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歴史の闇と、『もののけ姫』。(上)

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。

 さて、前回の『紅の豚』から引き続き、いよいよ『もののけ姫』(1997)です。

 ジブリを食い潰すとまで言われた調査と研究と予算(21億円)を当て込み、構想16年、制作に3年をかけ、結果、圧倒的な興行収入(当時の日本映画史上、歴代4位193億円)を叩き出した、えげつない作品ですね。

 当時、中学の時、友人が「サンに惚れた」とか言って15回ぐらい見に行ってました。

 かの友人が、今いったい何をしているかは知りません。笑

 かく言う私も、『もののけ姫』の奥深さに魅せられて、どっぷりとハマった人間で、チラ見を含めれば100回以上は観ていると思います。

 そのため、とてつもなく長くなりますので、上中下に分けさせていただきます、ご了承ください。

 本作品、駿監督自身も『もののけ姫』の製作にあたって、ジブリスタッフだけでなく、作曲家の久石譲や、コピライターの糸井重里なども深く巻き込んで、それこそ思いの丈を世に問うた作品でもあります。

 本作品が作られた1990年代は、いわゆるバブル崩壊後、日本の『大きな物語』が終焉し、「失われた10年」とまで言われた時代です。

 『大きな物語』は、もともと哲学者J.F.リオタールの言葉ですが、要は、もともと知識人や政治家、科学者などが作り上げた「正当性」というものが、ある社会を絶対的なストーリーとして覆っていた、みたいな意味です。

 そして、その「大きな物語が終焉した」(または神が死んだ)ことから「小さな物語」という、それぞれの「良さ」や「その場における正しさ」を探るという、ある意味では相対主義的な「ポストモダン」が生まれていったんです。

 しかしながら、1990年代、日本においては、大災害として阪神大震災もあり、不登校や引きこもり問題、学力低下、自殺者の急増、住宅郊外化の進展、オウム真理教のサリン事件、オヤジ狩りや、援交など、まさに「大きな物語」の反動としての社会問題が溢れていった時代でもありました。

 そんな時代の真っ只中で、宮崎駿監督が何を世に問うたのか、それは『もののけ姫』のキャッチコピーに現されていると思います。

 『生きろ。』

 この「生きろ。」というのは、単なる命令形の言葉ではありません。

 日本の歴史をひっくり返す勢いで、この国に生きてきた人たちが、いかに生きてきたかを本気で表現しています。

 なぜなら、『もののけ姫』は社会に捨てられた者たちの物語だからです。

 思いっきりネタバレするので、もしご覧になってない場合は、ご注意ください。

 まずは、大筋から解説していきます。

1. あらすじとメッセージ

 まず、主人公のアシタカですが、村を出たのではなく、村を追い出された、という方が正しいです。

 映画の描写にもありますが、アシタカの村は、そもそも「限界集落」となっています。

 長老の部屋にいた若者はアシタカぐらいだし、しかも彼はタタリガミの呪いによって死ぬ運命にあります。

 村を出るのにも、おおやけにならないよう夜に出ているし、餞別もない。

 また、許嫁であるはずのカヤが、掟を破って見送っているし、大切なアイヌ民族の結婚アイテムの一つである玉の小刀(マキリ)を渡している。

 要は二度と帰ってくるな、ってことですね。

 彼が受けたのは「死に到る呪い」であり、どう考えても帰ってこれる訳がないんだから、死んだものとされてるわけです。

 村を出る時に、ヤックルに乗れて行けたのは、せめてもの情けだったことでしょう。

 アシタカが「いつもカヤの事を想おう」って言ったのは、かなり重い言葉なんです。

 アシタカは、まさに村から捨てられたんですね。

 そして、彼がたどり着いたのも、タタラ場という特殊な空間です。

 エボシ御前という女性のトップを中心に、捨てられた人々で構成されています。

 捨てられた人々は、エボシの館にいる、ハンセン病患者だけではありません。牛飼いも、かつては賎民の一種として扱われた身分の低い男たちでした。

 そして、エボシが拾ってくるという捨てられた/売られた子は、口減らしや身売りの対象となった人たち。

 山犬と共に暮らすサンも、彼女の母親が命おしさに大犬のモロに投げてよこした赤子であるため、文字通り捨てられたわけです。

 つまり、『もののけ姫』で活躍するほとんどの人間が、社会から排除された人々なんです。

 それでも彼らは必死に生きている。

 また一方で、『もののけ姫』に出てくる獣(シシ)たちもまた、社会から排除された民族や神々を模しています。

 イノシシの長であるオッコトヌシが自らの「一族」を見ながら語った「どんどん小さくバカになりつつある」という言葉も、とても示唆的です。

 そして、ケモノ達の神である「シシガミ」ですら、不老長寿の薬、つまり「モノ」として人間に狙われることになる。

 そして、「神殺し」の争いが起こるわけです。

 人とシシの争いのシーンで、イノシシたちは、例え鼻が効かなくなり、目が見えなくなろうと、己の「プライド」のために前進し続ける。

 人間たちは、「目先の利益」のためだけに彼らを殺し、シシガミを殺そうとする。

 そして、ただただ累々たる死体ばかりが積み上がっていく。

 これはまるで、現代の内紛のようです。

 結果、シシガミは、ダイダラボッチになろうとするところを殺されてしまい、命を食い尽くす巨大な化け物となって、森すらも飲み込んでいく。

 これほど重い意味として「神は死んだ」ということを表現した作品は、他になかったのではないか、そう思います。

 「もう終わりだ何もかも」と嘆くサンに「私たちがまだ生きているのだから」と叫ぶアシタカ。

 そうです、彼は例え自身が死ぬ運命であっても、最初から最後まで他者に「生きろ」「死ぬな」と言い続けているんです。

 その上、最後の最後までシシガミの首を取り戻すために奮闘し、可能な限り人を死なぬように働き続けるんです。

 そして、シシガミに首を返したのち、アシタカは呪いもなくなり、こう言います。

 「シシガミ様は死にはしないよ。生命そのものだから...生と死とふたつとも持っているもの...わたしに生きろと言ってくれた」

 この言葉を噛み締めるたびに、情けなくて有難くて毎回泣けてきます。

 いかに私たちは生きることと死ぬことを、まるで他人事のように考えているのでしょうか。

 私たちの内にある「命」そのものは、ずっと「生きろ」と言い続けているだけなのに、やれ欲望だとか利益だとか時間だとか、そんな関心ごとにばかり気を取られてしまう。

 「くもりない眼で物事を見定めて、決める」こんなことすら満足にできていない、自分は情けない。

 そもそも他の生命を奪いながら生きることしかできないのに、他を生かそうとすることをいとも簡単に忘れてしまう。

 私たちは、生命の循環から、かくも簡単に外れてしまうのです。

 だからこそ、「バカには勝てない」、そうです、生命というものと真剣に見つめあえば、バカにしかなれない。

 学べば学ぶほど無知であると知り、行動すればするほど無垢にならざるを得ないのですから。

 もし、そうなれなかったとしてもいいんです、だって映画のメッセージはたった一つ。

 「生きろ。」

 なのですから。

 もう20年も前のメッセージですが、今でも深く心に刺さります。

(つづく)


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