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藤井聡太が棋聖になった7月16日のこと

 こんにちは。noteに書いた「将棋ファンがなぜ藤井聡太にこれほど熱狂するのか、将棋ファン自身が解説してみた」という記事がバズってしまい、驚くやら戸惑うやらの日々を送っています(それまで「いいね」の最高は4で、フォロワーさんは7人だった)。

 今回のテーマは、コロナ禍のもと、7月16日に関西将棋会館で行われた、藤井聡太(当時七段)が渡辺明棋聖に挑んだ棋聖戦第四局のことです。

 登場人物は三人います。

私(この文章を書いている人間)
 羽生七冠ブームで将棋ファンになった女。元の動機がそれだから当然ミーハー。当時は「観る将」なんて言葉はなかったのでその走り。24年前に将棋ファンになったことから年齢は察してください。

田島
 職場の私の部下(男)。年齢は20代後半。頭も良くて仕事もできるが、私は好きではない。理由は生意気だから。高校時代は将棋部で、大会でけっこういいところまでいったらしい。いわゆる〝指す将〟。

部長
 50代の管理職の男性。将棋にまったく興味はないが、昨今の藤井聡太ブームで詳しくなった。
 
 私たち三人を中心に、棋聖戦第四局があった日の職場での出来事を綴りたいと思います。フィクションの形式をとってますが、ほぼノンフィクション(実話)と思ってください(当然、本人たちにバレないためとプライバシー保護のため、脚色はしてます)。
 では、お読みください。

 ◇

「例の藤井君、今日なんかあるんだろ?」

 朝、オフィスに部長が入ってくるなりそう言ってきた。キーボードでメールの返信を書きながら私は答える。

「棋聖戦の第四局ですね」

 部長は将棋にまったく興味はないが、昨今の藤井聡太ブームで急に詳しくなった。私が将棋ファンと知って、最近やたらと話題を振ってくる。

「藤井君は勝ってるのか?」
「二勝一敗です。棋聖戦は五戦やって先に三回勝てば奪取です」
「じゃあ、かなり可能性はあるな」
「どうですかね……」

 私は口を濁した。
 現状は二勝一敗。すでに棋聖に王手をかけていると言ってよいが、将棋ファンなら誰もがナベ(渡辺明)の恐ろしさは身をもって知っている。
 昔は「魔太郎(※藤子不二雄Aのホラー漫画に出てくる少年)」なんて呼ばれていたが、今は名実ともに将棋界の「魔王」である。

「でも、あと一回勝てばいいんだろ?」
「ナベは――渡辺明は、若手の挑戦を最初は大らかに受け止める印象があるので……」

 でもそれは最初だけで、あとは容赦なく叩きつぶす。初めてのタイトル戦で、聡太君がすでに二勝(特に後手番で)してることの方が信じられなかった。
 私は付け加えるように言った。

「たしか渡辺明は、年下を相手に失冠したことは一度もなかったはずです」

 そう言って近くの席に目を向けた。サラサラ髪の下、細い黒縁のスクエアな眼鏡をかけた20代後半の男がパソコンに向かっている。

「田島君はどう思う?」

 部長の相手を一人でするのが面倒くさくて、私は近くの席にいる年下の部下に水を向けた。

「どうですかね。相手はナベですからね」
「だよねえ」

 やはり私と同じ見立てだ。
 将棋ファンには忘れられない記憶がある。初の永世竜王をかけて羽生善治と渡辺明が争った第21期竜王戦。先に羽生が三勝しながら、そこから渡辺明が四連勝して竜王位を防衛したのだ。
 ちょうどその模様はTBSの『情熱大陸』で追っかけられてた。三敗目を喫した日、ナベは対局場の宿に泊まらず、その夜のうちに帰京する。駅のホームに一人でぽつんとたたずむナベのさみしげな姿が忘れられない。

(けど、魔太郎の野郎、そこから羽生さんに4タテを喰らわしやがった!)

