見出し画像

裸でピクニック

 図書館の自動ドアを出た、ちょうどその時に電話がかかってきて、知らない番号で誰だろうと思って出たら、倉田さーん久しぶりでーすと言う。声を聞いても誰だかわからない。誰だかわからないのだから、誰ですか、と訊けばいいのに、すぐにそう訊けないのは、もし相手方からしたら自分をとても親しい相手だと認識しているなら、久しぶりに電話して、誰ですか、なんて訊かれたら悲しくなるのではないか、と思ったからだ。どうにかして相手方の名前を訊き出せないかと考えていたら、わたしですよー、アユカですよー、と言うので、アユカ、アユカ、と頭の中で何回かその名前を繰り返し、十何回か目でもしかして、と思い出した。それで、図書館の出口の正面には石でできたベンチがあって、そのうしろには花壇があって、黄色と紫のパンジーや、オレンジ色の小さいライオンみたいな花がたくさん植わっていて、午後の日差しが花びらや葉っぱを照らしていて、ベンチに座って、アユカちゃん久しぶりじゃんどうしたの、とまるで最初から相手が誰だかわかっていたような口ぶりで言うと、アユカちゃんはなんだかすごく笑っていて、スマートフォンの声が出ているところがばりばり鳴った。
 それにしても天気が良過ぎる。太陽の光が強過ぎて、空が白っぽく見える。隣の公園にある木は紅葉し始めていて、砂利の上に落ちている葉がたまに吹く風に揺れている。わたしの手の中にはスマートフォンがあり、膝の上にはさっき借りた本が三冊、ムーミンのエコバックに入っている。生地はナイロンで、エコバックは折り畳んで小さく収納できるものがほとんどで、ムーミンが特に好きというわけではなかったけれど、薄い水色が気に入って、小さく折り畳まれて売っていたエコバックを買って部屋で広げてみたらムーミンがいた。ナイロンのてろてろした生地の上のムーミンの表情は読めない。
「倉田さーん」
 あれから一度も会っていないのに、昨日まで一緒にいたような近さで、アユカちゃんの声がする。
「会いましたよ一回じゃなくて二回、わたしが高校卒業してからだから、五年前くらい? 覚えてないんですか」
 そうだったね、と言いながらわたしは、頭の中で五年前のことを思い出そうとする。そうだったそうだった、覚えてないなんて言ったらアユカちゃんが悲しむかもしれないから、そうだった、を繰り返している間に、なんとか思い出そうとする。
 そうだ、地元の二階建てのゲームセンターの、広い駐車場だった。天気が良過ぎるとどういうことが起こるのかと言うと、ぼんやりと思い出すことが事実以上に良い感じになっていったりする。
 夜だったので真っ暗なはずの駐車場は、二階建てのゲームセンターから溢れる光で昼間みたいに明るかった。五年前だからわたしは十九歳とか二十歳ぐらいで、専門学校に通っていたけどまだ実家に住んでいて、夏休みで地元の友だちの家に何人かで集まって、漫画を読んだりお菓子を食べたりなんやかんやしていて、それで誰かの車に乗ってゲームセンターに行ったら、友だちのうちの一人の知り合いがいる自分たちみたいなもう一つの集団とたまたま遭遇して、じゃあみんなで遊ぼうか、と二つの集団がごちゃっと遊んだ中に、アユカちゃんも混じっていた。
 アユカちゃんがいたグループの人たちを、わたしは誰も知らなかったけれど、中学の先輩のいとことか、高校の同級生の弟とか、そういう薄い繋がりの人たちが何人かいるのが話しているうちにわかって、自動販売機のジュースを奢ってもらったり、プリクラを一緒に撮ったり、ゲームの代金を半分ずつ出し合って対戦したり、そういうことを誰彼構わずやっている間に、もうごちゃっとなって今ここのゲームセンターにいる全員友だち、という気分になった。ゲームセンターは二階建てだし、照明が眩しいし、みんな若いって自覚があるくらいに若くて、知っている人とか知らない人とか関係ないくらいお祭りみたいに騒いで、そのせいかわからないけれど、わたしはその日、寝て起きたら目の周りに蚊に刺されみたいなぶつぶつがたくさんできていて、それはいいんだけど、ゲームセンターで一通り遊んで駐車場に行って、わたしたちのグループの車とアユカちゃんたちがいたグループの車二台に、もう元は誰がどっちの車に乗っていたかとかは関係なくごちゃごちゃにそれぞれが乗って、電話で連絡を取り合いながら、どこかに行こう、ということになって、どこかって言ってもこんな大人数で今から店とか入れないでしょ、とか、誰かの家って言っても迷惑でしょ、とか、そこは結構冷静に話し合われる中で、誰か一人が、そういえばどこそこに心霊スポットあるよ、という話をすると、車内が二台分とも急激に膨張するみたいにわっ、となって、もうそこに行く行く行く! と誰かは足踏みしたり誰かはヘッドレストをばじばし叩いたりして、運転手二人も奇声を上げながらアクセルを踏んだ車内では、それぞれレゲエとヘビメタがかかっていた。わたしはその、ヘビメタがかかっていた方の車に乗っていて、それは元々乗っていた車じゃなくて別グループの車だった。
 隣に座っていた知らない男の子が、さっきまでみんなと騒いでいたのに、急に静かになって、窓の外を見ながら英語の歌詞の歌をずっと口ずさんでいて、すごく発音が良くて、車内ではがしゃがしゃ音楽が流れていたしみんな騒いでいたのに、知らない男の子が口ずさんでいた歌ははっきりと耳に届いた。英語がわからないから歌詞の意味はわからないけど、ミッキーマウスとかマザーとかマーズとかドッグとかクラウンとかの単語は聞き取ることができて、わたしはきっとこの歌は、青みがかった明るい場所で作られたに違いない、と思い、けれどその男の子に誰のなんの曲を口ずさんでいるのかは訊かなかった。
 心霊スポットだと誰かが言った場所は、スポットと言われてもどこからどこまでかがわからないような、大雑把に言って森みたいなところで、開けた場所に車を停めて一応みんなで降りてみたんだけど、なんだか暗過ぎてなにがなんだかわからないというか見えないし、草木が鬱蒼としていて、建物とか街灯とか明かりが一切なく、風が吹くと葉が擦れてさわさわ鳴って、どこにどう向かって歩いたら心霊スポットと言われている場所に辿り着けるのか、この、今立っているこの場所が全体的に心霊スポットということなのか、誰一人、車を誘導してきた人ですらわからなくて、ただひたすら暗い中にいて、なにがなんだかわからないのだから、怖がりようがなかった。
 それで、みんな車に戻ろうということになって歩き出したら、誰かが、アユカがいない、と言った。え、とみんなで自分の近くにいた人たちと顔を見合わせて、振り返ったり首を伸ばしたりして、本当に、アユカちゃんがいなくなっていた。といっても、わたしの中ではまだその時、アユカちゃんという人は別グループの中の知らない人の一人だったので、名前も姿もはっきりと認識していなかった。
 みんなでアユカちゃんを探した。名前を呼んで、暗い中を歩き回って、はぐれないように、車からあまり遠ざからないように、そうしているうちに、いた! と叫び声が聞こえて、行ってみると、アユカちゃんはいた。アユカちゃんは、大きな木の根元に座って、まっすぐ正面を、ぼうっと見ていた。一点を見つめ、目が緑色に、ぐるぐる光っているように見えた。アユカ、アユカ、と一人が肩を揺さぶると、はっとしたように目の色が変わり、アユカちゃんは立ち上がって、帰ろう、と言った。みんな、一気に怖くなって、車に急いで乗って、車が走りだして少し経ったら、ぎゃーと誰かが叫んで、その叫びに驚いた誰かがぎゃーと叫んで、叫びがどんどん連鎖して収拾がつかなくなり、それはたぶんわたしが乗っていた車だけでなく、もう一台の車内も同じような感じだったに違いない。
 その一年後ぐらいに、地元の喫茶店で友だちとコーヒーを飲んでいたら、たまたま隣の席にアユカちゃんとその友だちが座っていて、わたしの友だちもアユカちゃんの友だちも心霊スポットに行ったメンバーの中にいたから、おーあの時の、みたいな感じで少し話して、だけど心霊スポットの話は誰もしなかった。
 図書館の正面にあるベンチで、電話を受けていたわたしも、アユカちゃんのことでまっ先に思い出したのはあの心霊スポットでの出来事だったけど、そのことは言っちゃいけないような気がした。
 倉田さんて、パティシエなんですよね、とアユカちゃんが言った。まあ、そうかな、と言いながら、なんでわたしはアユカちゃんをちゃん付けで呼んでいて、アユカちゃんはわたしを苗字にさん付けで呼んでいるのか、確かアユカちゃんがわたしより年下だったからだと思うけど、さだかではなかった。
「わたし、パティシエになりたくて」
「あ、へー、そうなんだ」
「はい、それで、倉田さんにいろいろ訊きたいっていうか、なにから始めたらいいのかがまずわからなくて、パティシエって、学校に行くんですか、行かなくてもいいんですかね、例えば、いきなりケーキ屋さんとかで働くとか、その場合、どうやって求人を探せばいいのかとか、ぜんぜんほんとうにわからなくて、それで、マッチに倉田さんの連絡先訊いて」
