禁秘の楽園<JINMO Eden>
1. 事実認識と唯一神
エデン(Eden)の園の中央には、神によって植えられた二本の樹があるとされ、その木のひとつは「生命の樹」、もうひとつは「善悪を知る木」と呼ばれる。
神によって造られた人間の祖先であるアダムとイブは、「善悪を知る木からは取って食べてはならない。取って食べると、きっと死ぬであろう」と神に言われていたにも関わらず、その「木の実」を食べたことによって、エデンの園から追放された。
これは、ユダヤ教やキリスト教に限らず広く知られている物語ではあるが、不思議なことに「善悪」とは何か?という点について、旧約聖書の創世記では明らかにされていない。
しかしながら、アダムとイヴが「善悪を知る木の実」を食べるまでの経緯から、「善」と「悪」の様相を垣間見ることができる。
創世記第三章に描かれている経緯はおおよそ以下の通りとなる。
まず、ヘビがアダムとイヴに木の実を「食べても死なない」という事実を伝え、その事実から、イヴはアダムと共に食べようと判断し、彼らは木の実を食べた。
次に、アダムとイブが「恥じらい」を知った(見せた)ため、神が彼らの変化に気づいて指摘したところ、アダムは食べたことをイヴの責任とし、イヴは蛇の責任とした。
そして、アダムとイブは、神によって裁かれエデンの園から追放された。
以上より、奇妙な関係性が浮かび上がってくる。それは、ヘビは事実を伝えただけなのに、神によって裁かれた、と言う点である。
つまり、ヘビという「賢き他者」から事実を伝えられることは、神にとって「よくない」ことなのだ。
その上、ヘビが事実を伝えているのであるから、神は自らの都合によって嘘をついていた、という事になる。
それでは、なぜアダムとイヴは「善悪を知る木の実」を食べることによって、エデンの園から追放されなければならなかったのだろうか。
そもそもエデンの園とは、何だったのだろうか。
2. 善悪二元論
善悪を二元論として扱う場合、必然的に善と対立するものとしての悪が現れる。
もし、人間は善悪二元論によって思考することを余儀なくされた場合、自らを善として考え、対立する者を悪と考える、これは自己保存の観点からも極めて自然な反応である。
しかし、善悪という極端な判断を行い続けてしまうと、そもそも自分以外は全て他者であるため、必然的に「悪」が増え続けることになる。
二元論は、ある物事を二択によって判断するものであり、とても理解しやすいシンプルな考えではあると同時に、物事の差異を見つけることに特化しやすい。
旧約聖書の物語においても、アダムとイヴが「恥じらい」を覚えたのは、「裸」における男女の「差異」を理解した事であり、同時に性と欲の差異、嘘と正直の差異も分かるようになった、という示唆であろう。
また、自分を善として、条件がほとんど変わらない他人を悪とするためには、「自分が悪くない理由」を探すために、差異を見つけなければならない。
そのため、アダムとイヴは、善悪の木の実を自らの意志で食べたのではなく、ヘビに「食べるように仕向けられた」とアダムとイヴは答えたのだ。
つまり、「たとえ悪を行ってしまったとしても、それは自分が悪いのではない」と考え、善悪二元論的に神の問いに反応したのだと読み取れる。
端的に言うなれば、「善悪」を知ることによって、他責にする事を覚えてしまったのだ。
このように唯一神を中心とする宗教は、自らの神を絶対的にしてしまうため、他の宗教を排斥する要素を持ってしまう。
そのため、ユダヤ教を中心とする一神教は、旧約聖書の出エジプト記からも類推できるように、多神教を信仰する集団から虐げられた人々が、彼らを否定し反抗するために作られた、という可能性も考えられようが、ここでは深く追及することはしない。
そして、創世記第三章の終盤において、神が「善悪の木の実」を食べたアダムとイヴを「我々ひとりのようになった」と言ったと書かれている。
この「我々」という表現については、もともとヘブライ語においても複数形であり、三位一体であるとか、「朕」や「余」など王様が使うweと同じような意味であるとか、天使を含むためであるなど、諸説ある。
しかし、言葉の上から理解できるのは、「神の領域」にいるものは神だけではない、という事だ。
その後、神(たち)は、アダム(とイヴ)が「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」と判断し、エデンの園から追放する。
この一節は、人が神と違って不死ではない事を表す寓話とも考えられるが、仮に人が永久に生きることになったたとして、なぜエデンの園から追放されなければならないのか。
人が神と同じであっては、なぜ不都合なのであろうか。
3. 永遠の生と知