『情熱大陸』だけ見ていた人には何が起こったかわからなかったろう(尺が足りなくて、エンディングでいきなり渡辺明の防衛成功が報じられていた)。
 あの竜王戦は、将棋ファン――特に羽生ファンには苦い記憶になっている。
 とにかく鬼のように強いというのが、渡辺明という棋士に対する私の印象だ。いくら二勝してるといっても、この後あっさり三連敗を喰らっても全然不思議ではない。 
 部長が思い出したように言った。

「藤井君ってもう一つ挑戦してるんだろ?」
「王位ですね」
「二つもタイトルに挑戦してるなんてすごいじゃないか」
「でも木村王位も強いですよ。タイトルホルダーだから当たり前ですけど……」
「王位はとれるのか?」
「それは……」
 私が年下の部下の顔を見ると、田島がめんどくさそうに後を継いだ。
「王位はとるかもしれないですね」

〝指す将〟の田島の予想では、棋聖は厳しいが、王位は奪取の可能性十分ありだった(木村ファンのみなさん、すいません! クソ生意気な指す将がそう言ってたんです。【※注 これはフィクションの形式をとったほぼ実話です】)。

 藤井聡太は朝日杯ですでに一度、渡辺明に勝っていると言っても、あれは早指しのトーナメント戦だ。タイトルがかかった対局とは重みが比べものにならない。
 それに、いくら藤井聡太が神童といっても初のタイトル戦だ。1勝、2勝はよくても、いざタイトルがかかると凄まじいプレッシャーがのしかかる。百戦錬磨のナベを相手に棋聖を奪取するのは至難の業と思えた。

「渡辺明ってそんなに強いのか?」
 部長に訊かれ、私は深くうなずいた。
「むちゃくちゃ強いです」

 現時点での棋界最高位の名人竜王は豊島将之(※後に名人位を渡辺明に奪われる)だが、多くの将棋ファンの印象は、やはり「ナベ最強」だったのではないか。
 ただ、と私は付け足した。

「ナベは今、名人戦と棋聖戦を同時に戦ってるんです。豊島と聡太君、二人を同時に相手にするのは厳しいんじゃないかと」
「サッカーじゃないんだから連戦でも大丈夫だろ」
「今の将棋は事前研究がすごく大事で、特にナベは徹底的に相手の強みや弱みを研究して戦うタイプの棋士です。連戦ではその研究時間が十分にとれません」

 中学生棋士で唯一名人になっていないのが渡辺明だ。口には出さないが、なんとしても名人位は欲しいはず。

「ナベは名人奪取にすべてを賭けてて、今回、棋聖は捨てているという噂もあります。まあ、捨ててる、というのは言いすぎですけど、豊島対策に集中しているというか」

 渡辺明は徹底した合理主義者だ。良いたとえかわからないが、私が一国の首相で軍隊の指揮を任せるなら絶対に渡辺明だ。平然と部隊をいくつも見殺しにするだろうけど、最終的に「戦争に勝つ」ことだけを考えたら、渡辺明以上の人間はいない。

 予期せぬコロナ禍によって、渡辺明は棋聖戦と名人戦を同時期に戦わなくてはならなくなった。戦力の分散はナポレオンの時代から敗北の定石。一方を切り捨て、一方に全戦力を投入する――ナベならそう考えてもぜんぜん不思議ではない。

(だけど、それは聡太君も当然わかっているはず……)

 相手が戦略的に二方面作戦が厳しいならば、その弱みを容赦なく突く。それがプロの棋戦だ。この17歳の少年がいる戦場は「汗と涙のさわやかな青春」とはまったく無縁の世界だ。

「渡辺明って羽生より強いのか?」
「実績なら文句なしに羽生ですね。タイトル99期ですから」
「渡辺明は?」
「たしか……25期です」
「けっこう差があるんだな」
「これは私の個人的な推測ですけど……渡辺明は羽生に比べて体がそこまで強くない印象が……ブログを読んでると、対局が増えて喉が痛くなって熱が出たとかいう描写がチラホラと……」
 
 将棋は頭脳スポーツだが、恐ろしく体力を使う。名人戦や竜王戦といったタイトル戦ともなれば正座して丸二日間考え続ける。集中力のもとになるのは体力だ。水泳やランニングで体を鍛えたり、正座の姿勢を保つため、腹筋バキバキという棋士もいる。

 タイトルホルダーともなれば、地方会場へ遠征に継ぐ遠征ともなる(前夜祭などのファンイベントもある)。それだけの対局をこなすだけの体力が渡辺明にはない(忙しすぎると体調を崩してしまう)。

(逆に言えば、羽生さんが〝体力オバケ〟ってことなんだけど……)

 渡辺明の偉業の一つに竜王戦9連覇がある。竜王戦の賞金は4400万円。名人位と並ぶ棋界最高位だ。それを渡辺明は歴代最高の11期も保持していた。

(賞金の高い竜王戦だけを効率的にとってるなんて揶揄されてたけど……)