 マッチはわたしの友だちだ。けど、マッチがアユカちゃんと知り合いだということは知らなかったし、連絡先を教えるにしても、わたしに一声かけてからにしてくれたらよかったのに、そんなことを思っている間も、アユカちゃんは喋り続けていて、本当になにもわからなくて困っている感じが伝わってきて、すごく困っているのに頼る人がいなかったらわたしだって焦ってしまう、そう考えたら、マッチもアユカちゃんも責めることなんてできないよな、と思った。
 わたしは、今いる図書館のすぐ近く、駅前にあるカフェで働いて一年半になる。今日みたいに天気が良い日に開いていたら、カフェオレを飲むにはうってつけのテラスがあってペットも一緒に入れる、パチンコ店や牛丼屋やファーストフード店が軒を連ねる中、ぽっと別の国から浮き出てきたような店は、今日は定休日だ。
 今のカフェで働く前は、短期のアルバイトをいろいろしていて、だからわたしはパティシエの学校などには行かず、急にカフェに入って、お菓子とかパンとかを作るようになったから、今でも自分をパティシエと名乗っていいのかわからない。
 そう話すとアユカちゃんは、カフェに入ったのって、なにかきっかけがあったんですか、と訊くので、わたしは、一つの仕事をなかなか続けることができなくて、子どもの頃から甘い物が好きで家で作ったりしてたから、それで、好きなことなら続くかと思って、と答えた。
「そういうのって、ある日、急に思い立つものなんですか」
 うーん、とわたしは考える。
「パティシエになろうってはっきり決めて求人を探したわけじゃないんだよね。なんとなく、食べ物を作る仕事で、甘い物だったらいいかな、あとは、時間があんまりきつくなくて、お給料が安すぎないところがいいな、と思って探したんだ」
「それ、大事ですよね」
 アユカちゃんが言う。
 自分でぼんやり考えていたことを人に大事がられて、そうだよな、大事だよな、スマートフォンを耳に当てたまま、こくこくと頷く。
 目の前を、風船を持った女の子が、父親と思われる大人に手を引かれて通り過ぎていく。こんな天気の良い日に風船を持った小さな女の子、しかも黄色いワンピースを着ているなんて、絵の中にいるみたいで、居心地が悪い。膝の上のムーミンも、ナイロンがくしゃっとなって、困ったような顔になっている。
 天気が良過ぎるのも考えものだな、と思う。なにごとも、過ぎることは良くない。今日ぐらいの晴れの日は、少しぐらい風が吹いたり、雲がかかっていたり、たまに小雨がぱらつくぐらいで、ちょうどバランスがいいのかもしれない。そんな日なら、目の前を風船を持った女の子が通り過ぎても、困ったりしない。
 そういえば、マッチはどうしてるかな、マッチとはここしばらく会っていなくて、いつが最後に会った日かな、と思い出そうとして、そうだ、マッチの家でシュークリームを作ったんだ、と思い出す。
 マッチの家にはお母さんと、マッチと仲が悪いお父さんと、マッチと仲が悪い妹と、よく引っ掻く猫がいて、マッチの家の二階にある、一階にあるメインのキッチンではなくサブキッチンで一緒にシュークリームを作ったのだ。サブキッチンにはオーブンが無くて、トースターしかないからシューはうまく焼けなくてクッキーみたいに平べったくなってしまった。オーブンを使えばもっと上手に焼けると思ったけれど、マッチは頑なに一階に行こうとしなかった。蚊取り線香みたいに熱線がぐるぐるしたコンロは鍋に火がゆっくり通ってカスタードクリームを作るにはちょうど良かったから、平べったいシュー生地にクリームをサンドしたらそれなりになって、マッチのお母さんが持ってきてくれたミルクティーと一緒に食べたらまあまあおいしかった。
 食べている途中にキッチンの扉が薄く開いて、隙間からマッチのお父さんがこっちを見ていて、マッチはぎゃあぎゃあ叫びながらお父さんを追い払って乱暴に扉を閉めていた。帰り際に足首を猫に引っ掻かれて血が出た。傷がなかなか深くて、マッチとマッチのお母さんが動揺するぐらいの量の血が流れて、包帯を巻いてもらって帰った。
「元気ですよ、マッチ、わたし最近会いました」
 アユカちゃんが言った。
「じゅぶつにはまってて、マッチ」
「じゅぶつ?」
「えと、呪われた、物、で、呪物です」
「あーはいはい」
「メルカリとかで買えるみたいで、いわく付きの、髪が伸びる人形みたいなベタなやつとか、死んだ有名な魔女の末裔みたいな人の頭皮を樹脂で閉じ込めたキーホルダーとか、そういうよくわかんない物をいろいろ集めてて、それを見せてもらって」
 花壇の上を蝶々が二匹飛んでいる。黄色いのと白いのが一匹ずつ、くっ付いたり離れたりして、花から花へ行ったり来たりしている。
 公園は図書館から駅へ向かう反対方向にあって、駅の方向へ行くと銀行がある。図書館の反対側の道を駅の方向へ進むと居酒屋があって、居酒屋と銀行が向かい合う辺りで駅へ向かう道は二股に分かれていて、分かれた道の真ん中の中州みたいな場所に二階建ての小さなビルがある。一階は雑貨屋になっていて二階は焼き肉屋で、二階建てのビルの隣はラーメン屋で、その隣にわたしが働いているカフェがある。
 二階建てのビルの一階にある雑貨屋は、表に見えるように大きく開いた窓に、体だけのマネキンが置いてあって、フリルがたっぷり付いた薄ピンク色のワンピースとか、水色に白のドット柄のエプロンとかを着せられている。マネキンの周りには、ラメがたくさん付いたバッグとか、毛糸で編んだ人形とか、ビーズのアクセサリーとかが飾ってある。その窓のすぐ上に、焼肉、と赤くて太い文字で大きく書かれた看板があり、横のダクトからは営業時間になるともうもうと煙が上がる。隣のラーメン屋は、前はインドカレー屋で、最近ラーメン屋に変わった。インドカレー屋だった時は、わたしが働いているカフェでランチが珍しく忙しくなってご飯が足りなくなった時にご飯をもらいに行って、うちはサフランライスしかないんだけどそれでもいいなら、とインドの人らしい店主に分けてもらったりしていた。店主は、たくさん作り過ぎて余ってしまったと言って、濃い緑色のとても甘い餅みたいなお菓子をカフェのスタッフにくれたりもした。ラーメン屋にはまだ行ったことがなくて、カフェのスタッフも誰も行ったことがないという。ラーメン屋の店主は、ゴミを捨てに外に出てきた姿をちらっと見たことがある。坊主頭にタオルをハチマキみたいにして巻いて、目つきが鋭くてがっちりとした体型だった。
 それでですね、とアユカちゃんが言った。
 アユカちゃんの話をうんうんと聞いていたつもりだったけれど、それでですね、に繋がる前にどんな話をしていたのかがわからなかった。うんうん、わたしは相づちを打ちながら、公園の自動販売機の前に立っている人の背中を見ていた。
「今、倉田さんは、パティシエとして働いているわけじゃないですか」
「パティシエって言えるかわかんないけど、まあ、お菓子とかパンとか作ってるよ」
「それをパティシエって言うんじゃないですか」
「まあ、だとしたら、そうだね」
「修行みたいな感じで、どうですかね、倉田さんが今働いているお店で働かせてもらうってことは。もちろん無給でいいんです、修行ですから。倉田さんから、上の人に話をしてもらうってことは、可能ですかねぇ。わたし、本当に、どうしたらいいのかわからなくて」
 晴れてちょうどいい気温で、花壇もあるし蝶々は飛ぶし、風船を持った女の子はもういないけど、白くて大きな犬を散歩する人が通り過ぎたり、老夫婦がほどよい距離で並んで歩いていたり、日差しは強くて眩しくて、空が白っぽく光って、自動販売機にはいろいろな飲み物が並んでいる。なんだかすごく休日という感じがして、膝の上には図書館で借りた本があるし、買ったエコバックにムーミンが描いてあって良かったとも思う。弱い風が時折吹いて、花壇の草花を揺らしていく。
 アパートに帰って、わたしは借りてきた本を読み始めた。一人暮らしをしているアパートは図書館がある道を駅と反対側に真っ直ぐ歩いて、大きな庭があるお屋敷の角を曲がったところにある。そのお屋敷は、ほんとうに大きくて、昔テレビで観た、有名な俳優が軽井沢に買ったという別荘にすごく似ていて、もしかしたらその人が住んでいるのではないかと思う。表札の名前は違うけれど、芸名と本名が違っているのかもしれない。高い塀のちょうどわたしの目線あたりに模様が入っていて、そこが穴になって見える庭の、庭木はいつも綺麗に切り揃えられていて、小さな池には橋が架かっていて、大きな鯉が二、三匹泳いでいて、巨大な石がところどころに置かれている。庭に面した縁側がある窓の向こうは長い廊下になっていて、障子で部屋と仕切られている。窓枠とか雨戸がしまわれているところが木製で、和の感じがするのに造り全体はモダンで、駅と離れたこの一帯は住宅街でいろいろな家がある中でも、なかなか見なられない外観をしている。