かくして、アダムとイヴが追放されたエデン(Eden)とは、もともとヘブライ語では「楽しい」、アッカド語では「園」、シュメール語では「平野」という意味であったが、神の断罪によって、楽園や理想郷としてその名前を残すこととなった。
すると、逆説的に浮かび上がるのは、神が禁止されたことは、須く「楽しい」こと、または「神の領域」に近づくための方法であり、それが「エデン」にあったのではないか、ということだ。
つまり、言い換えるならは、「永遠性」に関する秘密のようなものが、「エデン」にはあったのではないだろうか。
「永久に生きる」こと、これを追及する行為は太古の昔からあり、不老不死を求めようとする神話や寓話、歴史上の偉人たちを並べ立てるだけでも、枚挙に暇がない。
一方で、不老不死を求めることは即ち身を滅ぼすのも事実であり、例えば不死を求めた例として代表的に語られる始皇帝においても、不死の薬として猛毒である水銀の摂取を行なったという逸話がある。
日本においても八百比丘尼など、期せずして不老不死になったことによって孤独の絶えざる哀しみを受けるとする寓話もあり、類型と考えられる物語も世界中で様々な形で語られてきた。
以上のように、不老不死が実在することによって、結果的に人に悪影響を及ぼすと、古くから語り継がれているのは事実だ。
そのため、古来より、不老不死とは達成不可能でありながら求めたくなるものとして、「至高性」というイメージへと帰結し、神と重ね合わせられたのかもしれない。
すると、旧約聖書の神は、不老不死になることよって人が不幸になることを予見して、人をエデンから追放したのであろうか。
そのように考えることで、いささか倒錯的な神の愛を感じとることもできようが、そもそも事実認識を善としない神に真の愛があるのかは、疑わしい。
むしろ「エデン」の秘匿性を考える場合に問題とすべきなのは、蛇の方ではないだろうか。
4. 蛇という第三者
エデンの園に登場する蛇は、後世においてサタンやルシファーであるというような意味がつけられたが、そもそも聖書における蛇は、「蛇」という意味でしかなかった。
蛇は様々な宗教や文化において、永遠性の象徴として描かれている。
脱皮によって成長するさまや、長期の飢餓状態にも耐えうる生命力、その血は強精薬となり、また男根の形状とも重なることもあり、北欧神話のミドガズルオウム、ヒンドゥー教の世界を囲む龍や、己の尻尾を食べて永遠の死と再生を繰り返すウロボロスなど、様々な「永遠性(循環性)」を持つ類型イメージが世界に存在する。
このような蛇の存在は、エデンの園においても、アダムとイブと同等の「もう一つの存在」、つまり「第三者」として描かれる。
第三者の存在は、事実を知るための最も重要な存在である。
サルトルの『嘔吐』を持ち出すまでもなく、第三者の存在によって浮き彫りになるのは、事実の出現である。
他者が現れることによって、事実(現実)を明確にせざるを得なくなり、己の嘘や偽り、曲解や偏屈、傲慢や自己欺瞞までも、現れ出る。
言い換えるならば、「第三者」の存在は、真実が暴きだされる契機となるのだ。
そして、これは意思疎通の根本的問題にも通底する。
人はコミュニケーションを行う際、主観によって他者と他者の意を知ろうとする。そして、いかに客観視に努めようとも、主観から完全に離れることはできない。
そのため、このコミュニケーションを成り立たせるには、まず「他に対する承認」がなければ成立しない。
もちろん、「他に対する承認」には、物理的なものや、生理的なもの、同属的なもの、一般的なものと、様々な種類や段階を想定することができる。
これら全てを分析するには冗長になるためここでは触れないが、近しい人間同士である場合、コミュニケーションにおいて「相手に対する承認はすでに行われている」という前提に立ちやすいため、必ずしも事実を必要としないことがある。
近親者同士のコミュニケーションにおいて重要なのは、事実よりも事実の「事実らしさ」であり、感情や意志そのものである。
例えば、太陽を月と言おうが、空を海と言おうが、近親者二人のあいだで各々の意志や意図さえ伝われば、コミュニケーションが成り立つし、むしろ言葉すら必要ないこともしばしばある。
しかし、ここに第三者が現れることで、「事実らしさ」だけでは通用しなくなる。つまり、共通了解のためのルールが必要になる。
例えば、第三者に対して事前のルールを設けずに、月の見えない場所において、月のことを「天石」とか「C」と言ったり、独特なジェスチャーや目配せだけで理解させることは難しい。
そのため、第三者に対しては、近親者のみが分かる指示語的意味だけではなく、一定のルールを持った言語の発生が必要になる。
つまり、第三者の存在によって「法」というものが生まれざるを得なくなる。
まさに「法」こそが「言語」の原点なのであるのだ。
