「轟天号」がムウ帝国と戦う『海底軍艦』(1963年)。
 怪獣ものと宇宙戦争映画を組み合わせた『怪獣大戦争』(1965年)、海底での戦争を描いた『海底大戦争』(1966年)『緯度0大作戦』(1969年)、人類以外の種族が蜂起する『昆虫大戦争』(1968年)などなど、これらはSF映画でありながら、戦争をどこかで主題に取り込んでいる。

 これらのほんとんどの作品が、科学力によって誘起された戦争に対して、人類が科学をもって戦い、勝利するというパターンものが多かった。

 戦争の基準に当てはまらないSF映画は非常に少ない。巨大遊星の地球激突の危機を描いた『妖星ゴラス』(1962年)、小松左京原作の『日本沈没』(1973年)『エスパイ』(1974年)や五島勉原作の『ノストラダムスの大予言』(1974年)、倉本聰脚本の『ブルークリスマス』(1978年)などの作品などである。

 本格的なSF映画が得られない日本では、逆にSF映画とはいい切れない角田喜久雄原作の『虹男』(1949年)や、安部公房原作の『他人の顔』(1966年)といった作品までSF映画として紹介されていた時代もあった。

 海外に目を向ければ、日本の1、2、3、だけでなく、SF映画は、あらゆる可能性があった。『金星ロケット発射す』(1960年)『華氏451』(1966年)『惑星ソラリス』(1972年)『スローターハウス5』(1972年)などなど、哲学的なSF映画作品も数えきれないほどある。

 逆に言えば日本のSF映画は極めてジャンルが狭いということは間違いはないだろう。

 その、SF映画のジャンルでも興味深いのが宇宙戦争ものである。
 特にこのジャンルは東宝作品に多いことも特徴だろう。

 これら、宇宙戦争ものをざっと思い返しても、一様に同じような構造を持っている。

 それは「科学戦」の様相である。

 まず、東宝作品で最初の宇宙映画となると、『地球防衛軍』が挙げられる。
 この作品は、高度な科学力を誇示する遊星人ミステリアンによる地球侵略が物語となる。
 日本を中心に世界が力を合わせてミステリアンを追い返すまでが描かれる。

 もちろん、戦争によってである。

 続く姉妹編的な作品『宇宙大戦争』では、遊星人ナタールが地球を侵略してくるのだが、前作と同じで、世界が連合して宇宙空間でナタール軍を撃退する物語である。

『宇宙大戦争』(1959年・監督:本多猪四郎)

 この二作品とゴジラシリーズを組み合わせたのが『怪獣大戦争』(1962年)で、謎の宇宙人X星人が、ゴジラ、ラドン、キングギドラの三怪獣を武器にして、地球侵略を試みるという物語。
 さらにこれは『怪獣総進撃』(1968年)から『ゴジラ対ガイガン』(1972年)、『ゴジラ対メガロ』(1973年)、『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)、『メカゴジラの逆襲』(1975年)へと昭和ゴジラシリーズの後期作品にまで踏襲されてゆくことになる。

 これらの作品を見ると、全てが同じ構造をしていることがわかる。

 敵は宇宙人で、地球人よりも優れた科学力を保持しており、それに対して地球人は歯が立たない。
 そのために、地球人は、それを上回る科学力を動員して、新兵器などを開発し、戦争に投入して勝利をおさめるという構図である。

 つまり「科学戦」である。

 H・G・ウェルズ原作の映画『宇宙戦争』(1953年)も同じ宇宙人の侵略ものだが、進んだ科学力を持つ火星人に、地球人は歯が立たない。宇宙人に神の威光をもって火星人と和解しようとする牧師もレーザー光線で殺される。
 西欧キリスト教文化の人びとにとって、科学はおろか、神の力も通用しないという強大な火星人の科学力の脅威は半端ではない。

『宇宙戦争』(1953年・監督:バイロン・ハスキン)

