インド映画は「お経」です
かつては慣用的に云われた「インドの映画は唐突に歌って踊る」。
情報流通が進んだ現在でこれを言うのはさすがに〝チョベリバ〟級ですが、ああいった演出はごく一般的なインド人の感情表現に基づいているのです。
例えば、昔から日本人が親しんで来た仏教の経典には「偈 (げ。ソネットのこと)」と呼ばれる〝挿入歌〟が随所に織り込まれており、あるいは「歓喜踊躍 (かんぎゆやく。嬉しくてダンスする、の意)」とも記されています。
そのため、親鸞聖人の弟子:唯円は、このカルチャー・ギャップに本心から戸惑い、
「踊りたいほどの気分にはなれません」
と日本人の感覚で告白しました (『歎異抄』第九条)。なにぶん〝お経はすべてお釈迦さまが言ったこと〟と信じられていた時代ですから、歌ったり踊ったりして感情を表す文化に生きていない唯円さんにしてみれば、自分だけ落ちこぼれ?と思ったことでしょう。
ちなみに浄土系の所依経典『仏説阿弥陀経』で語られる〝極楽浄土のありさま〟はインド人にとってのパラダイスのイメージであり、それは現代のエンターテインメントにも登場します。
また、インド映画のアクション・シーンについては、「重力法則を完全に無視する」とも云われます。確かに、足場のない空中で〝サマーソルトキックからのローリングソバットそして踵落としのコンボ〟をあっさり決めるなんて、もしニュートンが見たら大量のリンゴをバズーカ砲で撃ってくるかも知れませんね。
とはいえ、それもインド人の感覚では特に目くじらを立てるようなことではなく、いまでも日本の仏教徒が日常的に読誦している『観音経』には、まさしく物理ガン無視の〝特撮〟世界や、これぞインド映画!というべき徹底した御都合主義が展開しているのです。
では、以下に略説しましょう……。
「假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池」
燃え盛る炎の穴へ突き落とされても観音様に祈れば池に変わる
「或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没」
大海原で遭難して危機一髪になっても観音様に祈れば溺れない
「或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住」
世界一高い山から突き落とされても観音様に祈れば空中で停止する
「或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛」
悪い奴に追われ険しい場所に落ちても観音様に祈れば全然ケガしない
「或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心」
賊に囲まれ刀を突き付けられても観音様に祈ればヤクザが優しい人になる
「或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊」
権力者に首を斬られそうになっても観音様に祈れば刀がバキバキ折れる
「或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼観音力 釈然得解脱」
不当に拘束され鎖に繋がれても観音様に祈ればすんなり脱出できる
「呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人」
呪われたり一服盛られても観音様に祈ればやった本人がくたばる
「或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害」
モンスターに遭遇しても観音様に祈れば手出しされない
「若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方」
牙をむいた猛獣に囲まれても観音様に祈れば動物のほうが逃げ出す
「蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去」
蛇やサソリも観音様に祈ればあっちへ行ってくれる
「雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 応時得消散」
暴風雨の脅威も観音様に祈れば消え去る
「諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散」
不利な法廷や敵陣の真っ只中でも観音様に祈れば相手が引いてくれる
さて、わざと茶化すように書いてまいりましたが、このように荒唐無稽な〝御利益〟が古代インドで願われた背景には、それと正反対の現実があったからです。
そしてそれは、今でも変わらず厳然として「ある!」といえます。上記の危難の一つひとつが、インド民衆の暮らしなのです。理不尽な差別・抑圧・虐待が横行し、不義不正は当たり前。生まれた階級が低ければ命の価値さえ低く見られる。それに加え、自然災害等も含めて、いつなんどき生存を脅かされるか分からない日々……。
映画や経典に描かれるまばゆい世界は、すべて現実の裏返しなのです。