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小説『虹になった零』永田喜嗣戦争文学集①より


🟢『虹になった零』について

 この作品はある文芸誌に終戦記念にあわせて寄稿した作品で、15年以上前のものです。
 この物語はそれ以前から10年ほど温めていました。
 なんとも辛く書けないなと思っていて、ふと物語を当時のパートナーに話すと、最後で彼女ははらはらと涙をこぼして、私に書くべきだと言いました。
 そして、文芸誌に掲載後、ちょっと反響があって小さな本にもなった思い出深い短編です。
 戦争で祖国のために死んだ人に私たちは「ありがとう」と言ってはならない、「ごめんなさい」でないと戦争は終わることを知りません。
 そんな想いをこめて、今回結末部分を少し書き改めました。
 戦争について、みなさんが、それぞれ感じていただければ幸いです。
              著者

虹になった零(ゼロ)
作・永田ヨシツグ

⭐️1、目を覚ました零(ゼロ)

 零(ゼロ)がはじめて見た物は格納庫の扉から漏れる一筋の光でした。
扉が開かれると、それはどんどん広がって大きくなり、零の銀に輝くプロペラや、緑に塗られた身体、その中に真っ赤に輝く日の丸を眩く照らしました。

「キタハラさん、あんたの相棒だよ。」
白い服を着た整備員のコジマさんが、零をニコニコと眺めていた飛行服を着た若い男の人に声をかけました。
キタハラさんは零の翼をなでて静かに言いました。
「よろしくね。」
『こんにちは!キタハラさん』
零は静かに答えました。
『ああ、この人、僕が乗せる人なんだな。早く飛んでみたいな。』
そう、零は空を飛ぶために生まれてきたのです。
青い大空を。
そして、今、一緒に大空を飛ぶキタハラさんと初めて出会ったのです。
キタハラさんは零の翼にひょいと駆け上がり操縦席を覗き込みました。
「うーん、ピカピカですね。」
「早速、昼から飛ばしてみますかね。整備は万全ですよキタハラさん。」
コジマさんはニコニコそういって零の胴体をコンコンと突きました。
「前の零式はスクラップになっちまったが、あなたは元気で帰ってきなさって本当 に良かったですよ。」
「ありがとうございます、班長殿。」
『今日、いよいよ飛べるんだ……』
 零は心の中でワクワクしながら言いました。
 
 零は格納庫から出されると、滑走路の脇に他の飛行機たちと一緒に並べられました。
そこには零とよく似た飛行機たちが15機ばかりずらりと並んでいました。
『よう、ピカピカだね。』
横に並んだ零と同じ姿をした飛行機が声をかけました。
『零です。みなさんよろしく!』
『おーい、みんな、新入りさんだぞ。ピカピカの新品さんだ。』
『ちょいとトンビみたいに飛んでみるかね。』
『ブンブン荒鷲、ブンと飛ぶぞ!』
並んだ飛行機たちがゲラゲラと笑いました。
『何か可笑しいですか?』
零はすこしムッとなって言いました。
『いやあ、失敬。別にみんな悪気があるわけじゃないんだ。俺は204号。おまえさんは名前があるんだね。ここの連中はみんな番号が名前さ。』
『僕の名前は工場いたタロウくんが付けてくれたんです。みんな僕のこと零って呼んでました。』
『そうかね。ここにいるのはみんな古顔さ。ここの基地にずっといたわけじゃないけど、あっちこっちから集められてきたんだ。俺はここに来る前はずっと北の方に いたのさ。みんな流れてたどり着いたのさ、ここにね。』
『流れついた?』
零は不思議そうに言いました。
『ああ、そうさ。でも俺も含めてここにいる連中はみんなベテランだよ。中には千時間以上も飛んでる奴もいるのさ。』
『へえ、みなさん凄いんですね。千時間かあ。僕はまだ0時間ですよ。』
『いやあ。おまえさんは……』
『流れ着いただと! 貴様、ふざけるな!』
突然、大声で怒鳴ったのは204号の隣にいた801号でした。
『おい、204、流れ着いたとは聞き捨てならんぞ。俺は台湾、フィリピンとずっと大空を駆け巡ってここへ来たんだ。ここはその俺が来た基地だ。貴様らもここへ  来られたことを名誉だと思え。ふん、こんな青二才が俺達と一緒に並べられるかと思うとむかっ腹が立つね。』
『勘弁してくださいよ。別にそんな意味で言ったんじゃないですよ。』
204号は慌てて801号に言いました。
『言葉には気をつけろ!』
零はあまりの荒っぽい飛行機たちの会話に少し不安になりました。
『なあに、心配することはないさ。おまえさんもすぐに慣れるさ。』
零はぼんやりと前を向きました。滑走路をはさんで向かい側に古い2枚羽根の飛行機が一機、止まっていました。その飛行機は零たちと違って全身をオレンジ色に塗られていました。
『じいさま!いい話し相手が出来そうですなあ!』
801号が意地悪くオレンジ色の飛行機に声をかけました。
じいさまと呼ばれたそのオレンジ色の飛行機は何も答えずじっとしていました。