 ところが、地球に存在した地球人にとっては無害であったバクテリアが火星人には致命的な疫病をもたらすということで、偶然にも地球人は救済されるのである。

 人間の科学力を超えるものは自然の力であるという、この結末は、ある意味で神の勝利にも近い。これは地球人にとっての奇跡である。

 しかし、日本のSF映画における戦争はこのような結末を与えることを知らない。

 常に人類が開発した超兵器によって科学力に対して科学力で対抗する「科学戦」という物語となるのだ。
 しかしながら、どう考えても、このような展開は無理がある。超兵器や新兵器の投入は彼我の科学力から考えて、そんな短期間で行えるはずはない。
 そもそも、攻めてきた宇宙人の超科学こそが恐るべき脅威であった。しかし、その力を最初から地球人が持っていたとするならば、宇宙人など恐れる必要もなかったということになる。
 この展開には毎度、違和感を禁じ得ないのだが、敵の科学超兵器に対しては、人類は同等のもの、いやそれ以上のもので対抗しなくてはならないのが、日本のSF映画観なのである。

 どうやら、このSF映画における戦争観は太平洋戦争から芽生えたものではないかと考えられる。

③ 戦争の敗因に関しての恐怖

 第二次世界大戦が始まった時、ポーランドなど西欧諸国へ進撃したドイツ軍は電撃戦を用いた。その主役は戦車を基幹とする機甲師団である。

 第一次世界大戦の戦術上の敗因として、ドイツは戦車の存在をかなり意識していた。戦争末期に前線に投入されたイギリス軍の「タンク」というコードネームで秘匿されていた秘密兵器「戦車」は前線兵士だけでなく、ドイツの軍部やドイツ国民をも震撼させた。

 そして、ドイツは負けた。

 戦車に負けたと認識するドイツ人は、再軍備の際に戦車という存在に、こだわり続けたわけである。
 そして、ドイツ機甲軍団が編成されたという背景がある。

 日本ではどうかというと、太平洋戦争で最も敗因が指摘されるのはアメリカによる広島と長崎への原爆の投下である。実際の敗因は、予測できなかったソ連の参戦であるところが大きいのだが、日本人は原爆に負けたと認識している。

 原爆という新兵器を開発したアメリカの科学力と国力は、とても日本では太刀打ちできなかった。
 仁科博士らの研究が、いかように進んでいようとも、原爆の開発と、その実用化は、とてもアメリカのマンハッタン計画には及ばなかっただろう。

 日本人は原爆、核に対して恐れを抱くとともに、原爆による敗戦ショックを受けたまま戦後を生きることになる。

 よく、語られていることだが、日本人が原子力発電に執拗にこだわるのも、核兵器転用も可能な原子力技術を手放したくはないという、深層に潜む心理からであるという。なるほど、戦車にこだわったドイツ人同様に、この読みもあながち、はずれてはいないのではないか。

 超兵器を繰り出す、敵の超科学力に対して、われわれも同等の科学力を持っていたら、あるいは敗北するはずがなかったのではないか。
 原爆の受難は日本人のどこかにその心理を植えつけたのではないか。

 それが、日本のSF映画において、トラウマ解消の一つとなって現れているのが、SF映画の超科学戦争ではないか。

 だから、超科学の超兵器で侵攻してくる宇宙人には必ず、日本のSF映画における地球人はそれ以上の科学力の兵器で勝利しなければならないのだ。

④ 第二の戦争映画としてのSF映画

 H・G・ウェルズの『宇宙戦争』のように、超科学に対して、科学を超える力で勝利するという概念はもちろん日本にもあった。
 その端的な例は、元寇の役で、モンゴルの侵略軍隊を壊滅させた神風だ。

 ところが、こうした非科学的な武力を持って勝利するという現象に対する期待や信頼も、日本人は太平洋戦争ですっかり消耗してしまった。

 精神論で戦わば、必ず神風は吹く。そのための「撃ちてし止まぬ」「一億玉砕」という思想は、数字の計算に基づいて周到に準備された、原爆を投下する敵の合理主義の前に完全に打ち砕かれたのである。

 ここで、日本人は二つの心理に悩ませられることになる。
 一つは、いままで信じ込んできた概念、つまり神州日本は神の国であり、どんな敵であろうと負けるはずはないというものである。もう一つは、太平洋戦争は無謀な戦いであって、敵の強さについて、自分たちはあまりにも無知であったということだ。

 自分たちが教えられ、信じてきた精神風土による無敵神話という動かし難いものと、合理的な計算に基づく科学による敗北とが、お互いに反目しあうことになった。

 ところが、戦後民主主義のなかにあって、前者は当然の如く、切り捨てられることになる。残るは合理主義的な戦争観となる。
 科学として考えるなら、全く、この考え方の方が正しいわけなのだが、日本人のなかには前者はどうしても巣食うことになる。
 これについては、最後に述べたい。