 羽生のように複数冠を維持できる体の強さがないため、合理主義者のナベは、自分の持てる知能と体力を竜王戦だけに集中投入したとも言える。

 その見た目も合わせて、渡辺明は将棋界でヒール役を担わされることも多かったが、小憎たらしいまでの強さと裏腹のそんな「弱さ」を私は嫌いではなかった。

 午前9時、対局が始まった。
 パソコンの画面の隅にアベマの中継を写しながら私は仕事をしていた。にわか将棋ファンの部長がアベマを見てるので、部下の私たちも堂々と見れるのはありがたい。

「藤井君っていつ見ても落ち着いているなー。ほんとに17歳か」
 部長が感嘆したように言った。
「そうですね」
「殺害予告されてるんだろ?」
「瀬戸署の刑事が自宅に監視カメラを設置したらしいですね」

 あまりに強い光は、闇夜の外灯のように良いもの、悪しきものもすべて呼び寄せる。

 将棋ソフト不正使用疑惑騒動で混迷した将棋界は、この17歳の少年を人気回復の起爆剤にしようとしていた。
 この棋聖戦の日程も、コロナ禍でスケジュールが圧縮されたとはいえ、彼が史上最年少で棋聖をとることを期待されて組まれたものとも言える。
 だが、当たり前のことだが、実際にタイトルをとれるかどうかは本人の実力次第だ。相手が手心を加えてくれるわけではない。

 29連勝のときも言われた。他の棋士が藤井聡太に「忖度」をしているのではないかと。将棋ブームを盛り上げるため、14歳の少年にわざと勝たせているのではないかと。

 が――それは棋士という人間をまったくわかってない。忖度できないから「棋士」なのだ。クソみたいに融通がきかない人間、それが棋士だ。

(だいたい忖度できるような連中なら、とっくに小学生棋士が誕生してるでしょうに……)

 中学生棋士は長い将棋史でたった五人しかいない。渡辺明から藤井聡太まで実に十五年もの時間がかかった。豊島、佐々木、増田……期待された棋士は何人もいたが、みな三段リーグ(奨励会)で忖度できない連中に足止めを喰らったのだ。

(それにナベが若いやつに花を持たせるなんてありえない)

 プロ棋士の大部分は、一生タイトルとは縁がなく引退していく。どうしてもタイトルが欲しい――そんな棋士たちの淡い夢と希望を渡辺明が何度、非情に叩き潰していったことか。

 藤井聡太は淡々とした様子で盤の前に座っていた。いつも思うのだけれど、この落ち着きはなんなのだろう? 普通タイトル戦ともなれば平常心ではいられないはずなのに。

 29連勝ブームのときもそうだった。対局場になだれ込んできたカメラマンたちが場所取りを巡って怒号をあげる異様な空気の中、この14歳の少年だけが、波ひとつ立たない静かな湖面のように、じっと盤面だけを見つめていた。

「××(※私の名前)は、渡辺明に会ったことがあるんだろ?」
 部長に言われ、私は思考を中断した。
「はあ、たまたま××で(※中央線のとある街。実話です)すれ違っただけですけど……」
「どんなやつだった?」
「なんか向こうから、明らかに一般人とは違う強烈なオーラを出してる人が近づいてきて……あ、ナベだって。あと眼光がめっちゃ鋭かったです」
「声をかけたのか?」
「いえ、とっさのことで……いつもブログ見てます、ぐらい言えば良かったかなと……」

 後になって悔やんだ。迫力に圧倒されて何も言えなかった。でもなんでナベは普段からあんなオーラを出してたんだろう? あれが戦いの世界に生きる勝負師ってやつなのか。

「でも、おまえ羽生ファンなんだろ? 渡辺は敵じゃないか」
「はあ、まあ……」
 田島が白けた目で私の方を見た。
「羽生七冠ブームで将棋ファンになったんですよね? で、今は藤井聡太ファン。ミーハーですよね。ファン歴が長いわりに指す方はぜんぜんだし……」
「観る将って言ってくんない?」

