友人、彼方よりの存在(1)<JINMO for my new friends Vol.1>
0. 序
友人というものは、知ろうとしてあるのではなく、つねに知らされるものとしてある。
友人の定義は、人生において非常に重要なテーマであるため、会話や相談として話題に登ることは多いが、さほど詳細に検討されることがない。
それは友人という存在が、「各々にとって良さを持つ」うちの一人、というような相対主義的に現れる存在として、誤解されるのも要因であろう。
確かに、友人とは個別な関係性であるため、とある友人や友人関係そのものを一般化することはできない。
しかしながら、友人とは「関係性そのもの」を表す言葉であるため、普遍性を持つ、人間関係における本質のひとつの「あらわれ」と考えることができる。
かつて、アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』において、友人(philos)との関係性における存在論的なカテゴリー論を展開していた。
しかし、アリストレテスの理論は、関係性における「よさ」を上、中、下など段階的に分類するようなところがあり、友人という存在の現れ方については参考となるが、友人という概念の検討としては、不十分であった。
また一般的な論説においても、友人という概念は、認識論的な解釈に晒されるばかりで、なかなかその本質を詳しく語られることがないままであるように見える。
そのため、ここでは友人の本質を、友人という関係性や契機を詳らかにしていくことで、友人という意味のうちに潜む原理的な構造を解明したいと思う。
1. 歴史性と環境
友人の関係性は、すなわち個々人の歴史性や環境に基づく。
言うまでもないことだが、歴史性や環境が全く関係しない友人は存在することができず、またお互いの歴史性や環境において、一切共通項を持たない場合において、友人という関係性は築くことができない。
そのため、友人関係の確立には、ある歴史性や環境についての「共通性」と、共通性のある範疇に対する「アクセシビリティ(accecibility)」が大きく影響することが分かる。
そもそも、歴史性や環境的影響そのものは、個別的である上に、決定的な範疇として仕切ることはできないため、検討し切ることはできない。
しかし、共通性とアクセシビリティは、個々人の「志向性」に依拠して想定され、また判断されるため、「志向の相関性」からその内にある真理性を読み取ることができる。
ただし、志向性については様々な哲学的解釈があるため、ここにおける志向性について一度、定義しておきたい。
人は、生きるために、それぞれに欠乏や欲望を持たざるをえないため、外界からの反射や反応、また、自身による行動や行為という「表出」がある。
これら「表出」と連関する欠乏と欲望は、そのものとしては複雑に入り組んでいるが、必ず何らかの方向性を持っているため、この表出を「志向性」と呼ぶことができる。
もちろん、「志向性」そのものは欲望や欠乏と必ずしも合致しているわけではなく、またもし直接的に関係していても。無意識的な反応として現れる場合もある。
人の意識は、P・ヴァレリーが「錯綜体(Impex)」と呼んだように、混然一体となっているが、現象として表出があれば、必ずそこに方向性(direction)が現れるがために、志向性と呼べる。(無論、全く現れないものは、考察することも不可能である。)
なお、志向性として、現在確認されている物質の最小単位である素粒子においても「志向性」は確認できることからも、このような普遍性の高い方向性を持つ原理を根底に据えることで、様々な考察に有効となる。
この「志向性」は人間(のみならず存在)において常に「表出」したものとして現れるため、一定の範疇(ハイデガーが言ったような「世界」)を想定した場合、各々の存在が放つ「志向性」は、奇しくも相互的な反応を繰り返すことがある。
(例えば、科学的な融合や、化合物、促進反応などような物質的なものから、恋や愛、嫉妬に名誉など人間的な物語まで。)
このような多岐にわたる反応の結果から、科学的には「同一性」や「反応しやすさ」、「親和性」などの言葉で表せられたりする。これは、上記した一定の範疇における、共通性や、アクセシビリティとして認識可能なものとしてある。
もちろん、一定の範疇という「世界」は、「概念」であるが故に、共通了解的にその範疇をおおよそ承認することはできても、その範囲を完全に規定することはできない。
また、言うまでもなく人間の存在も、いかなるものが根底にあるかと確実に問うことはできない。
よって、友人においても同様に、どこまでが友人であり、どこまでが友人ではないと言うのは最終的な個々人の判断によるものであるため、確実に問うことはできない。
そのため、この判断を問うのではなく、判断へと導かれるための、アクセシビリティや共通性などの「構造」があるという論証を繰り返すことによって、反応や反射として現れる「志向の相関性」を解明し、なおかつ志向性の奥にある存在自体が明らかにできなくとも、その存在の契機となる構造を露わにすることができる。
そして、このような論理学的手法によって、友人という関係性から、意味と契機、そして、そこに潜む「構造」もまた同じく解明されうるのである。
2. 前提条件としての概念
さて、再び「友人」について考えを進めたいと思う。
まず、先述した共通性やアクセシビリティは、例えば単細胞生物などにおいても当たり前にように発生するため、これだけでは友人という定義には程遠い。
そのため、友人の発生においては、一定の複雑性に依拠した、階層的体系を持つ範疇が必要となると考えられる。
というのも、「志向の相関性」における図式がシンプルであればあるほど(例えば化学式など)、親和性や反応は純化していくが、複雑性を持ちづらいが故に、包括的現象による相関性として、人間の関係性に適用することが難しい。
