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堀江敏幸訳『土左日記』を読んで考えたこと ーー あるいは「日本語」の生成について

優れた現代文学としての『土左日記』

「週刊金曜日」(2024年8月2日号)に紀貫之『土左日記』(堀江敏幸訳、河出文庫)の書評を書いた。新刊を紹介する欄で有名な古典作品を取り上げたのは、この新訳がすごく創意に富んでいて画期的だからだ。

『土佐日記』といえば、〈をとこもすなる日記といふものををんなもしてみむとてするなり〉として、男性が女性のふりをして書いた随筆だと習ったはず。しかし、今回の新訳を読んで、その印象は大きく変わった。

まず、この『土左日記』(「佐」と「左」の表記の違いに注意してほしい。今回は「左」。そしてここにも意味がある)には「貫之による諸言」が付されている。これは訳者が虚構として書いた文章で、紀貫之の人間臭さ、研ぎ澄まされた言語感覚、既存の文学観への卓越した批評性があふれんばかりに表出されている。

ここで貫之はやまとうたの洗練に心血を注いだ理由を述べ、また、官人として出世を望めない事情を吐露し、さらに、自身に『新撰和歌』を編むように命じた恩人・藤原兼輔が亡くなった喪失感を抱えながら土佐へ赴任することになった空虚さを語る。繰り返すが、これは堀江敏幸の紡ぐ虚構である。

そして、彼の内にある空っぽさを言葉にしようとするのだが、しかしそれは内側の声だけでは正しくかたどることができないことに気づく。大切な人々の不在を抱える自分の空虚さと、そうした心が感知する幻影を映し出せるのは〈遠国で憂いをかこちながら記した男文字の日記ではなく、やまとうたを自在に出し入れできる、心と言葉の境をなくした、澪標のない海のような散文だけだ〉と言いながら、貫之は次のように言う。

男文字で記すには複雑微細にすぎる心のひだを、空白を残したまま表現するには、どうしたらいいのか。やわらかい外見に鉄の棒を隠し持ち、波に揺られるがままの船という器に立つための舫い網にする手段としてなしうることは、自身をいったん屏風のなかの登場人物にしてしまうしかない。屏風歌を詠み、主君の代作をこなす自分を、外から見つめるほかないのだ、と。

 男文字というのはすなわち中国伝来の漢字のこと。漢字で書かれた文書、つまり漢文は、古代の日本では公の言葉として使われていた。例えば、正史とされた『日本書紀』の大部分が中国語で書かれていたように。貫之は〈複雑微細にすぎる心のひだ〉を表現するために、言葉を掴み直すことを考えたのである(もちろん、そう書くのは堀江敏幸なのだが)。

 だから〈をとこもすなる日記といふものををんなもしてみむとてするなり〉と言いながら、貫之はこの随筆をひらがなで綴った。その現代語訳の美しさは本書をあたっていただきたいが、ここで留意すべきなのは、彼がそうした意識 ―― 〈心と言葉の境をなくした、澪標のない海のような散文〉を創出するために男文字ではないひらがなで書くこと ―― で綴った作品から、男である自分の痕跡を完全に消すのは不可能であると考えていることだ。

 本文の冒頭、〈おとこがかんじをもちいてしるすのをつねとする日記というものを、わたしはいま、あえて、おんなのもじで、つまりかながきでしるしてみたい〉と書いたあと、貫之は丸かっこで次のように記している。

 (それは必ずしも、女になりすますことを意味しない。すでにこの書が私という男の手になるものであり、土左日記という標題を持つ創作であることは、劈頭に、ほかならぬ漢字で記されているのだ。これは土左日記であって、とさのにきではない。)

 こうして日記の本文で貫之は、男文字に抵抗しながら、自分という存在を外から見つめるようにして船上で起こったできごとを縷々綴っていく。外から自分を見つめるというのは、〈私〉を〈わたし〉や別の存在に変容させながら語るということだ。僕はこうした本書の特色を捉えて、書評では、

そうした批評的な心がまえで綴られた作品は、男と女の二項対立の間隙へともぐり込み、自-他の曖昧な境界から再び〈私〉を掴む。この平安文学は、近代的な固定観念を突き崩す力を持っていると言ってもいい。

と書き、堀江敏幸の訳者あとがきの言葉を借りながら、これを〈優れた現代文学〉だと評した。そのとき僕の念頭にあったのは、紀貫之の手によるこの随筆が、たとえばドゥルーズの哲学のような、近代的な自我やアイデンティティを瓦解させたポストモダン思想を通過した先で書かれているのではないか、という直観だった ――町屋良平の『生きる演技』などのように。

 その直観はいまでも外れていないと思うけど、書評を書いたあとでもう一つ、別の解釈が思い浮かんだ。ここから先はそのことを備忘録的に書いてみたい。

「日本語」の生成をめぐって

もう一つの解釈のスキームとなるのは「日本語の成立」という問いだ。この問題に関しては日本思想史家の野口良平が少し前まで「みすず」に連載していた「列島精神史序説」という、日本の思想を古代から現代までつぶさに読み解きながら一つの精神史を編むことをもくろむ長大なプロジェクトがとても精妙にまとめている。

詳しいことを書いている余裕はないので野口の論を大雑把に要約させてもらうが、この連載の第11回で野口は「日本語の成立」について、歴史学者の酒井直樹や批評家の加藤典洋の問題提起を引き継ぎながら深く考えていた。

「日本語」を問うその方法としては、たとえば音韻や語彙や文法のシステムの側から起源や歴史を考えるやり方が、一般的にはある。あるいは、「日本語」を近代国家が作られる過程で生成された「国語」だと考えて、その成立を政治的に研究する方法も珍しくはない。