 昔は〝観る将〟なんて言葉はなく、どこか肩身が狭い思いで将棋ファンをやっていた。それでも24年間、つかず離れず将棋ファンを続けてきた。

 なぜ将棋に惹かれたのだろう?
 将棋には「運」の要素がない。初手から終局まで自身の選択の結果だ。勝てばいいが、負けたときはすべてを自分で引き受けなくてはならない。
 私も含め、普通の人間の人生は言い訳だらけだ。上司が反対したから、予算がなかったから、ツキがなかったから……言い出せばきりがない。
 そんな弁解がいっさい通じない、残酷だけれど美しい世界で戦っている棋士たちの生き様に惹かれたのかもしれない。

 昼休み明けから評価値が徐々に渡辺明側に傾きだし、部長の顔が曇った。

「藤井君、押されてるな」
 田島が少しいらだたしげに反応した。
「評価値はあてになりません。あくまで最善手を指し続ければ、という前提で出されている数字でしかないので」
 
 評価値の話が出ると、田島はいつも不機嫌になる。指す将の田島いわく、プロ棋士は上空数百メートル、細い板の上を一歩でも踏み外すと即落下して死亡という状況で切り合いをしている。その状況を「評価値」ではとても推し量れないという。

「これ、ナベの研究手順なの?」
 私が訊ねると、田島がうなずいた。
「第二局からあえて変化させて、流れを自分に持ってきてますからね」

 今は将棋ソフトを使用し、どの棋士も事前研究を十分に重ねて対局にのぞむ。渡辺明は勝利をおさめた前回の第三局、90手目までの局面を研究済みであったと述べている。
 90手だ! 信じられない。そこまで盤面に現れた光景は想定の範囲内だったということになる。

「もう70手目ぐらいから指し始めればいいのにね。互いに相手がこうきたらこう返します、みたいなレポートを事前に提出して、立会人が、じゃあ70手目のこの局面からお願いしますとかって」
 私がそう言うと、田島が鼻先で笑った。
「野球の申告敬遠みたいなやつですか。ま、時間の節約にはなるかもしれませんけどね」

 ところが対局が進むにつれて、今度は一転して評価値は藤井聡太に傾きはじめた。私はどこか信じられない気持ちでアベマの中継を見ていた。

(ナベが押されてる?……)

 2敗は藤井聡太の実力を推し量り、自由にやらせただけ。ここから鬼の如き強さで17歳の若者を叩きのめすと思っていた。そうやって今まで何度、若手の棋士が魔王の前に涙を呑んできたことか。

 渡辺明は最初は「魔太郎(※藤子不二雄A)の登場人物」と言われていたが、いつしか「魔王」と呼ばれるようになった。
 異世界ファンタジーモノで主役は正義の勇者。その敵役になるのが魔王だ。
 だが、将棋界の魔王にはどこか孤独の影がつきまとった。

 羽生善治、佐藤康光、森内俊之……いわゆる「羽生世代」は強すぎた。同世代で拮抗できる棋士はおらず、渡辺明はほとんどたった一人で最強世代に戦いを挑んできた。

 一方で、下の世代に対して常に「壁」になり続けた。当然、羽生世代のファンからはうとまれ、若手棋士のファンからは憎まれた。

 私のイメージする渡辺明は、魔王城の玉座にポツンと一人で座っているさみしげな姿だ。周りに臣下は誰もいない。
 その孤独な魔王の玉座に、初めて17歳の若者が迫ろうとしている――

「これはもう聡太君の勝ちなのか?」

 18時を過ぎ、部長が帰り支度を始めた。コロナ禍が始まってから社員には早い帰社が推奨されている。

「聡太君が間違えなければ。ようはデカいミスをしなければ」

 するはずがない。以前はそういった頓死もあったが、今は最終盤にしっかり時間を残し、確実に詰みまで持っていく。

「じゃあ、後はニュースで見るかな」

 部長が「お疲れ」とオフィスを出て行く。評価値が藤井聡太側に傾くたびにオフィスから社員が消え、19時を過ぎる頃には、薄暗いフロアには私と田島だけが残っていた。

 評価値が90%を超え、渡辺明の敗北はほぼ確定的となった。静かなオフィスにコロナ対策で導入された空気清浄機のシューシューという音が響く。
 おっ、と田島が小さな声を洩らした。

「投了した」

 終局時刻は午後7時11分。将棋界の新たなページが開いた瞬間だった。

「マジでナベに勝ちやがったよ……」

 田島のつぶやきが聞こえる。実際に目にしても、私もまだ信じられなかった。17歳の少年にあの渡辺明が敗れた? マジか、という心の声がリフレインする。

 私はデスクに肘をつき、がっくりと顔をうつむかせた。
 視線を感じて顔を上げる。席から立ち上がった田島が不思議そうにこちらを見ていた。帰宅するつもりなのだろう、上着を着て、革鞄を持っていた。