 アパートで本を読む時はだいたいカフェオレかミルクティーを飲みながら、外の光がまだまだ明るくて、図書館のベンチに座っていた時の光がそのまま窓から降り注いでいるようで、テーブルに置いたマグカップと本との位置も、雑誌の表紙になりそうで、わたしは慌てて本を開いた。ぱらぱらページをめくっていたら、付箋がある本なのにしおりが挟まっていた。子どもが学校で作ったような感じの、折り紙と固い紙でできていて、真ん中に、恐らく子どものものと思われる字が書いてあった。
 おとなといっしょになかよくなれますように
 本の付箋でなく、この折り紙のしおりを使おう、とページの最初に挟んで本を閉じる。おとなといっしょになかよくなる、というのはどういう気持ちなのか、わかるようでわからない。
 次の日、カフェに出勤すると、バイクにまたがった立松くんがやってきて、カフェの裏口のラーメン屋の駐車場との間にある柵にもたれかからせるようにバイクを停めて、ヘルメットを外して、わたしに気付くと、おー、と言った。本来出勤するはずの時間をとっくに過ぎていて、つまりわたしも立松くんも遅刻をしていて、けれど別に怒る人もいないからお互いのんびり店に入った。
 半袖の隙間から、バイクで走っていた時の風を含んでいるような匂いが、立松くんからした。裏口の鍵はわたしも持っているけど、なんとなく立松くんと一緒の時には立松くんに開けてもらう。鍵をバッグから取り出し、鍵穴に差し込んでいる間、立松くんは無言で、重い鉄扉の前には八百屋さんが持ってきた野菜が入ったダンボールが置いてあってそれを押しのけて開くと、立松くんは右側の壁にある照明のスイッチを押した。
 休みの次の日の厨房は久しぶりに遊びに来た友だちの家の匂いがして、そういえば子どもの頃、家で使っている毛布に名前を付けていた子がいたな、と思い出す。その男の子はその毛布のことがすごく好きだったのだろう、名前があるんだよこの毛布にはぼくが付けた名前、というようなことを言って、わたしは毛布にも名前があるというのが新鮮な感じで心に残っていて、スヌーピーに出てくる男の子も確かタオルが好きで引きずっていたよなあと、わたしの知っている男の子が好きな毛布に付けた名前は、けむし、だった。茶色くて、牡丹の花みたいな模様の毛布だった。その男の子の母親とわたしの母親が仲が良くて、他にも仲の良い母親というのがうちの母親にはたくさんいて、小さい頃はわけもわからずそういう母親が仲の良い母親たちの集まりに連れて行かれて、母親たちはおのおの子どもがいるからその集まった子どもとわたしは別に仲が良いとか悪いとか、そういうことは関係なしにもう集まったのだから遊ぶしかなかった。座敷のある店で、床の間がある席の、窓の向こうには沢があって、沢ガニがたくさんいてそれを取って遊んでいたら、沢ガニをそのまま揚げた料理が出てきて、さっきまで目の前で見て動いていた沢ガニが、テーブルの籠の上で薄く衣を付けられてカラリと揚がっているのが、生きているってあっけないなあ、と思ったりしながら何個も食べた。子どもの中には気持ち悪がって食べない子もいて、次々沢ガニを口に放り込むわたしを怪訝そうに見ていた。
 カフェの事務室は三畳か四畳ぐらいしかない狭い部屋で、入ると正面にテーブルというか、ちょうどいい高さに設えられた板があって、その下にはパイプ椅子が差し込んである。板の上にはいろんな書類とかの大事な物が入ったファイルや小さいクリアケースが綺麗に並んでいる。板の手前、部屋に入ってすぐの壁の両脇には衣装ケースが並んでいて、そこに制服というかこの店はエプロンだけが配られてホールスタッフも上は黒い襟付きのシャツと下は黒いスリムパンツとなんとなく決まりがあるけど、基本自由に家から着てくる自前の服にエプロンを着けるだけで、だからエプロンだけがたくさん入っている。衣装ケースの上にバッグとかを置いて、左側には上着をかける用の突っ張り棒があって、今は上着を着てくる人はそれほどいなくてハンガーだけがぶら下がっている。ホールスタッフの中にしっかりしている人がいて、その人が事務所を主に使っていて、掃除も整理も行き届いている。
 バッグを事務所に置きっ放しにしていても気にならないのは、事務所は厨房から見える位置にあるし、扉は常に開けて置くことが決まりであったし、そもそも他人のバッグの中身をどうにかしようというスタッフなんてこの店にはいないよね、という信頼のもとにそうしているのだけど、よく考えると、仕事の時間とちょっと飲みに行くぐらいしか関わりがない人たちをそんなに信用していいものなのかと、わたしは着替えながら衣装ケースに置いた自分のバックを見下ろす。
 わたしの財布の中には十万円が入っている。十万円を、すぐに使うから入れているわけではなく、十万円入れておくと安心するとか、金運が上がるためのお守りとか、そういうわけでもない。わたしは、ただ十万円を財布に入れていた。こういう説明できないことを真面目にやることに、わたしは注意深かった。誰かに説明できてしまうことを真面目にやっても、ましてやふざけてやっても、どうしようもないというか、わたしの財布には常に十万円が入っている、それはただ、本当にそれだけのことだった。
 いつもより早く準備をしなくてはいけないはずなのに、立松くんはのんびり動いている。鍋を取り出す時も、まな板を作業台に置く時にも、ほとんど音がしない。立松くんは、名前が付いた毛布やタオルや枕なんかを、たくさん持っているのではないかとわたしは思う。身の回りにあるもの全部に名前を付けているのではないかと、腕の筋肉の動きとか、喉の筋とか血管とか、そういうのを見ていると感じる。わたしは物に名前を付けたことがない。名前を付けるのは本当はすごく怖いことではないかと思う。わたしに名前を付けた両親を、ずいぶんと大胆なことをするものだなあ、と思う。わたしは物にすら名前を付けられる気がしない。
 立松くんはわたしの二個年上で、このカフェでシェフとして働いている。この街にある病院の医院長でカフェのオーナーをしている人の息子で、立松くんはだからシェフ兼店長というか店の責任者ということになるのだと思う。厨房で働いているのはケーキとかパンを作るわたしと、料理を作る立松くん、ホールでは何人かが入れ替わりで働いていて、その中のしっかりしている人がシフトを作ったりお金の計算をしたり新しいスタッフの教育をしたりしている。立松くんには、管理するとか、束ねるとか、そう意識がないというか、持たないようにしているのかわからないけど、とにかくはたから見ていて、その類いのことはまったくやっていない。それでも、しっかりしている人がいるし、たまにオーナーの運転手で助手みたいな役割の人とかがやってきて店のお金のこととか人事のこととかをやってくれているから、なんとか店は成り立っている。
 いつも通り準備していて、ホールスタッフが出勤してきて、店がオープンしてもやっぱり立松くんの仕込みは終わっていなかった。けれど客がすぐには来なくて、結局最初の客が来るまでには間に合っていて、そういうことをわかってやっているようなところが立松くんにはある。
 一日仕事をして、ランチが終わると休憩を挟んでディナーが始まって、ホールスタッフは早番遅番で入れ替わるけれど、わたしと立松くんは一日中働いている。店を閉めると立松くんとわたしは店にあるお酒を飲んだり、たまに外に出て駅周辺にある居酒屋で飲むこともある。
 今日は店を出て外で飲むことにした。駅のカフェがある出口とは反対側の周辺が飲み屋街になっていて、たくさん飲むところがあるからまんべんなく回りたいという気持ちはあっても、行く店はだいたい決まってきていて、歩いていると足は自然とよく行く焼き鳥屋に向かっている。寄せ木細工みたいな店構えの、屈まないとくぐれない入り口に立松くんが頭をぐぐらせ、続けて頭を下げた瞬間に、そういえば、とわたしはアユカちゃんのことを思い出した。カウンターに座り、ビールを二杯とせせりとつくねとモモとハツを二本ずつ頼んで、ビールが先に来て乾杯をして、立松くんは昨日の夜観た映画の話をした。
 焼き鳥屋の店主は忙しそうに、カウンターの中にある焼き場で焼き鳥の串を回したり皿になにかを盛り付けたりしている。煙が上がり、香ばしい匂いがして、立松くんは串を横にして焼き鳥に齧り付く。
 映画の話が終わって、少し途切れて、辺りを見回すつもりでなくてもなんとなく見ていると、煙った視界で大人の笑った顔や無表情や険しい顔がある。なにかを考え、考えたことを口で話すひとりひとりは、わたしとは別々の体なのに、店を通して同じような感じは、やっぱりしない。同じと思ってみてもいいけど、そこはやっぱり違う。子どもの頃は、大人がお酒をなんで飲むのかわからなかった。あんな苦くておいしくないもの、ジュースの方がおいしいと思う、わたしは今でもそう思いながらも、こうして仕事終わりに焼き鳥屋のカウンターで飲んだりしているのは、ただのポーズというような気もする。大人としての、大人の格好、大人の正しい形。仕事終わりに、会社の同僚とか上司とどこかひとところに集まって、ゲームをやったり漫画を読みながらジュースを飲んでお菓子を食べることは、多分あんまりない。ビールを飲み終わり立松くんがレモンサワーを頼んで、わたしも同じものを頼んで、あとは鶏皮ポン酢を頼んで、本当は、鶏皮ポン酢なんてあんまり食べたくない。