⭐️2、青空を飛んだ零(ゼロ)

 午後になって零は数人の白い服を着た整備員の人たちに翼を押されて滑走路へ出て行きました。
『いよいよ飛ぶんだ。』
 零は少し身震いして翼を揺らしました。
『おう、がんばれよ。トンビ君。』
『ちょいとお空へご招待!』
 飛行機たちは、からかうように口々に喝采を上げました。
 発進位置まで進むと、零の目の前には真っ直ぐ伸びた長い長い滑走路がありました。
夏の強い日差しが、滑走路の行く手にゆらゆらと陽炎を立てていました。
『ようし、がんばって飛ぶぞ!』
 零は怖い気持ちを必死で抑えながら、ぴんと両方の翼を張りました。
ふと左側を見ると、あのオレンジ色の飛行機がじっと零を見ていました。
 飛行場の建物からはキタハラさんをはじめ、十人くらいがゾロゾロと出てきました。
コジマさんは零の翼をこつりと叩くとニコニコしました。
「頼むぞ!しっかり飛んでくれよな。」
 キタハラさんは、零の傍らで薄緑色の制服を着た年配の人と何か話していましたが、さっと気を付けの姿勢をとって敬礼をしました。
「北原少尉、只今より慣練飛行を行います!」
キタハラさんが零に乗り込みました。

 エンジンのスイッチが押されると、零はカウルをぶるるんと震わせて煙をふっと噴出しました。プロペラが回り始めます。
「頼んだよ!」
 キタハラさんはスロットルを徐々に押してゆきます。
 零は身体を前につんのめらせながらプロペラを物凄い勢いで廻し始めました。
 キタハラさんが両手をさっと左右に広げると、整備員さんたちはさっと車止めを外して滑走路の両側へ走り去りました。
 零は滑走路をグングン走ってゆきました。
 自分でも驚くほどの速さで。
 足はピッタリ地面についたままで浮き上がりません。
『行くぞ、行くぞ、飛ぶんだ!』
 零は知らず知らずの間に叫んでいました。
 ふわっと零のおしりは浮き上がり、尾輪が地面から離れました。
 ぐんぐん走ります。
 キタハラさんはぐうんと操縦管を手前に引き上げました。
 零の翼の昇降陀はぐぐっと下がり、零の身体はふわっと地上から浮き上がりました。
 あっという間の出来事でした。零はグングン地上から離れて空へ空へと昇ってゆきました。  ゆっくり右旋回すると、さっきまでいた飛行場の滑走路や建物がおもちゃのように眼下に小さくゆっくり回っていました。

『飛んだ!』

 零は叫びました。さっきまで怖かった気持ちもどこかに行ってしまいました。
やがて零とキタハラさんは雲の高さまで上りました。
 真っ青な空を真っ白い絹のような雲がゆっくりと零の左右を流れてゆきました。
『何て気持ちがいいんでしょう。キタハラさん!』
 零は生まれてはじめての空の素晴さに感激していました。