 勝利と敗北。
 そこに合理的な科学を持ちこんで、戦争というものを戦後、考え始めた日本人は、戦後に二つの形態の戦争映画を得たのである。

 一つは過去の敗戦に至るアジア太平洋戦争を描いた映画であり、いま一つは現在、また未来に起りうるSFとしての怪獣や宇宙人を相手に戦う戦争映画である。

 日本人にとっての原爆という攻撃を受けた経験は、戦争映画のジャンルにも大きな影響を与えてことになるのだ。
 それは、負けた戦争と勝つ戦争という二本立ての戦争映画様式だったのである。

 平和憲法のもと、新たな空想戦争を描くことは難しく、そこで、注目されることになるのが、日本のSF映画の怪獣映画というジャンルと宇宙戦争ものというジャンルなのである。
 そこでは勝つ戦争が描かれることに関して、なんの足枷もかけられることはないのだ。

 負けない戦争……。

 それは、日本人にとっては敵国をはるかに上回る科学力と新兵器による総力戦による戦争。
 原爆のトラウマがそれを誘ったことはほぼ間違いないだろう。

 不合理な精神論で戦い抜けば、必ず勝利できると教え込まれていた日本人が、合理的な科学でないと勝利できないことを決定的に信じ込ませたのが広島と長崎に投下された原爆だったのである。

 しかしながら、映画の上で地球防衛軍はミステリアやナタール人に勝利できても、海底軍艦が一隻でムウ帝国を壊滅させても、宇宙戦艦ヤマトが宇宙防衛艦轟天が、一隻で巨万の敵を殲滅出来たとしても、実際にはSFはSFだということになる。つまるところは空想物語である。
 現実の世界では、原爆によって打ち砕かれた精神も現実の戦争も、実のところは一ミリほども変化することはないのである。
 そして、われわれはそれを知り過ぎるほど知っているのだ。

 ところが、地球防衛軍は勝利をおさめる。
 地球人が太刀打ちできない、強大な超科学という脅威を持って、地球を侵略してきた宇宙人に対して、追い詰められる地球人。しかし、突如として宇宙人の超科学を凌駕する超科学を持ち出して、それを撃退する。
 例えるなら、広島と長崎に、原爆を投下された日本が、実はこんなすごい兵器をわれわれは開発したぞ! と数週間のちにアメリカ本土を壊滅させたというのに等しい話である。

 ここには数字で計算された合理的な科学としての戦争は存在しない。

 合理的な計算に基づく科学による敗北を認め、合理的な科学による戦争のあり方を学んだはずの日本人は、SFという戦争映画のなかに、それを持ち込んでいるように「見せかけ」ながらも、不合理な勝利を謳歌しているのだけなのである。
 地球防衛軍の勝利は、言ってみれば「ご都合主義」の「疑似科学」であり、その展開は過去における「神風」となんら変わらないのである。
 結局のところ、「神風が吹く」という根拠のない精神論における「神」を「科学」に転換させているに過ぎないのだと気付かされるのだ。

 原爆という科学に対して通用しなかった「神風」の思想は、それを科学に置き換えることによって、宇宙人の超科学にぶつけて見せている。
 それが戦後の日本SF映画における戦争観なのである。

 逆にアメリカの『宇宙戦争』のように超科学によって火星人に対抗し得ない地球人が地球上の原生的なバクテリアによって救われるという「神風」的展開の方が全くもって合理的科学性に基づいているのだ。

 1970年代を境に、日本のSF映画は原爆による戦争のトラウマが生んだ幻想戦争映画としての怪獣映画や宇宙戦争映画が作られることが少なくなっていった。

 しかし、その芽は今も生きている。

 1990年代の平成ゴジラシリーズでは大森一樹監督の『ゴジラVSビオランテ』、『ゴジラVSキンググドラ』を起点に、原爆のトラウマに対抗する、この超科学兵器戦争は継続されることになった。
 そこにも合理的な科学で勝利する戦争の姿はなく、不合理な「神風」的疑似科学が依然と存在し続けている。

 結局のところ、太平洋戦争の災禍から80年経とうとも、われわれの戦争の記憶と、終わらぬ戦後のなかで、SF映画はいまも海外に比べれば、以前とは変わらない、狭い世界へと押し込められ続けている。

 同時に、SF映画における戦争の世界の中でさえも、日本人はあの戦争観を克服しえていないのではないだろうか。

 日本のSF映画史にはそれが見え隠れしているのだ。


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