戦争映画エッセイ:映画『大虐殺』と古田大次郎というテロリスト
「横暴なる権力が続く限り、俺たちが死刑になってもあとに続く者がいるぞ!荒川で朝鮮人や日本人同朋を抹殺した奴らはどうして処罰されないんだ!甘粕たち はなぜ釈放されたんだ!みんな、こんな不公平が許されていいのか!権力による暴圧は必ず滅びるぞ!俺たちは民衆のため闘っているのがわからいのかぁー!!」
1959年の新東宝映画『大虐殺』(小森白監督)。大杉栄を死に追いやった陸軍大将福田を爆殺しようとして失敗、憲兵隊に逮捕され連行されてゆくアナキスト、古川(天知茂)が詰め寄る新聞記者たちに叫ぶ。これがこの映画のラストシーンだ。
関東大震災どさくさで1923年、9月16日、アナキストの大杉栄と、その内縁の妻、伊藤野枝、大杉の幼い甥が、憲兵隊に連行され、憲兵隊司令部で、甘粕憲兵大尉に殺害された事件が起きた。
大杉栄の弟子たちが、この事件に対して復讐を誓い、テロを計画、実行しようとしたが、失敗に終わった。
いわゆるギロチン社事件である。
この事件の主犯格だった古田大次郎を主人公にした劇映画が新東宝の『大虐殺』だった。
一見して政治イデオロギー的な作品と目されそうだが、制作会社の新東宝は政治的には右派か左派かはっきりしないスタンスだった。 社長の大蔵貢は、当たれば右でも左でもよいという方針であったから、この作品がアナキズムを支持して制作されたというわけではなかった。単に歴史物語のキワモノという位置付けだと考える方が正解かもしれない。 それでも、古田のテロリズムは実話を超えて、陸軍省に忍び込んで将官を爆殺しようとするという壮大な物語に作り変えている。関東大震災に起きた朝鮮人虐殺暴動や、政治活動家の殺害に軍が関与しているというラインで、追及しているなど、極めて反軍的で政治的な作品出ることは間違いはない。 古田をモデルにした主人公、古川を演じた天知茂の鬼気迫る演技もこの映画の情感を最大限に引き出している。 印象としては天知茂のギラギラした凄みが光っている。
この作品よりも後になるのだが、同じ天知茂が出演している大映映画『眠狂四郎無頼剣』(伊藤大輔脚本)を初めて観たとき、私は不思議と天知が演じたテロリストの侍、愛染に共感を覚えた。市川雷蔵の狂四郎よりも魅力的に感じたし、狂四郎の剣に敗れて倒れる愛染の死に際の美しさ、あるいは人間としての優しさは江戸幕府という権力を倒すため大江戸を火の海にしてしまおうというテロリストの顔とは対照的に美しいものだった。
映画では狂四郎の敵、悪役になるのだろうが愛染は憎めない人物だった。
この後、私はVHSビデオで手に入れた新東宝の『大虐殺』(ビデオのタイトルは『暴圧』だった)を観てなるほど、愛染のモデルは古田大次郎なのだと思い当たった。
過去に『大虐殺』で古田(劇中 では古川)を演じた経験を持つ天知茂というキャスティングも偶然とは思えないし、大川平八郎が惨殺されたことへの復讐と江戸幕府の権力を倒さんがため少な い残党同志を集めてテロを画策するという辺りは大杉栄の仇討ちと権力への抵抗という『大虐殺』の古川の姿とピタリと重なる。
ただ違っている点といえば『眠狂四郎無頼剣』の愛染がテロによって無関係の大衆を大規模放火テロで巻き込もうとする点で、『大虐殺』の古川のテロは大衆を巻き込むことは毛頭ない。
愛染のテロが大衆を巻き込むという設定は、この観客たちにとって共感すべきテロリスト愛染のキャラクターに意外や「悪」を感じさせる。古田大次郎をモデル にしていたとしても愛染は眠狂四郎の正義の剣の前に倒れなくてはならないから、そのテロの大義と純真さに正当性を持たせてはならないということだろう。
『大虐殺』における古田大次郎のテロは大衆を巻き込まない。これは史実でもそうだった。もっともテロ資金集めのために古田たちは強盗殺人までやっているの で大衆を巻き込んでいないとは言い切れないのだが、大義のためのテロでは愛染のような大衆に多大な損害を与える方法は取らなかったのである。
映画『大虐殺』における古田大次郎は概ね史実に則しているが違っている点もある。関東大震災の後憲兵隊に連行されて荒川で朝鮮人たちと共に銃殺されそうに なるのを命からがら逃げ出すという展開や、尊敬する大杉栄先生が甘粕たちに殺されたことからギロチン社を結成し復讐のためテロを決意するという辺りは映画 の創作だ。関東大震災が起こったときには古田は東京ではなく大阪にいたし、暗殺テロはそれ以前から画策していた。
『眠狂四郎無頼剣』の愛染は大川平八郎の復讐、『大虐殺』の古川は大杉栄の復讐という事がテロ活動の動機となっているが古田大次郎はそうした個人的な恨みにテロの動機を求めたのではないようだ。大杉栄の仇討ちへの想いが強かったのは同志である中浜哲の方だったようだ。『大虐殺』における主人公、古川は古田と中浜の両名を合成して創り出されたのではないだろうか。
テロによる権力の打倒とそれによる社会変革を信念に持って殉教者として捨て石になることを古田は望んだ。その純粋さと信念はテロリストという彼の看板とは何となく相反するものを感じる。それはある意味危険な魅力なのかもしれない。
古田のそうしたテロの大義は冒頭に挙げた映画『大虐殺』のラストの古川の叫びに集約されている。テロの動機がなんであれ映画『大虐殺』はフィクションながらも古田大次郎とギロチン社事件をよく描いた映画だった。
古田大次郎という現代では殆ど忘れられた残照が『大虐殺』と『眠狂四郎無頼剣』という映画で天知茂という特異な役者によって留められたことは意義深く、映画文化の一端の最小限の幸いであったと思う。
テロによる社会変革という思想の是非はともかく、少なくともこの二本の映画によって古田大次郎は映画芸術の中で生きているのだ。