まなびのにわよ われらが ぼこう 
わかき がくとの りそう もゆ 

 キタハラさんが歌っていました。
 地上では見られなかった嬉しそうな顔でキタハラさんは歌っていました。
『でも、ここには何だか何度も来たことがあるような気がするな。』
 零は何となくそんなことを考えながら、びゅうびゅう風を斬りながら飛んでゆきました。

ていと ていと ていと ていとだいがく われらのていと……・

 零は風の鳴る中、プロペラを唸らせながらキタハラさんと歌っていました。

 その夜、零は格納庫で、あのオレンジ色の古い飛行機の隣に並べられました。
 零は昼間飛んだ空のことが忘れられず、何度も思い出してはワクワクしていました。

 静かな格納庫の中では204号と801号がボソボソと話していました。時折大きくなる声が零にもところどころ聞こえてきました。
『あんたばかりが、がんばって来たんじゃないんだ。俺だってあんたがフィリピンにいた頃は、息もできない一万メートルの空の上でB公相手に戦ってたんだ!』
 零にはその意味がよく分かりませんでした。でも204号と801号は何か言い争いをしているようでした。

『わしら飛行機は楽しいものだがなあ。もうそんな飛行機もなくなってしまったのか。』

 オレンジ色の飛行機がそう呟きました。

⭐️3、タロウくんと零(ゼロ)

 次の日の朝のことです。
 キタハラさんとコジマさんは小さな子供を傍らにつれて零のところへやって来ました。
「おい、この子を憶えてるかい?」
 子供はキタハラさんから離れて、零の胴体の真っ赤な日の丸に、両手を広げて小さな頬をぴったりつけました。
「少尉さん、この飛行機です。僕の零です。この日の丸、僕が塗ったんです!」
『ああ、この子はタロウくんじゃないか!』
 零はびっくりしました。それは工場で零の色を塗ってくれた国民学校の学生のタロウくんでした。
「のってみるかい?」
「ほんとですか!はい!」
「内緒だよ」
 タロウくんはキタハラさんに助けてもらいながら、零の操縦席に座りました。
「うわあ、すごいなあ」
 タロウくんはニコニコと声を上げました。
『タロウくん、元気だった?また会えてうれしいよ。』
 いつも零をからかう他の飛行機たちもなぜか、何も言いませんでした。
『昔を思い出すね。』
 204号がぽつりと言いました。

 その日も零はキタハラさんと空を飛びました。
 あの真っ青な大空を。

 こうして何週間かが過ぎてゆきました。

⭐️4、飛行機の国へ

 その夜、格納庫はいつもと違って、整備員さんたちが夜遅くまでごそごそしていました。
801号や他の飛行機の周りで整備員さんたちが集まって何か作業をしています。
『何だろう?こんなに遅く……。』
 零は不思議そうに呟きました。
『二十五番をつんでるのさ。』
 204号はいつになく元気なく、答えるともなしに言いました。
『801号さん……』
『204号、どうやら貴様とはもう喧嘩も出来んな。』
『私は……いままで……すみませんでした。あなたにはずいぶんひどい事も言ったりして……』
『なあに、気にするなって。お互い様だよ。世話になったな。またどこかで会えるといいな。貴様と会えてよかったぞ。』
 そう言うと801号は笑いましたが、204号は黙っていました。
 この様子を見ていたじいさまはほっとため息をついて呟きました。
『わしら飛行機は楽しいものだがなあ。もうそんな飛行機もなくなってしまうのかねえ。』
 零はじっと801号を見ていました。

