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赫奕たる夏風6  四章  理(ことわり)を料ずる





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 夏さまの御祖父母であられる永井玄蕃頭(げんばのかみ)様と奥方の彰(あき)様が向島岐雲園にお移り来られたのは明治九年。
 ちょうど夏さまのお生まれになった年でした。

 当時の使用人は私共母娘のみ、岐雲園の新しい主を私どもは「お殿様」または「玄蕃様」、お方様とお呼びしておりました。

 旧徳川政権において若年寄職を務められた幕閣首脳にして、新政府では元老院権大書記官を辞されたばかり。大層偉い御仁であられたとお聞きしていましたが、実際は少しも偉そうな感じがしない、穏やかで優しくて気の良い老夫婦でいらっしゃいました。

 玄蕃様は介堂という号で日々書画や詩歌を楽しむ雅の方でございました。
 その見識の深さは明治の世にも名高く、隠居後も大勢のお大尽との交友を結んでおられました。
 ですが、普段は下男のようなくだけた姿(なり)を好まれておいでで、日々のお庭仕事やお屋敷の修理なども、ご自分でひょいひょいとすべてなされておられました。実際、訪ねてこられたお客様に下男と間違われて取次ぎを頼まれ、一度引っ込んでからそのままの姿で客間に現れるなどという悪戯をされたこともありました。
 何事にもおおらかで穏やか、お酒が大好きで、不思議と人を魅了するお茶目なところがおありでした。

 下町育ちのやもめの母は、奥方の彰様には実の娘のように良くしていただきました。私のことも、夏さまと分け隔てなく孫のようにかわいがっていただきました。
 お庭の見える縁側で繕いをなさりながら、ほら、お手玉を作りましたから夏とふたりでお遊びなさい、とお声を掛けて頂くのが、本当のおばあさまに甘えられるようで、たいへんうれしゅうございました。 

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 何より、玄蕃さまはお台所で包丁をお使いになるのがたいそうお上手でいらっしゃいました。

 お屋敷の東の一角で小さな畑をされていて、鶏も飼っていました。育てたお野菜と釣ってきたお魚で、いつも私共使用人の分もご用意してくださったものでした。

「ちょいとお邪魔つかまつるぞ奥方殿、おしまどの」

 お方様と母が台所をしている脇で、一緒に手ずから酒肴を拵え、出来上がった肴でお庭を眺めつつ、お酒を楽しまれるのでございます。
 春の摘み草、秋の栗。
 釣った鯉を味噌で炊いたの、泥鰌を煮たの。
 畑の葱を卵でとじたの、抜き菜と炊いた飯もの……。
 贅沢なものはありませんでしたけれども、季節ごとに得られる山河の恵を、どうにか美味しく、みなで楽しめまいかと、いつも工夫をこらされておいででした。

「料理とは、理(ことわり)を料ずる行為なり。
 理はすなわち、素材の持ち味、旨味のこと。
 こいつを最大限に活かし、最高の肴にするには
いったいどう料ずればよいかをとことん考える。これが料理じゃ。
 先ずはこのまな板の大根様、今宵の玄蕃はこれを如何に料ずるべきか。これは、黒船来航以来の大難問じゃ」
「決まってまさ、上半分はいつもの炊いたの、下半分はおろして、卵を焼いたのにおつけします。葉っぱと皮は洗ってざるに干しといてくださいましよ、明日のお味噌汁にちょうどよろしかろうからね」
「おお、いつもながらごちそうではないか、おしま殿。さすが我が家の台所奉行。では玄蕃、お大根様の皮を剥いてつかまつろうぞ」
「ではお大根様は御前とおしまにお任せして、婆は飯を炊き始めましょうね」
 彰様は竃でご飯を炊く名人でした。


 時には、殿様のお手料理で皆一緒に、お庭で花見やお月見酒をしたりしたこともございました。
 覚えておりますのは、当時は隅田川でも大きな鰻が釣れたものですが、台所奉行こと母おしまは、鰻のヌルヌルが大の苦手ですので、その日は台所に入りたがりませぬ。なれば、そこはお殿様の独壇場、
「落ちぶれ侍がウナギ捌くは大権現様よりの伝統。お奉行様が逃げ出された始末は、この玄蕃におまかせあれ」
 手慣れた手つきで次々捌いては串打ち、蒸したり焼いたりすべてご自分でなされてふるまっていただきました。
 こわいウナギも、かば焼きになってしまえば、母もほくほく頂いておりました。
 あのおいしさは、格別でございましたなあ……