これは、新約聖書のヨハネ福音書にある「はじめに言葉ありき」という言葉と同じである。
ラテン語の表記においても、「アルケーはロゴス(Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος)」(根源的原理として言語的論理があった)とあり、「言葉が法である」と文字通り明言している。
このように、言語は伝えるために作られるが故に、そのうちに法を持たざるを得なくなる。
そして、言葉は法によって作られるが故に、必ずその法によって制限される。
キリスト教では、ユダヤ教のように神をめぐる契約や律法ではなく、「言語が法」であることを改めて提示した事によって、ユダヤ教の超克となり、新約聖書というキリストの物語をそのまま「法」として体系化することができたのだろう。
また、第三者として事実を知らしめる「第三者の」存在としてのキリスト、そして三位一体という絶対性を避ける神の概念によって、コミュニケーションと「法」に柔軟さをもたらし、解釈の汎用性をも高めたとも考えられよう。
5. And Eden is…
ここで、もう少し第三者という性質について検討し、エデンの「秘匿性」に舞い戻ってみたい。
第三者という「事実を知らしめる存在」、例えば旧約聖書の蛇などは、なぜ「永遠性」を持つように物語や芸術において記述されることが多いか、という点だ。
これは、生命が原初から行ってきた他性への「反応」の連鎖が根拠となっている、と考える事ができるのではないだろうか。
コミュニケーションの原初において、生命は外からもたらされたエネルギーに対しての反応(リアクション)を行う。
生命の存在とは、世界からもたらされるエネルギーによる反応であり、結果的に、「生」という、一定の環境における循環的な営みが導き出される。
生という営みは、生命の情報体である遺伝子においても顕著であり、RNA単体のウイルスから、複雑な哺乳類に至るまで、すべからく外界から与えられるエネルギーに対して取捨選択を行い、自己保存と継続という「挑戦」を繰り返してきた。
このように、外的エネルギーに対するリアクションによって成り立つ生命という力学は、エネルギーというベクトルを外から得て、生きるというベクトルを外へと向けることで、自身そのものを循環的に創り変え続けてきた。
これは、コミュニケーションの構造としても同様である。
あちらからやってくる相手の意志というベクトルを感じ、自らの反応における言語的なベクトルを整え、相互において共通了解的な言語的ゲームを循環的に行う、という構造である。
そして、このような循環的行為の連続のうちに、未知や未来という、新たな事実が渦巻く「世界」の中へと不断に投げ入れられることとなり、我々は自らの選択によって、自己を投企し生を刷新し続けるしかない。
このようにして、第三者によって、私たちは生命の「永遠性」を体現する契機すら与えられるのである。
以上のように「永遠性」とは、以上のように、常に事実へと立ち向かう生命そのものが持つ「美しき連鎖」にほかならない。
一方で、二元論的思考は、差異に特化するにあまり、循環性を停止させ、己の「場所」に止まらせることで、個体や集団の衰退や劣化を導く。
つまり、最悪、種の絶滅へとつながる思考方法でもあるのだ。
そして、生命の循環のみならず、コミュニケーションの循環性を失ったものは、終わることのない差異、言い換えるならば、底無しの懐疑と知識の沼へと沈み込むほかないだろう。
善悪のみで判断される世界には、もはやエデンはないのだ。
であるならば、エデンからの追放、つまり「失楽園」とは、唯一の神を想定することによる他の排斥を受け入れざるを得なかった、彼ら悲しき離散者(Diaspora)たちの物語でしかない。
そして、逆説的ではあれど、理想郷とされたエデンは、我々が歩んできた壮大な生命のストーリーとして、常に我々の目の前に姿を現している。
我々は、ただそこに「エデン」があると、気づかなければならないのだ。
(おわり)
【注:本作品は、あくまでJINMO氏の作品群への寄稿文であり、彼や彼の作品そのものと直接関係するのではありません。同じ主題を扱った全くの別の作品であり、下記JINMO氏の音作品群を楽しむためにあるものです、ご了承ください。】
<以下、上記リンクより引用>
Eden (ver.5.0)
2006/03/01 リリース(avantattaque-0001)
2016/12/6 Last Update
全19曲 (total. 2:05:00)
フォーマット:Apple ロスレス (44.1kHz 16bit)
ウェブ・ストリーミング版
ジャケット・デザイン:HARI
Created by : JINMO
Published by : Avant-attaque