 その次の朝早く、801号と5機の飛行機が滑走路に並んでいました。
 胴体には204号が言っていた「二十五番」が一つずつ、吊るされていました。

 滑走路の脇では飛行服を着込んだ搭乗員と整備員さんたちが集まっていました。
ずらっと並んだ搭乗員の前に勲章をつけた制服を来た人が立ちました。
「今、祖国は危機である!」
 制服を着た人は大きな声で話し始めました。
『また始まった……』
 滑走路の脇に並んだ飛行機たちは口々に呟きました。
「この危機を救えるのは私のような司令官でも、軍令部総長でも、海軍大臣でもない! 真に諸君らのような若い人たちなのだ!」
『俺達は?』
 204号が叫びました。
「本官は一億国民に成り代わって諸君にお願いする! 諸君の不屈の闘志と、決死の覚悟でわが祖国を救ってもらいたい!」
 一斉に搭乗員達は飛行機に乗り込み、エンジンをかけはじめました。
『みんな! 世話になったな!』
 801号がエンジンを唸らせながら言いました。
『801号さん!』
 零も大声で叫びました。
『若いの、元気でな!いつまでも飛ぶんだぜ!』
 あっという間に801号たちは次々と空へ舞い上がってゆきました。
 キタハラさんたちも一生懸命、帽子を振りながら叫んでいました。
『みんな、どこへ行くんですか?』
 零は204号に尋ねました。
『みんな、どこへ行くんですか!』
『帰っちゃ来ないんだよ。零。みんな飛行機の国へ行くんだ……』
『飛行機の国?』
 じいさまはいつもの場所でじっと黙ってこの様子を見ていました。

 204号が言った通り、日が沈む頃になっても801号たちは帰ってきませんでした。

 次の朝もまた飛行機がずらりと滑走路に並べられていました。
今度は204号にも二十五番が吊るされていました。

『零。お別れだな。短い間だったが、おまえさんと会えて楽しかったよ。』
『行かないでください。204号さんがいなくなると僕はどうしたらいいんですか!』
『それは出来ないんだよ。零、おまえは俺の友達だ。お前は知らなかったかもしれないが、お前の右の翼も、お前の胴体も、俺の壊れた友達たちのものだったんだ。お前はね、憶えちゃいないだろうけど。俺と何度も何度も空を飛んでいたんだよ。これからもお前一人で飛べる。いつまでも飛ぶんだぜ。いいか、約束だぜ、もう壊れちゃならねえ』

 整備員さんたちが204号の翼を押しながら滑走路へ出て行きました。

『あばよ。零!』
『204号さん!』
 零は必死に叫びました。
 朝焼けの空へ向って204号たちは、たくさんの人々の声援に送られながら次々と消えてゆきました。

 零は滑走路の脇で、残ったたったの四機の新入りの飛行機たちと、204号たちを待っていました。
 しかし、やはり誰も帰ってきませんでした。

⭐️5、最後の夜に

 夜になって、がらんとした格納庫にコジマさんとキタハラさんが入って来ました。
 零はふと目を覚ました。どこからかにぎやかな歌声が聞こえていました。
『キタハラさん、僕たちも明日、飛行機の国へ行くんですね。』
 零の胴体にはあの二十五番が吊るされていました。
 この様子を見ていたじいさまは、深いため息をつきました。

「キタハラさん、私は悔しい。せっかく直したこいつに、二十五番、この二百五十キロ爆弾を抱かせなきゃならんとは! あんただってそうだよ。命まで落としかけて元気になったっていうのになんで行かなきゃならんのか……私にはどうにも……」
 コジマさんは帽子を脱いで涙を拭いました。
「班長、言わんでください。今晩は班長の馴染みのこいつの傍らで、読みかけのゲーテを最後まで読み上げますよ。それでいいんです」
「キタハラさん」
「なあに、見事、敵空母の甲板に突っ込んでやりますよ。私の魂はファウストのように天使が天国へ運んでくれます。私だけ靖国神社には行かんですが……」
 キタハラさんは笑っていました。
 それは広い格納庫に寂しくこだましていました。

⭐️6、虹になった零(ゼロ)

 朝早く、零と残ったわずかな飛行機が滑走路に並べられました。
 この日はいつもの人以外にも、たくさんの子供達や女の人たちが集まっていました。
 みんな手に小さな日の丸の旗を持って、元気よく振りながら歌を歌っていました。