 主従のわきまえは自然とありながらも、あたたかみのある家族のようでもありました。


 2

 夏さまのお祖父様……
 永井玄蕃頭尚志(ながいげんばのかみなおゆき)様であらせられます。

 黒船来航の頃、優れた学問……独学でお修めになられた流暢な英・仏・蘭・中国語の能力と、外国に対する深い知識洞察を時の老中・阿部正弘に見出され、わが国最初の外国奉行、今でいう外務大臣として諸外国列強との折衝および和親条約・修好通商締結にあたられました。

 今も、不平等条約という不名誉な呼ばわれ様をされます。
 ですが、当時の日本が置かれていた情勢で望みうる最善の条文を、永井ら外国奉行らの働きにより引き出せた功は、殆ど語られぬままでございます。  
 列強に一歩も引くことなく各国全権と対等に渡り合い、その上互いの敬意と友情までも結ぶことで、これから国際社会へ漕ぎ出す日本の印象を高めるのに大いに貢献したのでございます。

 玄蕃さまは長崎海軍伝習所総監・長崎製鉄所創設など、日本の近代海軍創設、および近代工業化においても並みならぬお働きをなされたお方でございます。
 アタマの固い幕府上層部を「上手い事ごまかして」作らせた長崎製鉄所は、現在もM菱重工業長崎造船所として稼働しておるところでございます。


 幕末期、京都町奉行として維新志士の烈刃をかいくぐり、幕府・薩長土・朝廷・英米仏間を文字通り命を賭してつないでおられた。
 その御身守護役をまかされたのは、かの新撰組でした。
 局長近藤および副長土方と永井玄蕃の絆はことのほか強く、後の戊辰戦争、最後の決戦・箱館までを戦い抜く中で、土方歳三は最期まで永井玄蕃頭に全幅の信頼を預けていたとか……。

 坂本龍馬氏とは暗殺直前の頃にひそかに会合を重ね、幕府重臣ながら玄蕃は「ヒタ同心なり」といわさしめた間柄でした。
 永井は新撰組に「坂本は斬るな」と、直々厳命下されたとお聞きしております。

 十五代将軍徳川慶喜公の代にあっては将軍直属の懐刀として信頼あつく、若年寄職(わかとしより)……大老・老中に次ぐ重職を任ぜられました。
 永井家は家康公の時代からお仕えする譜代家臣なれど、分家旗本格のお家柄から御目見得(おめみえ)以上のご大役を仰せつかったは、徳川二百六十年を通じて、永井玄番頭ただおひとり。
 大政奉還の奏文書は、玄蕃頭さまの草案、清書によるものだそうでございます。

 戊辰戦争最後の砦・函館弁天台場を守っていたのは、永井玄蕃頭でした。
 その奮迅たる指揮と、敵味方に敬意を込めた戦いぶりは敵方指揮官をして「敗死させるに忍びなし」と惜しまれるほどでした。
  敗退降伏するも明治政府内に助命嘆願の声は強く、約二年半獄に繋がれたのち罪一等を免ぜられ、明治新政府に仕官。元老院大書記官までを務められたのち、明治九年、奥方様と向島の岐雲園にご隠居なさったのでした。

 その卓越した学識、お働き、お手並。
 身分やお立場、国別に関わりなく誰に対しても衷心偽らざる平らかな態度で接し、皆に慕われし優れた仁のお人柄として広く知られておられたのが、永井玄蕃頭尚志様 というお方でございました。

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 一方で、斯様なる偉大なお働きをなされたお方であるにもかかわらず、今日の幕末史に、永井玄蕃頭のお名前はほとんど出てきませぬ。

 お若き頃からこつこつと集められた膨大な学術蔵書および数多の著作は、鳥羽伏見の戦いの京都大火で邸ごと全て焼失されました。
 後世、永井玄蕃頭尚志に関する資料が非常に少ないのはそのせいもありましょう。

 しかして、永井玄蕃は日本初の軍艦奉行・外国奉行。米国ハリス、英国パークスら列強全権をして「信頼にたる好人物」「友との仕事」と言わさしめ、幕末動乱期には京都町奉行として新撰組と共に市中に名を馳せたお方。
 徳川幕府若年寄職として最後の将軍慶喜に仕え、大政奉還という日本史の転換点の中枢におられた。  
 そして日本最後の内戦たる戊辰戦争、武士の世の幕引きを、その手で降ろした最後の侍……。