言い換えるならば、法則、定理などの原則性から零れ落ちるものを含まなければ、それは現象を記述することとは異なるため、本質性を欠く。(重力方程式だけでは、重力の本質までは記述しえないように。)
そこで、複雑性を内包する「文化」という現象に注目しつつ解明を進めてみたい。
「文化」という概念を鑑みた場合、一定の環境において「方法的に生理的欲求を満たすことが可能であると言う確信とその可能性」を持つことが、その言葉のうちに前提条件としてある。
ただし、この前提条件を検討する前に、改めて概念について詳らかにしておきたい。
そもそも、「文化」を含め、一般的に構造や体型をその内に持つ「概念」は、意味としての多様性を包括しながら、つねに複数の多様性を省いた言葉として、現れざるを得ない。
このような概念の構造や特色は、ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの「リゾーム」や「プラトー」(『アンチ・オディプス』『千のプラトー』)などの言葉にも垣間見ることができ、「文化」という言葉においても同じように適用できる。
そのため、「文化」うちにある「友人」の概念も同様に、「リゾーム」や「プラトー」のような構造をそのうちに持つとも言えるが、それは、あくまで「現れ」として確認できる多様性を内包した「状態」であり、「友人」の本質的な構造ではなく、もちろん友人の原理を表すものでもない。
ただし、共通了解とも言える「言語的意味としての普遍性(言うなれば、概念のプラトー)」から、逆説的に構造を紐解くことで、一般的な複合的意味を内包する「概念」の、また友人の原理構造も詳らかにするとはできる。
というのは、「概念」としてある言葉は、そのものが多様性を含むがゆえに、その言葉が関係する多様性の帰納として存在しながら、推論されるものとして、自ずから言語的な「普遍性」となり、同時に解釈されるものとして、その意味を覆され続ける事になる。
言い換えれば、そこにある概念が生成される「ある環境(または文化)」において、その環境にある存在たちからの(リゾーム的な)志向性によって、概念はその意味を言語ゲーム的に規定され続けると、同時に失わせ続けられる。
例えば、神という言葉の概念が、その文化に依拠しながら常に使用者によって、破壊され再生されるのと同じである。
これは、概念そのものが決して定義として定立し続けられないことの理由であり、また、文化が見せる様々な発展の源泉となる要素でもある。
また、一定の文化における「友人」の概念も同様に、ありとあらゆる存在からの志向性によって、意味を不断なく変換し続けさせられる。
このように、複合的意味を持たざるを得ない概念は、意味の唯一性を持つことが難しいため、例えば現象学的方法である本質観取を行うことによって、共通了解を得ること、もしくは、一定の意味として留め置き、共通了解を目指しつつある言葉としておくことで、形而上的に一端の帰結を得ることができる。
このような形而上学的帰結は、その有効性こそ重視されるが故に、冒頭に提示したアリストテレスの『ニコマコス倫理学』における友人の存在論も未だに有効性や「正しさ」を持つし、重視される。
また、概念としてある言葉は、言語ゲームとしての意味の変換性や再構築可能性も有効性があるゆえに、実際的にも詩的にも「友人」という概念は正しさを持ち、そして様々な定義や定理や表現や芸術として表現される友人も、やはり「正しさ」を持つ事になる。
また別の論理として、いわゆるハイデガーを筆頭とするような存在論や、仏教による空観などによって暫定的な存在として規定することで、意味を措定せず、志向性の奥にある真実性として、現象的に留めておくことで、「友人」としての存在性を「正しく」証明することも可能である。
以上の「正しさ」も、それぞれが概念であるが故に、ことあるごとに破壊され再生され続ける事になるが、概念のうちでありとあらゆる存在に通底している、限りなく絶対性に近い「志向性」を現象学的に留め置き、その志向の相関性によって成り立つ意味の構造を捉えることで、限りなく普遍性に近づくことができる。
哲学におけるドイツ観念論は、この手法とほぼ同じく概念の普遍性を目指したものであり、「全能」という絶対的志向性としての「神」を想定した事によって、より徹底した思考を展開することができた。
現代、神という概念は、一般的には通用しないと考えられるようになったが、「神」という概念とその完璧さという、無限に未到なる不確定性は、内在し外来し常にそこにある「志向性」と、把握される構造が同じであるがゆえに、神を主軸にして展開したドイツ観念論の論理も、今だに哲学として、それ相当の効力や説得力を持つのである。
そして、以上の手法のうち、(「友人」などの)概念や概念そのものの契機と原理の解明には至るには、現象学と観念論の統合として、志向性に依拠した論理を展開し、その上で、帰謬法によって否定可能性を検討することで、概念の原理構造を顕わにすることができる。
さて、それでは上記を鑑みた上で、改めて「友人」を成り立たせる構造を紐解いていきたい。
(つづく)
【注:本作品は、あくまでJINMO氏の作品群への寄稿文であり、彼や彼の作品そのものと直接関係するのではありません。同じ主題を扱った全くの別の作品であり、下記JINMO氏の音作品群を楽しむためにあるものです、ご了承ください。】
JINMO +++ For my new friends Vol.1 (ver.5.0) +++
<以下、上記リンクより引用>
For my new friends Vol.1 (ver.5.0)
2006/03/01 リリース(avantattaque-0003)
2016/12/6 Last Update
全12曲 (total. 1:08:28)
フォーマット:Apple ロスレス (44.1kHz 16bit)
ウェブ・ストリーミング版
ジャケット・デザイン:HARI
Created by : JINMO
Published by : Avant-attaqu