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逆説的だが、価値がある人とは「非合理な信念を持つ人」である

「価値がある人とはどんな人なのか?」について考えてみたいと思います。

私の意見は「価値がある人とは、非合理的な信念を合理的に追及する人」というものです。その理由としては、合理的な生き方を追及しすぎると、最終的に同じ発想や行動に行きついてしまい、合理的な選択を繰り返した結果として、多数派のモブになってしまい、結果的にその人の価値が低くなってしまうからです。

これを「合理的な生き方を追求する人は、価値が低くなる」と表現するなら、その対偶は「価値が高いのは、非合理的な生き方を追求する人である」となり、まさに私の答えになります。(「まずいリンゴは、価値が低い」の対偶が「価値が高いのは、おいしいリンゴである」である、と言うと、感覚的にも伝わりやすいでしょうか)

合理的な生き方が微妙な理由

合理的に生きるというのは、生きていくために最も効果的な選択をし続けるということです。最も効果的であると言い切れるという事は、ある基準をもとにして考えたときに、多くの人が同じ結論にたどりつくということです。だとすれば、自分以外にもその指針に従って生きている人がたくさんいることになるので、その中でトップ一握りを目指すのは、無謀な試みというか、自ら群れの中に飛び込み、埋没していくような行動だと思うのです。群れというのは大きくなればなるほど、トップにいる少数しか目立たず、残りの大多数はモブ扱いになります。合理的に生きているつもりが、実はあまり価値があると見なされにくい生き方になってしまうと思うのです。

それよりは、非合理な信念を持ち、それを叶えるために合理的な考え方をする人の方が、価値があるとみなされやすいのではないでしょうか。

非合理的な信念を持つのがいい理由

というのも、もともと持っている信念が非合理なため、向かおうとしている方向にある理想の世界には、まだほとんど人がいないわけです。先ほどの合理的な生き方をしている人の例のように、大多数の群れに飛び込んでいくことにはなりにくい。しかし、その非合理な信念を叶えるために、必要なステップを合理的に考えることで、少しずつ夢の達成に近づいていく。そうすることで、やがて、その人は本当に唯一無二の存在になることができます。そして、そこにいつしか価値が生まれるようになると思うのです。

もちろん、価値がある人間になれても、その価値を使って経済的に食べていけるかは別問題です。その唯一無二の個性が、市場の需要を喚起するような何かであれば、その人はそれを飯のタネにすることができますが、恐らくそんなことは稀だと思います。なので、普通の仕事をしながら稼ぎつつ、そういう非合理な信念を追及していく。そして、それを仕事や人間関係などにつなげていくチャンスがあれば、少しずつ自分の日常と理想の世界をリンクさせることで、徐々にその2つの世界の垣根を無くしていく、といった戦略がベターなのかなと思います。

ちなみにここでいう価値は「自分だけが分かっていればいい、という性質のもの」ではなく、「他人と共有できるような性質のもの」を想定しています。「自分だけがその価値を分かっていればいい」のであれば、個々人の主観の問題に終始するので、ここでその価値を語り合っても、あまり意味がないと思うからです。私は価値は基本的には、他者との間に生まれるものだと考えています。なので、「少ないものは価値が高く、多いものは価値が低くなる」という市場原理をここでは適用しています。

そして何より、価値というものを考えるうえで、

「合理を根底で支えるのは、非合理」

という意識が大事だと私は思っています。

なぜなら、

「なぜか分からないけど、○○に強烈に惹かれてしまうんだよな」

という以上に強い動機は存在しないからです。

非合理なのになぜか惹かれてしまうということは、そこに何らかの価値が内在しているからだと、個人的には考えています。

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