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赫奕たる夏風5  三章 向島・岐雲園 






「くれはは、夏のものとなれ」

 少女の声音でありながら、
響きに無邪気さのかけらもなく、
まるで若武者の覇気と威厳に満ちたすがすがしさで
お声は馬上から降りてまいりました。

 少し陽が西に寄り始めた頃。
 蜩(ひぐらし)が鳴いていました。

 袴を着け、お髪を結いあげたるは向島での夏様の常の服装(なり)でした。
 馬上から見降ろされる少女の夏さまは
強い西陽を背にされて影となり、それがまるで赫奕とした逆光に光り輝く、若き阿修羅像のようだと私は思いました。

「御意に」
 傍で見る人があれば、そんなやりとりは幼き児戯に見えたでしょうか。

 明治十八年 夏。
 夏さま御年は数えの十(とお)、私は十三でした。
 向島・岐雲園(ぎうんえん)、永井玄蕃頭尚志(ながいげんばのかみなおゆき)邸の西の馬場にて、夏さまはわたくしをお召しになられたのでした。


1

 公威さまだけでなく、夏さまの事を始めからお聞きになりたいとのお言葉、まこと心より忝《かたじけな》くぞんじます。

 けれど、一体どこからお話したらよいものやら、見当もつきませぬ。
 何を、何処を始まりとするのでしょうか……

 気付いた頃には、夏様はもう、私の目に映る世界におられたのですから。

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 明治九年、夏さまは上野桜木町にて、旧幕臣東京府士族・永井家のご長女としておうまれになりました。
 お父上は後に大審院判事、今の最高裁裁判官をつとめられた、永井岩之丞尚忠様。
 お母上の高様は、常陸国宍戸藩最後の藩主・松平主税頭頼位公の三の姫、兄上は松平頼安子爵という、さかのぼれば徳川宗家にもたどり着く上流の姫君であられました。

 さりながら、明治の御代にかわって十年。ご家の懐事情は決して余裕があるとは申せぬご様子、上野のお住まいは体裁こそ立派なご門のお屋敷でしたが、実のところは借家住まい。
 ご長兄壮吉さま、ご長女夏さまに続いて次々十人ものお子がお生まれになり、書生や使用人を合わせれば常には二十人前後が出入りする大所帯のこと、夏さまはご長女として早くからお家のことをお助けし、ご弟妹のお世話もよくなされておられたことと存じます。

 一方で夏さまは、
おさなき頃より「向島のおじい様」、父上方の御祖父様であられる永井玄蕃頭様を大層お慕いしておられました。 

 御祖父様と申しましても、夏様のお父上岩之氶様は永井家のご養子ですので血縁はございませんのですが、おじいさまの方もお孫様の中で誰よりも夏さまをかわいがっておいでで、夏様を「姫」とお呼びになり、とかくお手元に置きたがられました。三つか四つの頃には、婆やさんと一緒に、お祖父様お祖母様のところで長くお過ごしになられたと記憶しております。普通、そんな年頃ではまだまだ親御を恋しがられるものだのに、夏様には全くそんな様子もなく、また上野のご両親様の方からも、夏様を返すよう特に催促されるわけでもなく……。
 上野のご生家の本音は、大勢のお子さまのうち夏様おひとりでも預かってもらえたら助かる、くらいだったのではないかと思われます。

 あとでお聞きした話ですが、おじい様とおばあ様はずっと昔、生まれて間もなき女児を亡くされておられたのだとか。後に授かった跡取り息子も早逝され、その後、成人された夏さまのお父上・岩之丞様をご養子に迎えられた経緯がございました。
 幕末の紆余曲折を経てやっと落ち着いた隠居暮しへ初めて授かった孫娘に、失いしものたちのおもかげを重ねておられたのでしょうか。

 そんなわけで、夏さまはご幼少からの少女時代の多くを、御祖父様・永井玄蕃頭さまのお住まいである、向島の名苑・岐雲園(ぎうんえん)にてお過ごしになられたのでございます。

 私の親が、ご維新前から岐雲園(ぎうんえん)で下働きとしてお仕えしておりました。私もそこで生まれ、父は早くに病で亡くなったのですが、物心つくころから母と一緒にお屋敷で働いておりました。

 幼き夏さまのお姿は 気付けば岐雲園のお庭にあったのでございます。

 2

懐かしき、向島・岐雲園……

 隅田川桜堤のほど近く、向島寺島町に八百坪を構える、風雅で高名なお庭邸でございました。

 すみだの川の水を引きこんだ大きなお池を取り囲む青い芝生に、岩と木々のあしらいもまこと趣深く。
 水を渡る石橋の先には小さなあずまやが浮かび、月の夜には水面に白きかそけき幽玄が。
 秋の夕暮、隅田川を渡る風にまぎれて届く、雁音の遠く、蕭条たる。

 母屋は小さいけれど茅葺のすがすがしい、すっきりとした佇まい。
 縁から眺める春夏秋冬それぞれの、たいそう美しかったこと……

 春の桜 夏蛍 秋の野の萩 冬の雪。
 今もありありと、お庭の様子が目に浮かびます。

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 お庭を開いたのは、旧幕臣・岩瀬肥後守忠震(いわせひごのかみただのり)様。
夏さまのお爺様・永井玄蕃頭さまとは既知の間柄で、お若き頃には共に外国奉行として西欧列強と交渉を重ねられた能吏であり、書画詩歌を愛する風雅人でもあり、そして玄蕃様の無二のご親友でした。
 安政の大獄で玄蕃頭さま共々失脚し、再起を期待されながら、別宅の岐雲園に蟄居されたままお亡くなりになられたそうでございます。
 桜田門外ノ変で伊井大老が暗殺された後、友を失った玄蕃頭さまは閣職に復帰され、ひとり激動の幕末へと向かわれたのでございます。

 長い時が経ち、友が愛した岐雲園を終の棲家と定めて買い取られた玄蕃さまは、お庭に小さな祠をお建てになりました。
 なき友を祀るその祠に、玄蕃様は亡くなるその日まで香華を欠かさなかったのでございます。


 そも向島界隈は、戦争前までは実に風光明媚な良き土地柄でありました。
 桜並木の川沿いには、水景を眺めながら気の利いた設(しつら)えでもてなす料理屋が、
街筋には四季折々を楽しまれるお大尽の別荘が立ち並んでおりました。
 江戸市中…新東京府中と比べて長閑な田園が広がっておりましたが、鄙びた中に風趣のある、
品の良い、粋人好みの田舎の風情でした。

 今はもう、向島のお庭も街並みも、町工場と高層団地に変わってしまいました。
 九十年も昔の話でございます。


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