ちょっとずつやろう
丸山圭三郎『生の円環運動』の162ページから163ページ。
「演劇の所作や、音楽、絵画、彫刻もまた一つの言葉なのだ。見るたびに、聞くたびに、その都度新しい意味を与えられ与え返す〝体験の一回性〟は、単に芸術作品との出会いという特権的状況に限られない。さりげない日常会話においてさえ、伝達する意味とは無関係に、あるときは人の言葉のイントネーションに感動し、あるときはそれによって深く傷ついてしまう。私たちは、怒りを赤い顔で表わしているのではなく、赤い顔そのものが怒りであるのと同様に、そこには表現と内容を切り離すことのできない、いわば身振りとしての言葉がある。」(〝〟内は、本文では傍点が振られていたのだけど、傍点の振り方がわかりませんでした)
生まれてきてから教育されて、思い込んでいることは、合っていることもあるのかもしれないけど、ほとんど間違っているのではないか、とまず疑う。
疑いながら、生活も書くことも、一気に変えようとすると疲れるし無理なので、一足飛びでなく、毎日、少しずつやる。
娘がよく学校に宿題で使うノートを忘れたり、算数の宿題ができないと、焦ってわーわー泣いて、昨日もそうで、そうするとわたしは、落ち着いてゆっくりやろう、と言うんだけど、その言葉はきっと、自分にこそかけなくてはいけない。娘が泣いても、焦らないこと。ゆっくり、落ち着いて、大丈夫だから。
小説や詩を書くのだって、焦らなくていい。ゆっくりやろう、大丈夫だから。
缶のコーンスープの、底に残っている一粒を、なんとか取り出そうとする、食い意地と、執念深さは、捨てずに。
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