 しばらくして、立松くんの前に、はいーお待たせしましたレモンサワーでーす、とジョッキが二つカウンターに置かれたのをわたしの分も持ってくれて、続けて鶏皮ポン酢も来て小鉢を立松くんはわたしとのちょうど真ん中ぐらいに置いて、空いた皿をカウンターに上げた。カウンターの上は元々そうだったのかわからないくらいつやつやしていた。仏壇みたいだった。立松くんは本当にお酒をおいしいと思って飲んでいるのだろうか。本当はわたしと、ゲームをしたり漫画を読んだりしたいんじゃないだろうか。横顔を見ると一本だけ少し長い髭が頬に刺さっている。
 串をつんつん皿の底にリズム良く差しながら、立松くんは喋る。わたしはなにかを思い出しそうになって、思い出しそうなそれが頭の中で形になりそうだと思っている時には頭の内側辺りに意識がいっているのだけど、そうしている間にも鼻とか耳とか目とか口とかはぽっかり開いていていろんな情報を出し入れしているから、その時はカウンターの中で焼き鳥を焼いている店主の手元に目がいって、店主の指の間でくるくる回る串を見ながら、真面目だなと思う。店主の指は焼き鳥を焼くのだということが決められていて、店主の体はそうしながらも耳とか目とか鼻からの情報を脳に伝達して、それでいて頭の中では思い出しそうなことを忘れているのかもしれなくて、店主のそのような状態をわたしは視覚の情報から想像していて、店にいる客も、そうして一緒に座っている連れの客と喋ったり、考えたり、見たり聞いたりしている。壁もある。壁にはメニューが書かれた黒板がかけられていて、白やピンクや青のチョークでその日のおすすめや食材の原産地なども書かれていて、それを書いた店員も、今店の中で働いているか、シフトが入っていなければ家で休んでいるのだろう。黒板にチョークで文字を書いた店員の指先には、きっとチョークの粉が付いただろう。真面目だ、いたって真面目で、壁も、椅子も、わたしは真面目に店主に焼かれた焼き鳥を真面目にちゃんと食べて、喋っている立松くんの声が低くなる。立松くんは、たまに声がすごく低くなって、ずずず、とスピーカーの音が割れるような感じになる時がある。本人も気付いているのかわからない。焼き鳥屋の中には、ふざけている人が一人もいなくて、モモに挟まれたネギですら、焦げた表面の中身がとろっと柔らかくなっていて、適度な塩味が付いていて真面目だった。こういう時には危ない。経験上、過剰なところにはずれや破裂が付きものなので、ふざけなければいけないとは思いつつ、真面目な流れから外れることができない。
 急に強い力が加えられるみたいに、わたしはアユカちゃんのことを思い出した。立松くんの話を遮って、だから立松くんは不服そうな顔をしているところに、アユカちゃんと図書館の前で電話した内容をわたしはかいつまんで話した。立松くんがなにか言って、わたしはそれを聞き取ることができなくて、え、と聞き返した。立松くんがもう一度なにかを言ったタイミングで、今度は違うテーブルの方からわっ、と大きな笑い声が湧き起こって立松くんの声がかき消された。もう一度、立松くんがなにか言って、わたしはやっぱり聞き取ることができなくて、え、と言うと、立松くんはトイレに立って、だからアユカちゃんのことは、もうわたしは話さなくていいかと思っていたら、戻ってきた立松くんが、で、そのアユカちゃんていう子が? と訊いてきたので、わたしはアユカちゃんの話をした。
 アユカちゃんの全体的な感じ、声とか話し方とか見た目とかを、まったく覚えていないわけではないけど、なにせ二回しか会っていないし、その二回もちゃんと話したわけではないから、はっきりとは思い出せない。それなのに、ある一部分だけが、妙にはっきりと、立松くんと話していたら、立松くんの剃り残しの髭の横辺りに浮かんできた。みんなで心霊スポットと言われる場所に行った時、そこで座っていたアユカちゃんの、白いTシャツを着た肩から二の腕にかけての形、筒状の丸み、指で押したらめり込みそうな皮膚、そこの部分だけが取り出されて立松くんの横顔に重なって、重なった空間全体がアユカちゃんなんだという気がした。
 じゃあ、いいよ、と立松くんが言うので、
「なにが」
 と訊くと、
「なにがって、だから、そのアユカちゃんて子、うちの店で働いてもいいよ、だって、給料払わなくてもいいんでしょ」
 立松くんの声が低く割れて、
「ありがとう」
 とわたしは言った。
 アパートに帰って、借りた本の続きを読もうとして、開いたら、やっぱり同じことが書いてある。一冊開いて、二冊目を開いて、三冊目も、ざっとめくって、全部が全部、同じことが書いてある。違う作者の違うタイトルの、借りたことがない本をいくら借りようが、何冊借りようが、夕方読んでも、お酒を飲んで読んでも、全部同じことが書いてある。
 小学校五年生の時にもらったクリスマスプレゼントの児童書が原因だとにらんでいた。子どもが読むにしては分厚くて、字が細かくて二色に分かれていて、表紙はビロードで滑らかで、箱に入っていた。
 小学校五年生の冬は、わたしはその本の中で暮らしていた。わたしの生活とはなんの接点もない、行ったこともない外国の、会ったこともない作者が書いた文字を、カスタードクリームが入ったスポンジケーキや、伯母さんから送られてきたみかんを口に含みながら読んで、そこには、最後に、この話はずっと続いていく、主人公は永遠にここにいるのだし、世界と大地は、留まりながら移動してずっとここにある、というようなことが、十ページに渡りそれまでとは違った書体で印字されていた。わたしはそれを繰り返し読んで、読んでも読んでも終わらなかった。読み終わると、すぐに最初から続きが始まった。図書館で他の本を借りて読んでも一緒だった。
 ナイロンのエコバックがフローリングの床にだらりとなり、ムーミンが顔を歪ませ天井を見上げている。外が暗くて、部屋の中と、開いたページは真っ白に光って、読めば読むほど文字は浮いてくるようだった。

 カフェの厨房では、立松くんと背中合わせに仕事をすることが多い。わたしが主に作業をする、デザートやパンの材料が入っている冷蔵庫と作業台はホールとの境になっている壁に向かっていて、五口あるガスコンロやオーブンやパスタを茹でるための大きな鍋用のコンロは裏口に向かって付いていた。背中と背中が向かい合う間にもI型の冷蔵庫があって、その上も作業台になっているから、わたしの背後の気配と立松くんの背後の気配はちょうど半分になってI型の作業台で擦れ合っていた。
 カフェで働き始めて半年ぐらい経った頃、立松くんがバイクで事故をして、怪我で一ヶ月入院していたことがあった。その間、代わりでやって来たのはフランス人のアランで、オーナーが連れてきた。アランは日本語が話せて、日本のアニメとか漫画が好きだと言って、わたしはアランのアパートに行って見せてもらった。アランは小さな猫と暮らしていた。拾ってきた猫らしく、アランに慣れていなくてわたしが部屋に入るとすぐどこかに行ってしまった。大きなテレビがワンルームの真ん中にどんと置かれていて、部屋を暗くして、ソファーにアランと並んで座った。
 両親のことが嫌いな男の子の部屋のクローゼットからある晩、小さなおじさんがたくさんやってきて、そのおじさんたちに言われるまま男の子もクローゼットに入り、向こう側で繋がっていた世界の様々な過去や未来や現在を行きながら、その場所場所で起こっている問題を男の子とおじさんたちは解決して、帰ってきてクローゼットから出たら家は火事で燃えてしまっていて、燃え跡に電子レンジだけが残っていて、電子レンジの中には黒く固まった炭みたいな物が入っていて、それは君のお父さんとお母さんだよ、と誰かが言って電子レンジは爆発した。
 映画を観ながら、アランが砂肝のコンフィとか白身の魚のフライとか緑色で硬い野菜のサラダとかをテーブルに並べてくれてそれを食べて、ワインも赤と白を注がれるまま飲んだ。映画はかなり昔に作られたんだろうなという感じがしたから、訊いたら、僕もはっきりとはわからないけどたぶん七十年代、とアランは答えて立ち上がって、あとは、前に付き合っていた人の口の中を撮影した写真を見せてもらったりした。
 アランは立松くんが退院してカフェに戻ってきてからも何か月か一緒に働いていたけど、もう今はフランスに帰ってしまっていて、たまに連絡をくれる。こっちで飼っていた猫もフランスに連れていって、写真を送ってくれた猫はとても大きくなっていて、まだアランに懐いていないのだという。