「うれしくないんですか? いつも聡太くん聡太くんって言ってるのに」
「別に――」
 私はそれ以上言葉が出なかった。かすれ声で続けた。
「そんなんじゃないよ」
 さっさと帰れ、とばかりに手首を振ると、田島が首をかしげながら言った。
「……じゃ、おつかれっす」

 誰もいなくなったフロアに私は一人で残っていた。給湯室に行き、冷蔵庫でこっそり冷やしておいた缶ビールを手に席に戻る。この後、感想戦や記者会見まで会社で見ていこうと思っていた。

 最初は羽生善治のライバルはどんなやつなのか、そんな気持ちで渡辺明のブログを読みはじめた。次第にその率直なキャラクターに惹かれ、ブログの更新を楽しみにするようになった。

 昔はブログのコメント欄も自由に書き込め、ファン同士の交流の場になっていた。ブログ自体は今も続いているが、コメント欄は閉鎖されてしまった。魔太郎は居城に引きこもり、いつしか「魔王」と呼ばれ、ファンや棋士から畏怖される存在になった。

 誰かが言っていた。藤井聡太の登場をいちばん喜んでいるのは羽生善治だと。藤井なら羽生に代わって、将棋界を正しい道に導いてくれると。
 でも、私はその言葉に違和感を覚えた。
 羽生は光であり太陽、それは認めるけれど、藤井聡太の登場を誰よりも待ち望んでいたのは渡辺明ではないか。
 誰かが自分の玉座にたどり着くことを恐れる一方で、ずっと待っていたはずだ。

 魔王は長い間、たった一人で羽生世代を相手にしてきたのだ。自分の持てる体力と、限られた知力を武器に、最強世代とわたり合ってきた。
 それがどれだけ孤独な戦いだったか。
 道ですれ違ったとき、渡辺明が発していたオーラは、味方や戦友が誰もいない状況で必死の戦いを続ける人間が放つ闘気だ。

 アベマの中継が続くディスプレイに私は目を向けた。17歳の少年に敗れてなお、ナベはいつもの淡々とした様子で感想戦をしていた。
 
(魔太郎、もうあんたは一人じゃないよ)

「別にうれしかねえよ。相手にする方は大変なんだぜ」そんなナベの声が聞こえた気がしたけど、その顔は笑っていた。

 誰もいないオフィスで、私は缶ビールのプルタブを抜き、一人で祝杯をあげた。将棋界の新しい歴史が幕を開け、渡辺明の長い孤独な戦いの日々が終わったことを記念して――。

 ◇

 イチ将棋ファンの雑文に最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。一部脚色してますが、これは7月16日に私の周りで実際にあった会話ややり取りです(こんな会話、日本中の将棋ファンの間であったと思いますが)。

 もうおわかりかもしれませんが、七冠ブームで羽生ファンになった私は、いつしか渡辺明のファンになっていたのです。ブログを読んでいるうちに、なんかこの人、いい人なんじゃないかと。

 だから今回の棋聖戦は、藤井聡太に心を奪われかけながらも、渡辺明も応援するという複雑な気持ちで見守っていました(これを書いた動機は、藤井聡太が勝った相手はこんなにすごい棋士だったんだぞ、と言いたかったのかも)。

 これから将棋界は藤井聡太を中心に回っていくでしょう。ひいき目ではなく、中学生棋士が将棋界の歴史を作る――これは過去の歴史が証明しているからです。好む好まざるにかかわらず、強くなることはもはやあの少年の「使命」なんです。

 今回、ナベは敗れたわけですが、恐らく今後、藤井聡太の最大の壁として立ちはだかるのは、やっぱりナベだと思ってます(今回の敗北は渡辺明にとって長い戦いの序章でしかない)。

 今後、二人の中学生棋士が盤上で綴るであろう物語を、イチ将棋ファンとして楽しみにしています。

 追伸
 渡辺明の奥さんの伊奈めぐみさんが描いた漫画『将棋の渡辺くん』はおススメです。最強棋士の素顔と私生活が垣間見れる貴重な作品です。もちろん聡太君のことも作中で触れられています。現在5巻まで出ています。

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