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愛猫を送る
実家の猫が、天国へ行ってしまった。
南米の砂漠への旅行からの帰り道。15時間のフライト。旅行気分はぜんぜん抜けていなくて、成田さむっ、なんて言いながら、東京の空には馴染まないボリビア産の原色のポンチョを体に巻き付けた。
タラップを降りて廊下へ足を踏み出した。飛行機に長時間乗っていたから、普段痛くならないあちこちが痛い。磨き込まれた廊下の無機質な灰色が、塩やら砂漠やらで元の色が想像できないくらい汚れたスニーカーには不釣り合いだなと思った。そのミスマッチが網膜に南米の黄土色の地面をよぎらせた。
ポケットが揺れた。
時間でも見ようと取り出したスマホはあの場所で見たまま薄汚れているのに、南米ではありえないほど即座に入った電波は急速に私を日本の時間に連れていく。瞬きの合間にどどっ、と増え続けるLINEの通知が目に入った。
「ママ:間に合うことを祈ってる。。。」
間に合う。何に。どう考えても嫌な予感がする手でトーク画面を開く。実家の母からの大量の着信履歴とメッセージに、あ、これはまずい。と、蓋をしていた思考がこじ開けられた。多分、スクロールする指先は震えていた。
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実家の猫は、今年推定18歳になる。立派な老猫だ。私が8歳の頃に山で拾って、そこからずっと飼っているので、もう16年の付き合いだった。19歳で実家を出てからも、よく顔を見にいっていた。拾った天城山にちなんで「天(てん)」と呼ばれ、真っ白な体に、ハチワレの頭としっぽの先だけが上品な灰色のコントラスト。丸顔丸目に丸いわがままボディのポップな外見とは裏腹に、生来穏やかな性格でいつも眠そうにしていた。
おっとりと人懐っこくいつも家族の輪の真ん中にいる猫は、態度の鷹揚さは老いたもののそれだというのに、いつまで経っても子猫のような甘ったるさを忘れることはなく、常に家族全員を篭絡していた。まさしく猫撫で声でにゃんにゃんと戯れる24歳の兄などは若干気持ち悪くもあるのだが、家族喧嘩にのっそりと分け入っては皆の棘を抜いていく猫的テンポ感で家族の時間はゆるりと保たれていたのである。
ペットのカーストは家族一、とはよくいうものだが、我が家の場合、インテリアどころか壁の色や床の敷き込みのカーペットに至るまで完全にグレーと白を基調としており、そんな誂えたような空間でボテン、と寝そべる猫は象徴的なんとやら、を思わせる堂々としたたたずまいであった。
さて、そんな老人っぽい落ち着きを持ち合わせた猫だったので、はっきりと弱っていると感じるタイミングはあまりなかった。緩やかに近づいていくお別れの足音は聞こえていても、なんとなくそれはもう少し先のことのような気がしていた。
最近、体調を崩しているというのは知っていた。手術を受けることになったことも聞かされていた。最後に会った時はまさに手術の直前で、確かに記憶より一回り小さくなった猫に、暖かい命の輪郭が薄くなっている気配を見た。ああ、もうそんなに老いたんだなと驚く自分がいた。
手術のあと目覚めない可能性があると聞かされていたので、誰もいないときに、猫に、「ずうっと、ずっと、大好きだよ」と伝えてみる。
猫を飼い始めたちょうどそのころ、小学生の時に教科書で知ったこの言葉は、ちょっとわざとらしくても口にして伝えないといけないような気がしていた。確か、あの物語の主人公の少年は、愛犬にその言葉を伝えつづけたことでその喪失の悲しみを和らげることができていたのだ。
その物語を知ったときはまだ、この言葉を猫に伝えるのは想像の一枚外側くらいの先のことだと思っていたけれど、いま、その時が近づいてきたのだと感じた。
猫がうんとかすんとかいうわけはないので、なんとなく隙間を埋めるように、うちに来てくれてありがとう。とも言った。
そんな言葉を口に出してしまったら、なんだか突然、この先二度と会えなくなってしまうかもしれないという実感が迫ってきて、少しだけ目頭が痛んだ。腕の中のふわふわした白い猫を抱きなおしてみる。まだその言葉を音として空気に滑らせても、まるで用意されたセリフをつぶやいているようなクサさを感じるくらいには、目の前の温度はしっかりと温かかった。
手術はうまくいった。目覚めたと聞かされた時は嬉しかったし、これでまた、お別れの時期が遠くなったのだと嬉しかった。
でも、それはどうやら私の思い込みだった。
私は結局、最期の瞬間には間に合わなかった。
迎えにきてくれると言った兄に電話をした。京成スカイライナーにどうにか乗り込み、人の通らない廊下で兄と話した。泣くつもりはなかったのに、私の緩い涙腺は簡単に開いてしまった。兄によると、私が空港に着いた時点でもう猫は天国へと旅立ってしまっていたらしい。着く1時間前くらいだから、空ですれ違ってるよ、と電話越しの母は慰めの言葉をくれた。そうかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。呆然と電話を切った。