わーかい、ちーしおのよかれんのー
いーきのつばさーは、しょうりのつばさー

 ずらっと並んだ搭乗員の前にいつもの白い制服を着た人が立ちました。
「今、祖国は危機である!」
 白い制服を着た人は大きな声で話し始めました。

きょうもとぶとぶ、霞ヶ浦にゃー
でっかい、きぼうのくもがわーく

「この危機を救えるのは私のような司令官でも、軍令部総長でも、海軍大臣でもない!真に諸君らのような若い人たちなのだ!本官は一億国民に成り代わって諸君にお願いする!諸君の不屈の闘志と、決死の覚悟でわが祖国を救ってもらいたい!」

 一斉に搭乗員達は飛行機に乗り込み、エンジンをかけはじめました。
エンジンのスイッチが押されると、零はカウルをぶるるんと震わせて煙をふっと噴出しました。プロペラが回り始めます。

「零! 零!」

 爆音の中で聞き覚えのある声が聞こえてきました。
『あ、タロウくんだ!』
 零ははっとしました。

 キタハラさんはスロットルを徐々に押してゆきます。
 零は身体を前につんのめらせながら、プロペラを物凄い勢いで廻し始めました。
 キタハラさんが両手をさっと左右に広げると、整備員さんたちはさっと車止めを外して滑走路の両側へ走り去りました。

「零ー! 零ぉー!」
 タロウくんは必死に零に向って叫んでいます。
『タロウくん!』
 零は滑走路をグングン走ってゆきました。
タロウくんは砂煙が立ち上がる滑走路の脇を泣きながら零を追いかけて走りました。
『ああ、タロウくん、二十五番が重いよ。』
 足はピッタリ地面についたままで浮き上がりません。
『タロウくん!タロウくん!』
 零は知らず知らずの間に叫んでいました。

 ふわっと零のおしりは浮き上がり、尾輪が地面から離れました。
 ぐんぐん走ります。
 キタハラさんはぐうんと操縦管を手前に引き上げました。
零の翼の昇降陀はぐぐっと下がり、零の身体はふわっと地上から浮き上がりました。
「零!」タロウくんは顔をクシャクシャにしながら、大声で叫んでいました。
 あっという間に、その姿も小さく豆粒のようになってゆきました。

 どれだけ飛んだでしょうか。

 飛んでいる間、キタハラさんはあまり話しませんでした。
 あの歌も歌いませんでした。
 やがて雲を超えて、零たちはゆっくりと下がってゆきました。
 眼下には、見たこともない真っ青な美しい珊瑚礁の海が広がっていました。
『うわあ、何て奇麗なんだろう!ここが飛行機の国?』
 零はいつしか楽しい気持ちになりました。
 どこまでも、どこまでも真っ青な海です。
『ああ、このままどこまでも飛んでゆきたいな』

 ふと見ると遠い空に小さな黒い雲がポンポン現れました。
『何だあれは?』
 零が見たこともない奇妙な雲でした。
 ボンボンと鈍い音をたてながら、その黒い小さな雲は、青い空に点々と広がってゆきます。
 その下にはキラキラと光るたいへんな数の船が浮かんでいました。

 黒い雲に近づくと、零の身体に弾き飛ばされそうな衝撃が走りました。

『何だ、これは!……キタハラさん?!』
「零、行くぞ!」

 キタハラさんは操縦桿をぐっと倒しました。零の身体はがくんと震えると真っ直ぐ 海へ向って降下を始めました。行く先には大きな船がありました。
 ボンボン黒い雲があがり、黄色い光がピュンピュンうなりながら零に向って飛んできました。

『キタハラさん!キタハラさん!船にぶつかりますよ!キタハラさん!』
 零は必死に叫びました。
 ものすごい衝撃が何度も零の身体を襲いました。
「かあちゃん!」
 キタハラさんが叫びました。
『ああ、ぶつかる』

 その瞬間、零の身体に黄色い光が物凄い勢いでぶつかりました。
一瞬、零には何も見えなくなりました。

 気がつくと船の上を飛び越えて、全身穴だらけになりながら零は黄色い光と黒い煙に中をすり抜けていました。

『ああ、どうしたんだ……キタハラさん、キタハラさん、大丈夫ですか!』

 零は必死になって叫びましたがキタハラさんは答えません。
 キタハラさんはがっくり首をうな垂れて操縦席にうずくまっていました。
ぐんぐん、海面へ下がってゆく零は、必死になって浮き上がろうとしました。
 しかし、思うように体がうごきません。
 その時、突然、昇降舵が下がり、零の身体は浮き上がりました。

