礼服ほど向けられる感情が違う服はない気がする。
今日お通夜なんですよ。突然親戚の訃報が入って、去年の6月くらいに「そうか〜、頑張りや!」と言われたのが最期の会話だったのかなと思い出した。
老衰だったらしい。個人的には老衰で眠るように逝けたんならある意味幸せだったのかもしれないなと考えさせられる。
大学から急いで帰り、冠婚葬祭用のスーツに袖を通す。
「そう考えると、このスーツほど着られる時に向けられる感情の振れ幅がちゃうもんないよな〜」とおかんに漏らした。
「あんたはそうやわな」
「あぁ、自分のは冠婚葬祭やしか」
婦人服には冠婚葬祭というよりは冠婚も葬祭も分かれている?らしい。
びっくりした。突然「あんたには結婚式呼ばれるほどの友達おらんやろ」みたいな火の玉ストレートが投げられたのかと思った。友達おるわい。呼ばれるかは置いといて。
実験参加協力している計測機と冠婚葬祭用の時計を同時につける荒技をしつつ、さっきベルトをしていないことに気づいた。何がTPOや。
それにしても、まだ着るには早すぎる喪服だ。あと数年はその人のために着ることはないと思っていた。
まだ着たくなかったと思う一方で、眠るように逝けたのならそれに対してどうこう言うことではないし。
無駄に心理学徒をしていると、誰かを亡くした人に向けた在り方や言葉の紡ぎ方に、求められていないのに神経を使いがちになる気がする。
グリーフケアをするに足る資格があるわけではないけれど、どこかで自分が心理学徒であることを知っている人から向けられる眼差しは、人の心に寄り添える人としての自分に向けられるものだろう。
飄々と「コミュニティですね」と片付けられることではない。こんなことが起きるたびに、自分の研究は本当に目に見えて使えるものではないよなと考えさせられる。
ハナから直接的に人に向けて役立つ研究をしているつもりはないけれども、その研究の過程で得られる何かが、深く沈んだ人に対して浮かぶ助けになれるようになればと考えることも、いささか傲慢に感じなくもない。
知れば知るほどに自分のトンネルの出口が遠ざかってしまう気がしてならない。
いっそ諦めて、身の回りに起きること全てを糧として吸収するしかないのかも。
そんなことを考えた、斎場までの車の中で書いた今日のnoteでした。じゃ、行ってきます。