しかし、野口はこの論考で、その二つの道のいずれを取るのでもなく、「日本語」をいまだ生成途上の概念として捉え、それがどのような過程を経てかたち作られたのかを考えようとしているのだ。

「日本語」とは不思議な言語で、ずっと昔は多種多様な言葉が日本のあちこちで使われていたのだった。それがいつの間にか統一性を持った言葉として考えられるようになった。酒井直樹は日本語の生成について、〈前近代の「雑種性を許容する多言語性」から近代の「雑種性を異常事態とみる多言語性」への移行のなかで起こる〉と考えて、その過程のなかで作られた「日本語」を〈純粋的な本来性(純粋日本語)への欲望に支えられて生成した空想的構築物だ〉とみなしたというが、小難しいことはここでは問題にしない。ちょっと駆け足で進ませてもらう。

酒井直樹の問題意識を加藤典洋は評価しながら、その生成をまた別の観点から考えようとしていた(が、存命の間にその論がかたちになることはなかった)。加藤が生前に残したメモを踏まえながら、その論の骨子を野口が要約するところによると、

加藤メモのポイントは、「日本語」の生成を、優勢言語の到来とその同化圧力に対する無文字社会による抵抗のプロセスとみなすことである。言い換えれば、優勢言語に対して劣位に置かれた側が、彼我同士に対等な関係性を構築する努力のうちに、「日本語」生成の核心を認めようとするのである。

となるようだ。つまり、中国伝来の漢字が日本列島を侵食するなかで、その圧倒的な力を前になんとか抵抗をしようとするうちに〈「純粋日本語」への欲望〉が生じたわけで、〈その欲望を克服し、不必要とするための終わりなき実践(中略)のプロセスこそが、「日本語が生成する」ということの意味〉だというわけである。(この部分、野口の論考ではもっと精密な議論がされている。ここまでの僕の説明に納得いかない人は単行本化を待たれよ。)

そのさきで野口は、日本語という概念がより深化していく見取り図を描く。参考にするのは橋本治のいくつかの古典をテーマとした仕事だ。特に『これで古典がよくわかる』を取り上げ、

橋本の論の要諦は、奈良時代を「外国語で日本語をやるしかなかった」時代と規定したうえで、「漢字だけの文章」(公式文書や漢詩文)と「ひらがなだけの文章」(和歌や物語)が対立し、それぞれが不自然な仕方で展開した平安時代を、まだ「ちゃんとした日本語」が存在していなかった時代として位置付ける点である。

と整理し、また橋本が〈「『漢字』というロミオと『ひらがな』というジュリエットの」分断を克服しようとする動きが、文字文化のいわば内部と外部から現れてくる状況をも描き出していく〉ことに注目している。ここでいう文字文化の外部とは、次のようなもの。

外部とは、ひらがな表記にされることで「和歌」に形を変えた、歌のことである。漢字優位のなかで、それでも和歌が重要な意味を帯びるようになったのは、歌が男女にとって、他とのあいだに感情を介した対等な関係(婚姻を含む)を構築する手段として、「生活必需品」だったからである。女性のふりをしてひらがなで『土佐日記』を書いた紀貫之は、最初の勅撰和歌集『古今和歌集』(一〇世紀初)の選者の一人でもあったが、その「仮名序」(ひらがなによる序文)を執筆し、歌(やまとうた)の発生と人の感情(ひとのこころ)の発生を結びつける観点を示した。

すでに『土左日記』を読んだ僕には、野口・橋本が述べていることはとてもわかりやすい。〈複雑微細にすぎる心のひだ〉を表現するために、ひらがな文字を使った貫之の問題意識に通底している。

 では内部とは何か。〈内部とは散文、とくにエッセーのことである。漢文的教養に気兼ねせず、自由な気分で書きうる散文の領域への突破口を開いたのは、個としての好みの感覚が全体を貫く、清少納言の『枕草子』(ひらがな、十一世紀初)だった〉と野口は書き、しかしその系譜はその後、衰退したと言うが、ここまでで堀江敏幸訳『土左日記』を考えるにはじゅうぶんだ。

『土左日記』の貫之は男文字に抗い、ひらがなで船の上で過ごした日々を綴ることによって〈複雑微細にすぎる心のひだ〉を表現した。だが、そのなかで貫之は、絶えず男文字の抗いがたさを感じずにはいられなかった。いや、土佐から帰京する途上で日記を書いたこのときだけじゃない。『土左日記』の貫之は『古今和歌集』の序文を綴っていたときにも〈和文と漢文とのずれ、もしくは漢文の和文への浸食に対する抵抗のむずかしさ〉(「諸言」より)を感じていたのだった。

だとすれば、この貫之の、つまり、堀江敏幸訳『土左日記』を綴った作者の、おのれの心をあらわす言葉を獲得しようと試みたその奮闘、男文字の圧倒的な力によって生まれたひずみの内側からエッセーを紡いだ営為に、「日本語」の生成する瞬間を見ることはできないだろうか。この貫之は、もしかすると「日本語」を作り出そうとしているのではないか。この貫之の試みを「日本語」の成立という枠組みのなかで解釈するとき、そこに野口が橋本の論を援用しながら探った、〈「漢語」と「和語」を相互触発的に織り込んで生成する「第三の言語」として「日本語」をとらえる〉方途が切り拓かれる音が聞こえないだろうか。

今回の堀江敏幸の企みに満ちた訳業からは、そんなことを考えさせられた。この『土左日記』は、近代に抗う。この随筆は「日本語」を、生成過程にある概念としてもう一度、僕たちに捉え直させるのだ。

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