【短編小説】 メダカとヌマエビ
大きなボトルを水で満たして白い砂を敷き、水草を詰めた小さな世界。
その底にヌマエビはたった一匹で棲んでいた。
ヌマエビはときどき、ボトルのなかから、外をながめた。
分厚いガラスの向こうは、どろんと歪み、線も面も色もにじんでいる。
ただ、この世界が明るい部屋のなかに置かれているらしいことはわかった。
ヌマエビはいつも、目を覚ますと砂の上を這い、ときどき水草の上へ水を掻いて上った。水草には苔がほどよくついていて、日がな一日、その苔を食べた。
曇りの日になると、世界は灰色に染まり、冷たくなった。体は重く頭はうつろになった。
どろどろと雨音が響く日には身動きが取れないほどゆううつになり、水草の陰に隠れて一日を過ごした。
そして、晴れた日には、全身を温かさに浸して一心に苔を食んだ。
天候による程度の差こそあれ、日々を気ままに過ごすことはヌマエビにとって幸せだった。
ある日、ヌマエビは気づいた。
ボトルを満たす水に流れが生まれていた。
遠く、遥かに上のほうで、自分以外のなにかがいて、水を揺らし、泳いでいる。
その一挙一動が、自分の全身をつつむ水を通して、伝わってくる。
ヌマエビの目の前、白い砂の上に大きな影が落ち、ねじれるように姿を変えて、消えた。
ヌマエビはその日以来、水草の奥に隠れるようになった。
なにかがここにいると考えるだけで脳が痺れる気がした。
足を動かすことができなかった。
そのままどれくらいの時が過ぎたのだろうか。
ヌマエビがふと気づくと、繁茂する水草の向こうから、一匹のメダカがこちらを見ていた。
なにかを食むように口をぱくぱくと動かしていた。
その眼にはなんの感情も見いだせなかった。
ヌマエビを目にしているはずなのに、たいして関心を払っているようにも見えなかった。
ヌマエビは意を決して、おずおずと水草をかき分け、メダカの前へ進み出た。
するとメダカは驚いたのか、ふいに身をくねらせて背を向け、この世界の上のほうへと泳いでいった。
そんなに怖がらなくていいのだ。
ヌマエビはそう納得した。
すると今度は、日を重ねるごとに、メダカが作る水の動きが、好ましいものに思えてくるのだった。
水が震え、流れを感じさせてくれるかぎり、ヌマエビはこの世界にただひとりではない。
世界が輝く日も、暗くよどんでしまう日も、自分はひとりではないのだ。
苔を食んでいる途中で水の流れを感じると、ヌマエビは、メダカの元気を喜んだ。
世界が何日も暗くなり、寒くなり、頭がどんどん重くなってゆくときは、ときに、メダカの生み出す水の流れを感じて、安心するようになった。
ここにいるのは自分だけではない。
そう感じることは、ヌマエビの気持ちをやわらげていった。
ときにはメダカもヌマエビの近くまで下りてくることがあった。そしてヌマエビをしげしげと眺め、そしてまた上のほうに泳いでいく。
それは、挨拶だったのかもしれない。
メダカも、自分がひとりでないことを、確認したくなったのかもしれない。
言葉が通じなくとも。
ともに並んで、なにかをなすことなどなくても。
ただ一度だけ、ヌマエビはメダカにふれたことがある。
高いところまで上って苔を食んでいるうち、水草から足を踏み外しそうになったときのことだ。あわてたヌマエビが脚を必死で動かすと、そのうちのひとつがメダカの体にふれ、体勢を立て直すことができたのだ。
気づかぬうちにメダカが近くまで来ていたことにヌマエビは驚き、そのまま水草のなかへ隠れてしまったのだが、メダカはその様子を、やはり感情の見えない目つきで眺めていた。そしてヌマエビを気遣っているのか、流れを生み出さぬほど、静かに動き、方向を変え、目の前から消えていった。
月日はゆっくりと過ぎていった。
ボトルのなかの世界はだんだんと暗くなる日が増え、水温も冷える一方で、光もくすんだものになっていった。
水草も心なしか陰に覆われ灰色に見えた。
そのうち、世界が輝く日はほとんどなくなってしまった。
ヌマエビの脳は、もやがかかったように、どんよりとして、日に日にからっぽになっていった。
薄暗く暮れてゆく世界のなかで残ったのは、自分はひとりではないという思いだけだった。それは、ほのかなぬくもりとなってヌマエビの胸を温めていた。
凍てつく日々が続き、ある日、ヌマエビは世界の底になにかが横たわっていることに気づいた。
それはメダカだった。
白い砂の上に弱々しく影を落とし、ぴくりとも動かなかった。
流線形の体は水に溶けかけているようで、体と水の境界が曖昧に、ぼやけていた。
その眼は、どこも、なにも、見ていなかった。
ヌマエビは、これはどうしたのだろうと思った。
動かないメダカを前に、心配や、同情や、悲しみなど、いくつもの感情がいっせいに波打った。
同時に、脳がきつく、きつく、痺れ、そして自らの内側に耐えがたい焦燥が生まれていることに気づいた。
それは胸の奥の、燃えるような欲望だった。
ヌマエビの頭のなかで声がした。
このメダカを、食ってしまいたい。
ヌマエビはその衝動に驚いた。
必死に耐え、メダカの前で立ちすくんでいた。
しかし頭のなかの声はなおも大きくなり、繰り返し告げるのだった。
自分はこれを、食わねばならない。
自分はこれを、食わねばならない。
冷たい血の一滴、最後の肉のひとかけらまで……。
自分はこれを……自分はこれを……。
ヌマエビは、抗えなかった。
重い足取りで、メダカのもとへと近づいていった。
いくつもの朝と夜が通りすぎて季節は変わり、雲の隙間から顔を出した太陽が、室内をやさしい光で満たしていた。
ボトルのなかの世界はふたたび輝きだした。
水草も鮮やかに青々として、生気を取り戻している。
そしてヌマエビは、白い砂の上で温かい水に抱かれている。
しかし、この小さな世界のなかで、誰かの動く水の流れを、ふいに感じることは、もうない。
ヌマエビはときどき、この静かな世界が、自分に対する罰なのではないかと思えて、悲しくなった。
すると必ず脳が痺れ、身体も重くなった。
そんなとき、ほかにどうすることもできないヌマエビは、動きをなくした水底の砂の上で、歩みを止めて、ゆっくりと眠るのだった。
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