 アランの猫が、フランスのどこかの街、アランが住んでいる街だと思うけど、アランが住んでいるとは思えない街のどこかの家の屋根の上で寝ている写真が送られてきて、天気がかなり良くて、良過ぎるくらいで、空が真っ青で、屋根は臙脂色で壁が白く光っていて、屋根で猫はお腹に前足と後ろ足をしまって目をつむっている。猫の背中の丸みに、強く日差しが照り、屋根と猫は写真のやや左寄りにあって、真ん中には灰色で窓が極端に少ない塔が建っている。見たことがない写真にしては、あまりに天気が良過ぎるし、猫の背中や日差し、四角く切り取られた風景に収まった色や形に落ち着かない気持ちになり、わたしはアランに、この写真の絵を描くと伝えた。アランは、絵が描けたら送ってほしい、と返信してきて、わたしが、嫌だ、と返信すると、実物じゃなくて写真で撮ったのをだよ、と返ってきて、それにもわたしは、嫌だ、と返した。
 画材屋さんに行き、キャンバスを買おうとして選んでいて、手で触ったのが大き過ぎて棚に戻そうとしたら、キャンバスから手が離れなかった。しかたなく大き過ぎるキャンバスとアクリル絵の具を買って帰り、今は鉛筆で下書きをして、アパートの壁に立てかけてある。いずれ色を塗って、完成したら、とても高い位置に飾りたいとは思っている。
 アランは厨房で働いていて、やることがなくなると、事務所からパイプ椅子を持ってきて厨房の隅っこに置いて、そこに座って、厨房とホールを隔てる壁に大きく空いた窓の向こう、ホールの客とかスタッフの動きとか、壁に飾ってある絵とか棚とか、出入り口の窓から見える駅前のロータリーを回る車とかを多分眺めていて、組んだ膝に頬杖をついて、外の景色を眺めていると思って油断していると、大口を開けて欠伸をするわたしをじっと見ていたりした。わたしの欠伸や鼻をかんだりしている瞬間を捉えたアランの目は、アパートで飼っている猫を見るような、またはその小さな猫の目に取って代わったような、そんな風にぐりぐりと丸く縮こまっていた。アランのあの猫を見るような猫の目が、そのままくり抜かれて床に落ちていたとしても、わたしはそれがアランのものだと気付く自信があった。
 立松くんと厨房で背中合わせに仕事をしていると、背中から空間のぜんぶが裏返ってしまうような、苦しいな、という時がある。外は涼しくなってきたとはいえ厨房はまだ暑いので、そういう外的な要因は思っているより直接に心の苦しさにも作用して、生クリームはハンドミキサーでしっかり泡立ててもだれやすいし、バターはちょっと出しておくと柔らかくなり過ぎるし、お菓子を作る時の用語は、泡が死ぬとか、泡を殺さないようにとか、けっこうそういう物騒な言葉が入ってきて、暑いとせっかく泡立てた泡も死ぬ、お菓子を作っていると、誰も殺さないでいられるのが不思議なような気がしてくる。
 ハンドミキサーの音は、持っているわたし自身が一番近くで聞いているのだから、わたしが一番うるさくて、うるさいのも苦しいのと似ている。立松くんの背中の気配が、背中でどんどん膨らんでいくように感じて、苦しさが増す。生クリームは一向に泡立とうとしない。ボウルの下にちゃんと氷水を当てているのに。
「ねえ、なにをぶつぶつやってるの」
 背中で膨らんでいた立松くんが、いつの間にかすぐうしろにいた。
「ずっと話しかけてるのに、全然気付かないから」
 わたしはハンドミキサーのスイッチを切った。
「ごめん。この音が、うるさくて。で、なに」
「この間言ってた、倉田さんの後輩? 友だちだっけ、その、なんとかさんが、うちで修行したいとか言ってた話は、どうなったの」
 わたしは、立松くんにそう訊かれる、その瞬間まで、すっかりアユカちゃんのことを忘れていた。それまでは、いつまで覚えていたのだろう。わからない。アユカちゃんのことを、覚えていたということは、覚えている。だから、アユカちゃんのことを、忘れてしまった瞬間というのが、確かにあるはずで、忘れてしまった瞬間から、ついさっき、思い出すまでの瞬間という、その点と点を結んだ長さで、わたしはアユカちゃんのことを忘れてしまっていたということになる。忘れた瞬間を忘れてしまったから、その長さはどうしたって計りようがない。
「ねえ、ちょっと、倉田さん、聞いてる?」
「そういえば連絡ないんだけど」
 立松くんの左目の横あたりに視線を固定して、その部分をしっかりと見る。
 そういえば連絡がない、と立松くんに言ってから、はっと気付く。そういえば、あれからなんの連絡もない。電話で、上の人と話して、というようなことになって、上の人、ということを言ったのが自分なのかアユカちゃんなのか思い出せないけど、わたしにとっての上の人はオーナーか立松くんで、オーナーはあまり店に来ないし話しかけにくいので、わたしは立松くんにアユカちゃんの話をして、いいんじゃない、というようなことを言われたところまでを、刈り取った稲のふかふかした土に残っている部分を順繰りに踏むみたいにして思い出しながら、窓の外を見ていた。こういう場合、わたしから連絡するものだろうか。アユカちゃんの電話番号は、登録してないけれど履歴には残っているだろうからさかのぼってかければいい。窓の外には、駅前のロータリーが見えた。ロータリーは道路がぐるりとドーナツみたいにあって、真ん中の穴の部分には花壇や時計台やベンチ、穴の部分を突っ切ってまっすぐ駅前に繋がる歩道があった。仕事がある時には、ほぼ毎日見ている景色だった。ほぼ毎日見ているのに、そこを歩いている自分というのは、見ることができなかった。歩いている自分が、カフェの窓から厨房にいるわたしを見ることもなかった。頭の中では、なにかを思い出そうとして、稲が刈り取られた畑の中を歩いている自分の足の裏の感触があった。細い水路に渡された頼りない木の板の橋を渡って、真っ直ぐ伸びるあぜ道から逸れて、ふかふかの焦げ茶色の土に足を下ろす。近くに畑の所有者の家があったけれど、気にも留めなかったのは、両親とか祖父母の誰かが、稲を刈り取った跡は踏めば踏むほどいいのだというようなことを言っていて、それはなにに対しての、わたしの体についてなのか、稲の生育についてなのか、どの、いい、なのかはわからなくて、今もわからないけど、両親祖父母が、いい、と言っていることを、畑の所有者が怒るはずはないと思っていたからだ。柔らかい土に、短く刈られ乾いた稲の固い感触を足の裏に感じながら、一歩、また一歩と踏みしめていると、確かに自分は、いい、ことをしている、という感じがした。誰に言われなくても、この子どもの頃に稲を踏みしめていた時の、いい、という感じは、ずっと体の奥にあって、それがどんな作業をする時にでも、これは、いい、ということを感覚として今のわたしにも教えてくれる。よく泡立てた卵と砂糖に、ふるった小麦粉をさっくりと混ぜる時の、さっくり、という感じ。パンの柔らかい生地を、破れないように力を加減して丸める、その手の動き。仕事中でなくても、生活で、洗濯物を干したり、洗い物をしたり、そういった時の、いい、の瞬間、自分が気付いていなくても、いい、のだということを、体の奥にある小さな、いい、が教えてくれる。

 友だちから、仕事が終わってアパートにいた夜十時に連絡があって、どこどこで飲んでいるからおいでよ、と電話で言われて、次の日がちょうど休みだったから行くことにした。
 電車を乗り継いだ先の居酒屋には、すでにたくさんの人がいて、わたしに電話をかけてきた友だちは見当たらなかったけれど、知っている人が何人かいて、知っているような知らないような見たことがあるような人も数人いて、恐らく初めて会うと思うけれどもしかしたら一度ぐらいは会っているかもしれない人も二、三人いて、狭い店内は立っている人も座っている人もずっと動いていて、止まっている人は一人もいなかった。近くに藍色の前かけをした人がやってきて、わたしはその人にビールを一つ注文したのだけど、注文したあとでもしかしたらこの人は店員ではないかもしれない、と思っていたら、その人は伝票を前かけのポケットから取り出してペンを走らせて、あいよっ、と言ったから店員で間違いないようだった。店の窓は磨りガラスになっていて、一階にあるのに二階のベランダから漏れる光のような見え方で窓が光っていた。駅から歩いて来た方の道から、黒い頭が動いてやって来るのが次々に見える。空いている席に座ったら、別の席にさっきビールを頼んだ店員が来てビールのジョッキを置いていくのが見えて、多分それはわたしが注文したビールだと思っていたら、目の前にビールが置かれた人が隣に座っていた人と話しながらジョッキに手を伸ばして口を付けた。わたしだって、目の前にビールを置かれたら多分飲むよな、と思いながら、その会ったことがあるのかないのかわからない人が、おいしそうでもなく、流れで飲んでいるビールの淡い橙色を見ていた。
「倉田さーん」
 呼ばれて振り返ると、人がいて、顔全体からしてそれはマッチだった。久しぶり、とお互い言い合って、そうしているとわたしの隣に座っていた人が遠慮をしてなのか席を移動して、マッチはどうも、みたいな感じで首を揺らして空いた席に腰を下ろした。
