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「俺なら打てる」と言ってるおっさん
大阪のコロナの感染者が800人を超えたらしい
よくよく調べたら東京とかよりもかなり多く検査をしているのだからそりゃ出るだろ。みたいなことを感じてはいるものの、ここ数日の大阪府のやっていることに対しては違和感がある。
時短要請を出している地域に「見回り隊」のような職員を派遣しているとか、「食べれマスク」みたいなマスク会食を推奨するためのグッズだとか。
なんかこう、何かが違うのではないかと心の中でもやもやしていた。
そんな感じのことを母親と喋っていたところ、「吉村さんはテレビでたいから仕事してる感出したいだけやねん。そっとしといたげて。もう終わらはるやろ」の気持ちいいくらい綺麗な答えが返ってきた。
確かにそうだ。多分言ってる間に引退だろう。
それでもちょっとこう…仕事があまりにもお粗末ではないだろうか。自分の方がマシな仕事できるんじゃないか? そんなことを思うほど考えてしまう。
そんなことを考えていた自分が何かに似ていると感じた。
そう、テレビがあるご飯屋さんで野球を見ながら「なんで振らんのや! 俺なら打ってるぞ!」と阪神にキレているおっさんだ。
吉村さんよりも仕事ができるのではないか、そう考えている自分も実際にその仕事をすると、きっと何も出来ないだろうし、なんならもっとヘマをする。
テレビのバッターにキレているおっさんも、いざ自分が打席に立ったら全部の球を見逃し三振、ホームの客からは怒号が鳴り響き、その日の夜には道頓堀に浮かんでいるはずだ。
今現場に立っている人がその場で一番ふさわしい人であり、そこにいない人は何を言っても何もできない。
まぁ、民主主義国家なので政策に文句を言うくらいは許されるだろう。菅さん給付金3000万円(非課税)くーださい!♡
まぁでもこの大阪モデル?って結局自分で話を大きくしてるだけで危機感もクソも今やあったもんじゃないよね!みたいなことは思っている。
それはそうと、さっきの「俺ならこうしていた」みたいなマインドは、どこまでなら許されるのだろうか。
「もし自分に超能力があったら?」
これは許されるだろう。だってロマンだし。
「もし自分が総理大臣なら?」
これは…微妙…かな、うん。なったところで何をするかがはっきりしてなかったら意味がないし。
「ドラえもんのひみつ道具で好きなのを使えるとしたら?」
これはもう安パイだろう。これ年々選ぶものに違いが出てくる気がします。昔はどこでもドアとかを望んでいたけど、最近は疲れを取る道具、とか自分の情報処理速度が向上する道具とかを望んでしまう自分が憎い。どこでもドアあったら大学一瞬で行けるやんって思ったけど去年の自分ウェブ授業のおかげで通学時間2秒とかだったの思い出して複雑な気持ち。
「もし自分があそこであぁしてたら?」
これは後悔だし言うくらい許されるだろう。引きずり続けられると鬱陶しいやつだけど。
じゃあこの許されるラインと許されないラインは何が違うのか。
多分、「実現性」なのではないかと考えた。
有り得たかもしれないもの、として処理できる範囲がそれで、「絶対に」有り得ないものはむしろ現実味がなさすぎてそれはそれで許せてしまう。
「ギリギリ」有り得ないものが許されないのだろう。そもそも許されてるものを許す許されないで断罪しようとしていることの方が問題な気もするけど…
とりあえず、いつでもどんなところでも代打で呼ばれたら入場曲かけて出て行けるくらいになれるようになりたいと思います。
オタクなら自分の入場曲を一度は考えたことあるよね!自分はもう考えすぎてプレイリスト作れそうなくらい増えました。
ではまた明日。