考えなくてよくても、考え続けたい。
都度都度語彙を蓄えないといけないと考えている。語彙だけではなく、それを使える知識も教養も必要だろう。さらにそれを適した場所で使える倫理観も必要だろうし、必要な瞬間に気づけるセンスだって欲しい。
とどのつまり、言葉を使いこなすことができていない現状があるということだ。
この前読んだ『政治学者、PTA会長になる』という本で、うろ覚えだけどこんなことが書かれていた。
なんとなく回ってるということは、それで完結してしまっていて発展も改善も考えられることがないのではないか。
何年も前に決まったことで、マニュアルの紙が黄色く変化しているくらい古いことを、「もう決まっているから」「例年通りだから」などの理由で見直すことすらしないPTAの保護者に対して憤っていた彼の感覚だった。
なんとなく回っている、当たり前のようになっている。それはつまり、発展を望まないし、発展が見込まれないということ。
そして、本気で取り組むことがあれば、必然的に「言葉」が足りなくなっていく。
その言葉は知識もそうだし、情報も語彙もそう。
文章をひとつ書くとしても、それなりなインプットが必要になるし、アウトプットをするにも相当な言葉が必要になってくる。
考えること、発展することをやめた瞬間、言葉は必要性を喪失する。そんな気がした。
難しい言葉を使うなと言われることがある。難しい言い回しをするなとも言われるし、難しい言葉で文章を作るなとも言われる。
これは驕りでもなんでもなく、毎日自分でも辟易するほどの読書や通読を繰り返していることで培われた偏屈な語彙力のおかげで、書きたいことを6割は書ける毎日を送っている。
逆に、難しい言葉を使うなと言う人には「どうして自分の表現したいことを伝えるための言葉を獲得することを怠るのか?」としみじみ感じてしまう。
いや、感じていた。と書く方が正しい気がする。
逆だった。自分の方が異常だった。
世の中にはそこまで自分が伝えたいことを正確に伝えるための言葉を集める人はいないし、別に100%伝わらなくてもニュアンスが伝わればコミュニケーションは成立している。
無理してそのコミュニケーションの確度を高める必要がない。
そして、考えなくても大抵のことは先人が解決しているし、もし解決していないものでも、いずれ賢い「考え続ける人たち」が勝手に解決してくれる。
この前読んだ文献で書かれていた「説明深度の錯覚」では、「説明できないことを知っていると錯覚すること」の問題が書かれていた。
トイレがどうやって流れるかを知らなくても毎日トイレは使っているし、スマホがどうやって作られているかも知らなくても普通に使っている。
それでいいし、それが望ましいだろう。毎回全部のことに意識を割いていたら脳が焼き切れる。
考えることを放棄すれば、言葉を獲得することも次第に止まる。そんなことを考えた。
だからこそ、自分は言葉を欲する限り考え続けないといけないのだろう。
おそらく「考えること」は「業」であり「歓び」であり、「救い」なのだろう。これからとこれまでの自分を形作るための言葉を求め続ける生活は、案外悪くない。
今日もニュースでは事件の被害者が書いていた卒業文集が
晒されていた。
どうあがいてもメディアは卒業文集を報じるらしい。
卒業文集よりも偉大でどこかに残る自分にとって歴史的な文章を死ぬまでに書きたい。
毎日書いてたわ。え〜…でも直近の記事とかを晒されるのも悔しい。
遺書とかまだ書くつもりないけど、書いとくべきなのかしら。
とりあえず妹には電子機器を全部水没させてくれと伝えてあるし、本棚の本はブックオフには売るなと伝えている。
もっとそれっぽい辞世の句的なそれを作っておかないといけないのだろうか。わからん。
そんなわけでとりあえず今日はこの辺で。
今日は母校の高校に大学の学部説明会のヘルプで行ってきます。
ではまた明日。