 久しぶりに会う友だちとはお互いの近況を話し合う感じに必ずなって、わたしの方は前回にマッチと会った時から状況はまったく変わっていなくて、マッチは前会った時にやっていた仕事を辞めて最近まで海外に行っていて、先週帰ってきたばかりなのだという。
「そういえば、マッチ、呪物、だっけ、集めてるんじゃなかった?」
 わたしは言った。
「あーそれね、もうブームは去ったかな」
「そうなんだ」
「うん。けど、それ、誰に聞いたの? あんまり人に喋ってないんだけど」
「えーと、誰だっけな。うーん」
 しばらく考えたけれど、わたしは、マッチが呪物を集めているという話を、誰から聞いたのか思い出せなかった。
 ブームが去ったとはいえ、捨てるわけにはいかないから呪物は家にたくさんあったのだけど、海外に行っていた時に同じく呪物コレクターの友だちに全部預けて、預かってくれたお礼にほとんどあげてしまったのだとマッチは言った。気に入って何個か残っている呪物の中の、木彫りの細長い女の人の置物は、うどんとかクッキーを生地から作る時ののし棒として使っていると言う。そういえば、マッチはうどんや餃子を小麦粉で生地から作る人だった、ということを思い出して懐かしい気持ちがして、わたしはマッチに、また一緒にお菓子とか料理とか作ろうね、と言った、その自分が発した言葉自体にさらに深い懐かしさを覚えて、心の中の、いい、部分が漏れ出して、目頭が熱くなった、その時にちょうど店員がビールを持ってやって来てわたしの前に置いて、わたしの注文は忘れられていたわけではなかったのだということに気付き、緩んだ涙腺からさらに熱いものがこみ上げて、店員を見上げたわたしの目には涙が溜まっていて、それに気付いたからかはわからないけど、店員はうんうんと頷くような仕草をしてから持ち場に戻っていった。
 この店は安くておいしいよ、飲み食べ放題だからどんどんやりな、というのはマッチが言ったわけではなくて、入店してからいろんなテーブルで座っていたり立ってうろうろしていた人たちが話していたのを聞いていたから理解したことで、そうだとしてもわたしの食べたり飲んだりする量が変わるわけではなかった。この飲み会に誘ってくれた友だちの姿はどこにも見当たらなかった。
 マッチは違うテーブルに行ってしまって、わたしは隣にいた人と喋った。その人はわたしを知っているようで、倉田さん、と呼ばれた。わたしはその人の顔は見たことがあるような気がしたけれど名前は覚えていなくて、探り探り、名前を呼ばなくてもいいように会話を進めた。昔観た映画のタイトルがどうしても思い出せなくて、とその人はわたしにその映画のことを話した。
「港街に若い女の子、多分中学生ぐらいの子なんだけど、外国だから中学とか言わないのかな、外国って言ってもどこの国かもわからない、英語ではなかったと思うんだよねー、フランス語とかイタリア語だったと思うんだけど、で、港にね、船がやって来て、船乗りの年上の男の人を、女の子はちょっと好きというか憧れっていうかそういう感じになって、それで、まあ、男の人といよいよそういうことになるって時にね、やっぱり怖くて女の子は男の人を突き飛ばして、部屋を飛び出すんだよね。男の人を突き飛ばした拍子に地球儀が床に落ちて割れたと思うんだけど、地球儀じゃないかもしれない、タイトルを思い出せたら、検索もできるんだけど、出演者とか監督の名前もわからないし、まあ、そんなに観たいわけじゃないんだけどね」
 話しているその人の、頭に浮かんでいるであろう映像が、わたしとその人の座っているテーブルの真ん中あたり、話している空間に広がっていて、わたしの頭の中にも共有されているような気がした。その映画をわたしは観たことがないのに、その人が話しているその映画は、その映画そのものとして、空間で共有されていた。その証拠に、わたしは女の子が男の人を突き飛ばした拍子に床に落ちて割れたのが、地球儀ではないということがわかっていた。割れたのは、ベッドサイドに置かれていたライトだった。

 暖かかった日の次の日に雨が降って、急に気温が下がった朝、バイクにまたがって立松くんが珍しくいつもより早く裏口にやってきた。わたしはまだアパートから店に向かう途中で、焼肉屋と雑貨屋が入った二階建てのビルの近くを歩いていた。バイクに乗っている立松くんを見るのは初めてではないのに、その日はなぜか、立って厨房で仕事をしている立松くんと、バイクを運転して駐車スペースに入っていく立松くんとは、同じ顔だし体なのに別の人のような気がした。
 裏口の扉を開くとすぐ右横がコンロになっていて、そこにすでに着替えを終えた立松くんがいた。着替えと言っても立松くんはいつも汚れてもいいTシャツとジーパンを着てきて、腰にエプロンを巻くだけだから、いつでも着替えは早かった。わたしはおはよーと声をかけて、立松くんの顔などは見ず通り過ぎて、コンロの下から鍋を取るためにしゃがんだ立松くんの、おはよーという声が足下から聞こえるのを背に事務室に入った。立松くんがいつも厨房で履いているゴム製の黒い安全靴が、なぜだかしばらく目に残った。
 立松くんと背中を向かい合わせにして、背中と背中の間の空気の動きを感じながら、冷蔵庫に貼っているホワイトボードに前日書いておいた仕込みをしていく。立松くんはメモとかなにもしていないから、頭の中で仕込みの種類とか手順とかを決めてやっているらしい。それでたまに自分でもなにをしたらいいのかわからなくなって、はっきりとそう言ってくるわけではないけど、困っていそうな時にはわたしは手を貸すようにしている。立松くんはお菓子とかパンとかを全然作れない、それは本人から最初に言われたことで、料理とお菓子とかパンを作るのは作業工程はそう遠いものではないのだからやればできると思うのだけど、立松くんは頑なに作ろうとしない。わたしが仕込みに追われて困っている時も、なにも手伝ってくれない。
 一度、コンロを使って、鍋でカラメルを作って失敗したことがある。カラメルは鍋に砂糖を入れて、火にかけて焦がしていき、タイミングを見計らって生クリームを入れるのだけど、焦がし過ぎるとただの苦くて黒い物体になってしまう。コンロに砂糖の入った鍋をかけ、すぐに入れられるように計った生クリームが入った容器を作業台に置いて、そうしていたら誰かに話しかけられて、戻ってくると鍋からもうもうと煙が上がっていて、鍋の側には立松くんがいた。言ってくれればいいのに、と思いながらわたしはだめになってしまった鍋をそのままシンクに放り込んで水を流した。じうっとすごい音がして、苦い煙が霧みたいになって広がった。立松くんはなにも言わずにホールの方に行ってしまった。わたしはもう一度、砂糖を計量して鍋に入れた。
 駅前にあるのにうちのカフェは平日でも休日でも暇で、それでもたまに混むことがあって、なにかのイベントが周辺で行われているとか、テレビやSNSや雑誌で紹介されたとか、そういうこともないのに急に混む。そういう急な混雑は、何度経験していても突然やってくるので、わたしたちスタッフは毎回しっかりうろたえてしまう。
 急に混むと言っても、店が混むという現象は、突然起こるものではない。徐々に徐々に、よそ見をしていた隙をつくみたいに、気付いたら席が埋まっていてオーダー用紙がずらっと並んでいて、一体いつからこうなったのだろう、とその混み始めの作用点みたいなものはついぞわからない。
 それで、その日立松くんは普段も来るのが遅いけどさらに遅くて、お米をといで炊くのも遅くて、わたしはお米をとぐぐらいならやっておいてもよかったのだけど、変に手を出してご飯が変な具合になっても嫌なのでなにもしなかったら、開店してお客さんが入ってきてもまだお米は炊けていなくて、普段ならそんなに早くお客さんが来ないから別にお米が炊けていなくてもどうってことはないのだけど、そういう時に限って、お客さんは早くしかもたくさん来てしまうのだった。立松くんは表情からも動作からも明らかに機嫌を悪くしていて、その原因はきっとお客さんが来ているのにお米が炊けていないこと、さらにはわたしが機転を利かせて立松くんが出勤する前にお米をといで炊飯器にセットしなかったことで、それが理由だとしても理由ではないにしても、自分が遅刻してきたことが一番の原因だということが、すっぽりと頭から抜け落ちている。
 料理と一緒に食べるのはパンかライスで選べて、普段ならパンを選ぶ客の方が多いぐらいなのに、そういう時に限って最初の客からライスを選ぶのだった。オーダーを通された立松くんは、いかにもイライラした感じでわたしに、
「隣のラーメン屋からご飯をもらってきてよ」
 と言った。それは全然いいけど言い方が嫌だな、と思っても言えずにわたしはレジからお金をもらってラーメン屋に向かった。