 これだけの人物に関する記録が、明治に入った時点で殆ど存在していなかった、ということが、はたしてあり得るのでしょうか。

 玄蕃頭を慕う数多の大人物と交流があったのは事実であり、筆まめな玄蕃は友人知己との手紙のやりとりも盛んでありました。
 その相手とは、旧幕閣の重臣はじめ、薩長朝廷側だった後藤象二郎、西郷隆盛、黒田清隆、三条実美……いずれも教科書に並ぶ程度には名の知られた人物……当時子どもだった私が覚えている限りでも、その程度の交友はありました。
 その文通書簡にすら、永井玄蕃頭の名は、数えるほどにしか見つけることができない。

 消された。 

 と、申し上げて差し支えないほどに、残されてはおりませんのです。

 歴史とは、勝者が作るものでございます。
 幕末の勝者に、永井玄蕃頭尚志の名を歴史に残せぬ何かが、あったのかどうか…。
 いずれにせよ、新しい世に永井玄蕃頭の名は忘れ去られたのでございます。それもまた、長い話になるのでございますゆえ、今はご容赦を。


 あるいは、玄蕃頭さまと同じ因業を、夏さまもまた背負われるのかと…
 わたくしには、それがおそろしゅうございました。


3

 台所も畑仕事も魚釣りも、なつ様は幼き頃から
喜んでおじい様おばあ様についてまわり、お手伝いをなされておいででした。
 のちに夏さまはたいそうな料理上手で知られるようになるのですけれど、夏さまのお料理の礎はお爺様譲り、季節を料する心だったかと存じます。
 畑仕事の時には泥だらけになりますので、おばあ様がお古を縫い縮めた襤褸を着せられておりましたが、ことのほかそれも大層お気に入りのご様子でございました。
 これも思えば、後にはあでやかな染(そめ)より深みある織(おり)を好まれた夏さまの、渋好みのはじめでございましたか。

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 お馬にまたがって釣りへいかれる時には、殿様は私にも付いて来るように命ぜられ、帰りにはいつも堤のお茶屋で姫様とご一緒に、お茶とお菓子を一服頂戴しておりました。
 甘いお菓子と、こどもには少し苦いお薄をいただくのが、なんだか大人になったような思持ちがいたしました。お殿様は、お茶ではなくお酒を召し上がられました。
「餅で呑む。ここのわらび餅のぷるぷるは、まさしく日ノ本いちぞ。美味いのう。駿河の公方様もお城の帝もこれほどの美味にありつけぬとはお気の毒。 いや、まことにお気の毒」



 隅田川の桜堤をお馬に揺られながら、お爺様と夏さまはいつも何かしらお言葉を交わされておいででした。
 あれは何これは何、なぜどうしてと、夏さまのお子様らしい質問に
玄蕃様は面倒くさがらず、ひとつひとつ丁寧に答えられるのでございました。

 お爺様、あのお船はなあに?
 渡し船じゃよ。岸から岸まで人と荷を運ぶのじゃ。向こうの大きいのは廻船じゃな、もっとたくさんの荷を遠くに運ぶ。あれがあったれば、大江戸二百六十年の栄えあり、列強諸外国になんら劣ることなき豊かで美しい大都市・東京府となったのじゃ。

 東京は、お爺様がお守りになられたのでしょう?
 守れたのかもしれぬし、壊したのやもしれぬ。   
 あのころはみな誰もが、守りたいものがあったのじゃな。それぞれにな。
 
 お爺様は、何をお守りになりたかったの?
 なんじゃったろうかの。爺にも、わからなくなってしもうた。
 
 お爺様にも、おわかりにならないことがおありなの?
 とかくこの世は分からぬ事だらけじゃ。

 どんなにまことを尽くしてもな。

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 上野のご生家では、ご長女ゆえにご両親に甘えることも少なかった夏さまにとって、お爺様お婆様と岐雲園で過ごすひと時は、何よりも満ち足りた、幸せな時間であらせられました。
 夕暮れ近づく茜色の水面、水鳥の滑り降りるを遠く眺める玄蕃様とて、
懐の小さな孫娘の温もりを感じながら、きっと優しい、柔らかさに満ち満ちた眼をされておらたことでしょう。

 馬を引き、お二人の前をゆく私に、そこに淡い憂いがあったかどうかなど、見えるはずもありはしないのでした。

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