『飛ぶんだ、飛ぶんだ、壊れちゃいけない。約束したんだ。204号さん!』

 気がつくと零は、真っ白な煙を吐きながら一人、真っ青な珊瑚礁の海の上を飛んでいました。もう黒い雲も黄色い光も見えません。
 青い空と白い雲と青い海だけが広がっていました。

『飛ぶんだ……飛ぶんだ……ああ、もうダメだ』

 零は、全身の力が抜けてゆくのを感じていました。
 ぐんぐん、流れ飛ぶ珊瑚礁の海へ向って下がってゆきました。

『タロウくん……タロウくん……』
 ふと、零はタロウくんの笑顔を思い出していました。

 コジマさん、キタハラさん、工場のおばさん、801号さん、204号さん……。

 零は最後の力をふりしぼって身体を起こそうとしました。

 一瞬、ふわっと機首を空に向けた零は、眩しい太陽を見ました。
 がくんと身体を折ると、そのまま真っ直ぐ、零は青い青い海へ吸い込まれて行きました。
 ズドンと落ちた海に水しぶきが上がりました。

 そこに一瞬、きれいな虹がかかりました。

 零が最後に見たものは、
 ちいさな虹でした。

 虹がかかって消えた青い海の上には、静かな波と風の音だけになりました。

 何事もなかったように、静かに静かに、ただ、波の音と風の音が虹のかかった青い海のうえを通り過ぎてゆきました。

 零が飛び立った基地の格納庫にはじいさまだけが残されていました。
 じいさまはとっぷりとくれた月夜の下で、まんじりともせず、聞こえてくる話し声を聞くともなしに聞いていました。

 白い制服の人がじいさまへ近づきながら、傍らの緑の制服の人に言いました。
「戦果報告を聞いたが、先任参謀、今朝のもいかんなあ、ちっとも当たらんじゃないか」
 緑の制服の人は困ったように目を伏せて答えました。
「機体はどれもオンボロで、操縦する搭乗員も  同様ですからなあ。司令、また明日補充の機体と搭乗員が到着しますからぁ……」
 白い制服の人はそれを聞くとじいさまの翼をごつんと白い手袋で叩きました。
「今度はしっかり突っ込ませにゃならんぞ」
「なんなら、この黄色いオンボロも突っ込ませますか?」
 緑の制服の人はいたずらっぽく白い制服の人に言いました。
「何をいうか、こんなのじゃあ、敵艦どころか基地の裏山にでも突っ込みかねんぞ」
 二人は大声で笑いました。
 笑い声のこだまを残して、二人は格納庫からさっさと出てゆきました。

 じいさまはたまらなくなって床にいくつもいくつも油のしずくをほろぽろとこぼしました。

『あんたたちはわしの子どもたちをあと何機壊せば気がすむんだ......あと何機だ! わしを代わりに行かせなさい! 裏山にでも突っ込ませなさい! このわしを!』

 じいさまがぽろぽろとこぼす油の黒い染をやさしく照らすように月あかりが、ただ静かにがらんとした格納庫に差しこんでいました……。

 あれから、どれだけ年月が経ったでしょうか?

 みなさんが海へ行って奇麗な虹がかかっていたら……。

 その下の海の底には、
 きれいなさかなたちと一緒に、零が静かに眠っているのかも知れません。

 801号さん、204号さん、零、そして無数の夢と翼を失った飛行機たち。

 ごめんなさい。

 もう、二度とあなたたちを壊したりはしません。
 
 いつまでも海にかかる虹となって、わたしたちに語り継いでください。

 タロウくんの孫のその孫まで、
 いいえ、もっともっと

 いつまでも

 いつまでも

 いつまでも……

 虹になったあなたたちを
 けっして忘れないように……

『虹になった零』 完



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