書く理由
なぜnoteを始めたのだろう。
脈絡もコンセプトも無く、日記とすら呼べないような事をつらつらと、
誰に向かって、何のために書いてるんだろう?
お正月、#note書き初め の記事を書いている時に、ふと頭をかすめた。
とにかくこれを発信したい!とか、アウトプットしなくては、という強い思いがある訳ではなく、何か特別な体験をシェアする訳でも、知識を披露する訳でもなく、もちろん仕事とは関係なく。。。隙間時間の中でこうして画面と向き合っているのは、いったい何故なんだろう。
若かりし10代の頃、日記を書いていた時期があった。
20代も半ばを過ぎ、結婚相手と住むため荷物を整理していた時に出てきたそれは、当時の私にはとても恥ずかしいものに思えて、全部目を通した後にバラバラに割いて処分した。今思うとずいぶん勿体無いことをしたものだ。
もし日記を読んだのが今の私だったら、きっともう恥ずかしいとは思わないだろう。恥ずかしいどころか懐かしさで胸がいっぱいになるに違いない。
10代の、まだ尖ってて真っ直ぐで青い私がそこにいる。
ああこんなことがあった、こんなこと考えてたな・・・と、もう自分であって自分でないような、でも紛れもない自身に再び出逢いそこから目が離せなくなるだろう。服を剥がされ裸にされたような感覚に陥りながらも、一気に読み返すに違いない。
思えば当時は書くことで自分と向き合った。
何を感じているのか何がしたいのか、何が好きなのか嫌なのか。
10代の私はそんなことを書き進めながら、自分とは『こういうもの』だと、
定義していたのかもしれない。
時が経って今の私はどうだろう。
頭の中は今日の晩御飯のことや家計のやりくり、仕事のこと、週末の息子の試合やPTA提出物の期限、夜中に読んだ本のことからちょっとした思いつき、長年の構想まで・・・ありとあらゆる雑多なことが入り乱れ、混沌としている。
当然、時系列的に速やかに処理しなくてはならない事が優先され、ふわふわと宙に浮かんでいる取り留めのない思考は後回しにされ、放置され、
その挙句にいつの間にか消えていたりする。
そうなのだ。私はきっと書くことで、ふわふわ浮いてるいろんな事柄を捕まえようとしている。ただ捕まえておくだけで何かの役に立つわけではないかもしれないけれど。それでも、消えてしまわないように。私という人間の中にとにかく留めておけるように。
そしてまとまらない思考や、どう表現したらいいかわからない感情を文字にして視覚化することで、自分自身に何かを問うている。それが絵画でも音楽でもいいのだろうが、私の場合はきっと言葉なのだろう。音楽を聴いて音に没入したいという衝動とはまた別の、何か抗い難い衝動。
自分で紡いでいるはずの言葉に驚いたりハッとしたりするたびに、言葉にならない何かを言葉に「翻訳」していることを自覚する。翻訳して初めて自分の気持ちに気づくことも度々で、そうやって自分で自分をコーチングしているような。もう誰も私をコーチしてくれないから(笑)自分でやるしかないんだろうな。四方八方に好き勝手に広がる言葉にできない思考や感情の数々を何とか見える形に落とし込み、
消化したり昇華したりしているのだ、きっと。
今まさに書きながらこのような結論に辿り着いた。消化や昇華。そう考えると、有り余るとはいえない時間の中でこうして真っ白な画面に向き合っているのも納得がいく。
「書きたい」という衝動は喉が渇いて水を飲みたい衝動にも似て、本来なら「今」「ここ」で書きたい、捕まえたい。後でね、なんて言ってたら、そこここに浮いている思考のたねは容赦なくするりと逃げていき、取り残された私は同じものがいつとも無く再び現れる偶然を待つしかなくなってしまう。でも今の私は悲しいかな「ぽっ」と浮かんだことや「あ!」と思った事をその場で書き始められる環境にないんだな。なのでこうして仕事や家事の隙間時間にぽつぽつと書き綴っている。
そうか。きっとそういう訳で、今もこうして私は書いている。
お正月に捕まえそこなった思考のたねを、ようやく今捕まえた。