 ラーメン屋とカフェの開店時間は一緒で、店内はすでに満席で、カウンターの中に二人男の人がいて、坊主頭の店主ともう一人は若い男の人で、二人とも忙しそうで話しかけられる雰囲気はまったくなく、ラーメンを運んでいた女の人に声をかけ、ご飯がほしいんですけど、と言ったら、店長に聞いてみて忙しいから、とすげなく返された。しかたなく、カウンターの中の店主に、あの、ご飯をください、と言ったら、気付かなかったのか、店主は反応しなかったので、もう一度、今度はもっと大きな声で、あの、すみません、ご飯をください、と言ったら、うるさい、と店主は怒鳴った。わたしはご飯をもらえなかった。カフェに戻ると、まだご飯は炊けていなかった。立松くんに、ラーメン屋の店主に怒られた、と話すと、ち、と立松くんは舌打ちをして、わたしが持っていたレジのお金が入ったチャック付きの透明の袋をふんだくって裏口から出ていった。戻ってきた立松くんの手にはビニール袋が下げられていて、中にはご飯のパックが二つ入っていた。それをデシャップに乱暴に出して、皿にご飯を開けてしゃもじで広げて呼び鈴をちん、と鳴らした立松くんはわたしを見て、オーダー詰まってるから、と言った。
 その日のちょっと前から、立松くんは店が終わってからあまり飲まなくなって、飲むとしてもわたしのことは誘わなくなっていた。すごく混んだその日の仕事終わり、久しぶりに立松くんに誘われて飲みに行くことになった。忙しくて立松くんは自分の賄いを作って食べている暇がなかったからすごくお腹が減っていると言い、ラーメン屋の隣の、一階が雑貨屋になっている二階の焼き肉屋に入った。
 肉を焼いて食べてお酒を飲みながら、立松くんはずっと不満について話していた。大きなことから小さなことから中くらいのことまで、立松くんの不満は尽きることがなかった。一つの不満がもう一つの不満を連れてきて、不満は膨れて破裂して、小さく分かれた不満は転がっていくと雪だるまみたいにまた大きくなった。わたしは焼肉を食べながら、その肉が牛の一部だった頃を想像していた。この肉を持っていた牛はもうわたしが生きている今この世界にはいない。この一枚の肉は、もう一枚のこの肉と、同じ牛の肉だったのだろうか。昔、沢ガニを食べた時の、同じ空間にいた子どもの表情を思い出した。ちょっと前まで遊び相手だった沢ガニが、目の前でこんがり揚がっていた。
「だからほら、いつもこうじゃん。全然、人の話聞かないんだから」
 遠くで人の声が聞こえて、それが目の前にいる立松くんの声だと気付くのに時間がかかった。
「倉田さん、いい加減にしてよ」
 立松くんの不満は、いつのまにかわたしに向けられていたのだった。耳では聞こえていたけれど、届いていないふりをしていたのが、よけいに立松くんを苛立たせていたのかもしれない。
「だいたい、あの話はどうなったの」
 立松くんが言った。
 あれって? わたしが訊くと、はあ、と大きなため息をついて立松くんは、自分の胸に手を当てて訊いてみな、と言うので、わたしは右手を胸の真ん中辺りに当てた。
「わからない」
 と言うと立松くんは、
「自分で言ったんだよ、後輩か友だちか誰かが、うちの店で働きたいって言ってるって」
 そうだった、とわたしはびっくりした。アユカちゃんのことを忘れていたことより、思い出せたことにびっくりした。
 働くということとか、うちの店のことを、倉田さんは適当にし過ぎている、だから適当に俺に友だちを働かせてくれなんて言えるんだし、その言ったこと自体を忘れてしまうんだし、それにね、アランが今大変なのも知らないじゃない倉田さんは、アランは病気で入院してるんだよ、それなのにのんきに、なんでそんな感じでいられるの、いつまでもそんなんじゃやってけないよ、倉田さん、……は……なんだ、倉田さん、そんなんで、いいと思ってんの、やって……思ってんの、……倉田さん……田さ……んは……
 わたしはアパートの部屋の中にいて、図書館で借りた本三冊が入ったムーミンのエコバックがこちらを見ていた。本をぱらぱらめくってみる。どこを開いても、どこの行も、同じことが書いてある。

 マッチの家にシュークリームを作りに行く。マッチは今一人暮らしをしていて、電車を一度乗り換えて三十分ぐらいで最寄り駅に着いて、迎えに来てくれたマッチと歩いてアパートに向かった。建設途中のマンションがたくさん並んでいる道を歩き、天気が良く風もない。ベビーカーを押す女の人が前から歩いてきた。擦れ違いざま、マッチはベビーカーの中を覗き込んで、かわいいー、と言った。ベビーカーの中には赤ちゃんがいて、押していた女の人がかわいいと言われて少し会釈をしたような気がした。わたしはマッチに、ねえ、なにかに名前を付けたことがある? と訊いた。
「昔飼っていた金魚になら、付けたことあるよ」
「なんて名前」
「ぎょぴちゃん」
「ああ、なんか、聞いたことある。有名な金魚だよね」
「そうだ、部屋に置く玉ねぎみたいな加湿器にも、名前を付けたな。今は納戸にしまってあるけど」
 部屋に着いて、シュークリームを作っている間に、マッチはこの前まで行っていた海外でのことを話した。ある村に入って、そこの儀式の仲間に入れてもらったそうで、村の人が作った飲み物を飲むとげーげー吐いて、そのあとに酩酊したような幻覚作用のようなものが起こって、村の人たちと輪になって、呪文みたいなその村の言葉を繰り返したり歌ったりしていたら、頭が割れて背中からめくれてしまって裏返ってしまったようになって、それからというものマッチは、ふいに見たこともない景色が見えるようになったり、聞いたことのない言葉が聞こえるようになったのだという。
 シュークリームのシューがうまく膨らんでよろこんでいると、マッチはカスタードクリームを作る準備をしながら、じっとわたしの目を見て、ねえ、今、絵を描いているでしょう、と言った。わたしは部屋にある描きかけの、アランの猫が屋根で眠っている絵を思い浮かべながら、うん、と答えた。
「その絵をね、来月までに完成させないといけないんだ」
「なんで」
「そうしないと、身近にいる、誰かが、一人死ぬって」
「なにそれ」
「無理矢理完成させてもだめだからね。自分の中で、本当に、これで完成だ、と思うところまで完成させないとだめ。そうじゃないと、完成じゃないから。必ず、来月までだよ。一人、死ぬからね」
 マッチの目は緑色に渦を巻いて光っているように見えた。
 シュークリームはおいしくできて、向かい合って食べながらマッチは、飼っていたよく引っ掻く猫が先週死んでしまったと話して、その猫が死んだあとに体が硬くなっていき、その死んでいく感じのどうにもならなさを、涙ぐみながら話した。食べ切れなかったシュークリームをマッチはタッパーに入れて持たせてくれた。
 アパートに帰り、紅茶を淹れ、シュークリームを食べながら、わたしは、きっと死ぬのはアランなのではないか、と思った。図書館で借りていた本をぱらぱらとめくる。どのページのどの行も、同じことが書いてある。
 おとなといっしょになかよくなれますように
 しおりに書かれた言葉は、本を閉じてしまえば、すっかり見えなくなった。

 アユカちゃんの初出勤の日は空が晴れ渡り風もまったく吹いていなかった。店は駅前だし地図を送ったから来られるだろうと思ったけど、一応わたしは駅まで迎えに行った。改札から出てきた女の人が手を振って笑っていて、倉田さーん、と呼ばれたのでわたしはその人がアユカちゃんなのだとわかった。二人で裏口から入って、厨房で仕事を始めていた立松くんにアユカちゃんは挨拶して、わたしは事務室に入って衣装ケースからエプロンを取り出して渡した。昨日メールで、汚れてもいい格好をしてきてね、と伝えていたから、アユカちゃんが今着ている服はきっと汚れても構わないのだろう。
 自分でホワイトボードに書いておいた仕込みをやりながら、その作業についてアユカちゃんに説明していく。アユカちゃんはわたしの横にぴったりついて、手のひらサイズのノートに、わたしがなにか言うたびにペンを走らせる。わたしとアユカちゃん二人分の背中が、I型の冷蔵庫兼作業台を境に、立松くんの背中と気配を行ったり来たりさせる。自分の背中だけでなく、アユカちゃんの分の背中もあるので、自分の気配が分裂したような、意識の幅が拡大しているのを感じる。ホールスタッフのしっかりした人がやってきて、わたしがアユカちゃんを紹介すると、一瞬不審そうな顔をしたあと、すぐ感じ良く笑って、よろしくーと事務所に入っていった。
 計量がなにしろ大切で、計量を間違ってしまえばたとえうまく生地を混ぜたとしても失敗してしまうし、オーブンに入れて、焦がしてしまうとちゃんとやった計量すらすべてが黒焦げになって無になってしまう。だからなにが一番大事ということはなくて、全部が大事。計量も、生地作りも、焼きも、仕上げも、そのどれか一つでも狂うと全部台無し。すごいよね。これが人生だとしたら、やるせないよね。朝の歯磨きの、歯を磨く順番を間違えただけでそのあとは全部うまくいかないとか、お弁当に入れたおかずの筑前煮を、本当は鶏肉から食べなきゃいけないのに、こんにゃくから食べたから午後は眠くてしかたがないとか、そういうのと同じだもんね。
 夢中で話してしまったのは、わたしは人生において、自分がなにか言ったことを聞いた人がメモを取ってうんうん頷いているという状況が初めてのことで興奮していたからで、夢中で話している最中には背中の気配が消えていたのに、アユカちゃんがノートをめくって息をついたことでふと気配が蘇り、立松くんの背中は振り返ることはなく普段通りに仕事をしているように見えた。アユカちゃんはランチが終わって立松くんが作った賄いをわたしと一緒に食べると帰っていった。アユカちゃんがいなくなると全身が重くなって、自分がずいぶんと気を張っていたのだということに気付いた。
 次の日もアユカちゃんはやってきて、わたしは昨日と同じことを教えてもしかたがないと思って、なるべく違うことを教えるようにしようとしたのだけど、お菓子を作る作業というのは基本似たり寄ったりなので、どうしようもなかった。計量を実際にアユカちゃんにやってもらったり、生地を混ぜるのを手伝ってもらったりした。
 次の日も次の日もアユカちゃんは来て、わたしが言うことをメモに取ったり、わたしがこれをやってと言ったことをやったりして、ランチが終わり賄いを食べると帰っていった。定休日を挟んで、次の日も次の日も、アユカちゃんはメモを取り、言われたことをやり、賄いを食べ、帰っていった。

 立松くんに飲みに行こうと誘われた。店を閉めて、飲み屋街にある焼き鳥屋に入った。立松くんと二人で飲むのが随分と久しぶりのことに感じた。焼き鳥屋のカウンターの中では、相変わらず店主らしき男の人や他のスタッフが真面目に働いていた。
 注文を終えて、一杯目にお互いが頼んだビール二杯がテーブルに置かれるまで、立松くんはずっと黙っていた。片肘をテーブルについて顎を支えて、出入り口の方を見ている。口がむっつりと結ばれていて、わたしは出入り口になにかがあるのかもしれない、と立松くんと同じ方向を見た。焼き鳥屋の、わざとなのかわからないけど低く作られている出入り口は、上半分が磨りガラスになっていて、真っ暗な中に正面にある飲み屋の赤提灯の光がぼやけて浮かんでいる。ビールを飲むと炭酸とアルコールで自然と体が緩んで、横を向いていた立松くんの正面にあった気配が和んでいくのを感じた。
「ずっと黙ってるね」
 と言ったのはわたしではなくて、ずっと黙っていた立松くんの方だった。
「俺がなにを言いたいのか、わかってるんじゃない」
 焼き鳥が運ばれてきて、テーブルに置かれたそばから立松くんは手を伸ばした。爪の間が緑色になっていて、多分今日の仕込みで使った水菜だろうなと思った。焼き鳥を一本食べ終わった立松くんは、わたしの方は見なかった。 
 つまり、話というのは、アユカちゃんのことが気に入らない、ということだった。アユカちゃんは、わたしの話をメモに取ったり、わたしに言われたことをやったり、本当に、それだけしかやらなかった。ちょっと手が空いていて、立松くんやわたしが手伝ってほしいような時に、勘付いて手を貸してくれるようなことが一切なかった。それでいて、賄いはしっかり食べて帰った。無給とは言え、もう少し、やりようがあるのではないか。そして、そういうことに気付いていながら、なにも言わない倉田さんが、一番悪いのだと。すべての原因は倉田さんなのだと。
「そういうことになるよね」
 わたしは言った。
「なにその言い方」
 立松くんは海賊みたいに焼き鳥を横にして口で串から引きはがした。わたしが全部悪い。そんなのはそうに決まっているのだ。
 立松くんの目が、急にぎゅっと縮こまり、黒目が少し緑がかったように光り、ぐるぐると回っているように見えた。そして、唐突に、立松くんは、昨日観たのだという映画について話し始めた。
「だからね、その映画なんだけどさ、ラストシーンでね、あ、ネタバレになるけどいいよね、観ないよね別に倉田さんは、倉田さん映画観ないもんね、あのね、だからね、その村の人たちを騙したわけじゃないんだけどね、結局疑心暗鬼みたいな感じなんだよ、人間の本質、そう、だって急に兵士が来てさ、個人本体の優しさ残酷さどうこうじゃないのそうなると、集団だしね、だから首をすぱん、とね、兵士の首を、わっとこう、お祭りみたいな松明みたいな暗闇でね、刀かな、ナイフかな、刀だね、すぱんと、首ってさ、そんな切れる? と思う? 刀ってすごいの? 倉田さん、首が地面にごろっとなるじゃない、それでね、ごろんの首の目が見るんだよ自分の体、つまり首がない、だって見ている首が体の首なんだから、首がない体をごろんの首が見るの、すごくない? でも、わかる気、しない? だってさ、ずっとさ、付いてるわけじゃない首は体に当たり前に、それがさ、急にすぱんとやられてさ、そのすぱんでさ、急にやっぱり目の前真っ暗になって消えるなんて、そっちの方が嘘っぽいじゃん、恐らくは、見るんだよね、やっぱり切られてすぐの首はさ、自分の首がない体をさ。どう、どうかな倉田さんはさあ」
 図書館の前で電話を受けたのもわたしだし、アユカちゃんのことを立松くんに話しておいて忘れていたのもわたしだし、アユカちゃんがなにも手伝わないのも、アランが死ぬのも、わたしが全部やったことだ。
「わかった。ごめんね、立松くん。ちゃんと悪いと思ってるからね。だからね、立松くん、もう帰らないと。わたしね、来月までに絵を完成させなくちゃいけないから」
 トイレに立って、戻って来ると入れ替わりみたいに席を立った立松くんが、会計を済ませて狭い出入り口を腰をかがめてくぐっていった。バッグのジッパーが、トイレを立つ前には閉まっていたのに、緩く開いているような気がした。
 わたしはアパートに帰って、壁にかけておいたキャンバスに向かい、絵の続きを描いた。描いても描いても、色が重なるだけだった。自分のせいで人が死ぬことは、こんなに苦しいものだったんだと思いながら、勝手に重なっていく色を、天井あたりに浮かんだ自分が、薄目で眺めていた。
 次の日、立松くんは店に来なかった。家賃を払いに銀行に行って、財布を開いたら十万円がそっくり無くなっていた。

 わたしは絵を描かなくてはならなかった。来月というのは、いつなのだろう。マッチは、どの地点からの来月と言っていたのだろう。そんなこともわからないまま、わたしは絵を描き続けた。電話が鳴って、立松くんの父親、つまりカフェのオーナーからで、立松くんはいなくなったけどアランを呼んだから明日店を再開する、ということを言った。立松くんがいなくなって一週間経っていて、わたしは部屋に籠もって絵を描き続けていた。
 次の日、カフェの裏口に行くとすでにアランが来ていて、わたしはアランに会えたのがうれしくて、いろいろ喋りながら鍵を開けて、アランは鍵を持っていないからオーナーが今日鍵を渡しに来ると言った。しばらく仕込み作業をしていて、背中の気配はアランのはそれと感じられないくらいになにもない。誰もいないみたいに作業をしていたら、アユカちゃんがやってきて、わたしはアユカちゃんにアランを紹介して、アユカちゃんはノートに、アラン、とメモを取った。アユカちゃんにブリゼという生地について説明していた時に、口では喋りながらも頭の中でわたしは、アランはそういえば病気ではなかったのかと思い出した。朝の仕込みが終わってアランが裏口から出ていくのが見えたので、わたしはブリゼの計量をアユカちゃんにお願いして外に出た。
 アランは入院どころか、病気にもなっていない、ずっと元気だったよ、と笑った。湿った笑い方が懐かしかった。立松くんとはフランスに帰ってから全然連絡と取っていない、とアランは立松くんがいなくなったことについてなんの考えもないみたいに言った。
 アユカちゃんは立松くんがいなくなってから、ディナーもカフェにいるようになった。賄いを食べ終わると、厨房の隅に事務所のパイプ椅子を出してアランと喋っていたりする。
 カフェが閉店すると、アランとアユカちゃんと飲みに行った。焼き鳥屋の二件隣にあるお好み焼き屋に入り、アランはお好み焼きが好きで、わたしとアユカちゃんの分も焼いてくれて、アランが焼いてくれたシーフードとチーズのお好み焼きは、表面がかりっとしていて中がふんわりしていてとてもおいしかった。
 アパートに帰るとわたしは絵を描く。キャンバスは狭い部屋の壁いっぱいに広がり、筆で昨日のせた色の上に、今日はこれと決めた色をのせていく。描いているのは、アランの猫が屋根の上で寝ているところの絵のはずだった。そこには色があった。猫の毛の淡いクリーム色、屋根の臙脂色、真っ青な空に浮かぶ白い雲、建物の影の黒とその濃淡の灰色。なのに、今、目の前にある絵は、まったく別のものになっていた。わたしはなにを描いているのだろう。猫も屋根も空もない。毎日こつこつ描いていた。これと決めた色をのせていたはずだった。重なっていく色は、何層になっても、どこにも辿り着かないようだった。きっと最初からやり直さないといけないとわかっていたけれど、もう無理なのだった。毎日絵を描く。それだけが決まっていることだった。

ここから先は

7,362字

¥ 100

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?