せめて温もりは感じられるくらいの時間でいてくれ、と成田から実家へと向かう電車の中で生き物の死後の体温の経過を調べる。もしかしたらと淡い期待を抱いて、急ぎようもない電車に急いでくれと念じていた。
迎えにきてくれた兄とはさっき電話越して泣いてしまっていたからか、案外冷静に話すことができた。気は逸っていたから何を話したかはあまり覚えていない。ただ、そうであってほしいと願ったほどには安らかな死に様ではなかったことを聞かされて、喉が詰まった。何か大事なものを逃したような気がした。
窓の外が親しんだ実家付近の景色に変わり、地球の反対側から考えればあまりにも長かった旅の果て、ようやく目的地へと到着した。たった数秒、変わらないけれど、と階段を駆け上がった。階段を上がりながら、実際に見たら私は何を考えるんだろう、どう反応するんだろう、と、感情に支配されているはずの頭の余白で冷静に考えていた。
「天ちゃん」と聞こえているはずもない名前を呼んだ。猫は、いつもの寝床にいた。まるで眠っているかのような、というありきたりな感想を抱いた。でも、体はひんやりと冷たかった。知らない冷たさだった。全然、想像と違って、妙な虚脱感があった。間に合わなかった、と、何回も何回も、京成スカイライナーと東海道線の中で頭を埋め尽くした言葉が浮かんだ。
あまりにも急すぎて感情が追いつかないことを予想していたけれど、思いの外涙はストンとこぼれ落ちる。でも、私の涙には悲しみよりも、生きていたことを実感する温もりすらも私の先を通っていってしまったことへの悔しさが多いようだった。言葉が出なかった。喉元が熱いもので締め付けられていた。ただ、もう生命を全く感じさせない力のない体と、記憶の何倍も薄くなった体は、頭より先に涙が出る理由にはなった。家族も泣いていた。数時間経って悲しみが少し落ち着いた彼らをまた振り出しに戻してしまって申し訳ないな、と、また冷静に脳の余白がつぶやいた。
少し落ち着いて話を聞くと、手術がうまくいって、これでまたもう少し時間ができたと楽天的に喜んでいたのは一緒に暮らしていない私だけだったらしい。もう手術をした時には手遅れで、ただ、少しだけ目の前の痛みを取り除くことはできたらしいと家族は語った。
そこまで知っていれば。というところまで頭を通り過ぎていった言葉は、だからといってどうしようもなかった、に変わった。キャンセルするには卒業旅行はあまりにも大事だった。キャンセルはせずとも、旅行前に、あの時よりもっと深い覚悟で最後の別れを言うために会いにいけたかもしれないけれど、そこまで重くのしかかった気持ちで旅行を楽しむことはできなかったかもしれない。
どう考えても、ああしていれば、の「ああ」は私にはなかった。仕方がない。多分これが、私に定められた猫との別れのかたちだった。ただ、納得と諦めとその場の感情は違くて、やっぱり間に合わなかったことだけは心から悔やまれた。
その日の夜は、まだ家族の誰も向き合いきれていないのか、ただ、彼らの日常に私というレアキャラクターが登場したせいか、猫の話題と、全く関係のない家族の話題とが混ざり合っていて、不恰好な団欒のようを呈していた。
また思った。申し訳ないな、と。
この時点で私は気づいていた。私が家族と共有できないこの申し訳なさが、猫を喪った悲しみと同じだけ、心の一番柔らかいところに出来てしまった膿のように、じくじくと痛みを与えているということに。それくらい、同じ温度で悲しむには私は少しだけ部外者だった。
私は、彼らがここ一週間不安と焦りと予感と悲しみとをないまぜにした気持ちで過ごしていたことを、想像こそすれ、体験していない。
兄は、悲しみに暮れながらも、ほんの少しだけ穏やかな表情で、「やっと寝れる」とこぼした。夜中に容体が急変することをおそれて、文字通り三日三晩寝られなかったという。みんなで看取れてよかった、と言った。母も、父も、同意していた。もう苦しい思いをしていなくてよかったよ、と言った。
彼らは一様に、大切なものを喪った痛烈な悲しみを、看取りという深い愛情でくるんだようにやわらかい顔をしていた。私は何にも立ち会えなかった。セリフを空気にこぼした以外の愛情を伝えきれなかった。間に合わなかった。悔しさでも、悲しさでもない。ただただ、罪悪感がジリジリとむき出しの私を焙っていた。
翌朝は朝から予定があった。旅行直後で仕方のない、移動させようのない予定だったから、仕方なく出かけた。無機質なビルで、紙に住所と名前をいつも通り書いて、番号札を受け取る。
モニターと札の番号を見比べて、何分かかるかな、と固いソファに座った瞬間に涙が出た。
予備動作のない涙だった。
愛猫が死んだ。死んでしまった。
もう二度と顎の下を触ってもゴロゴロというエンジンみたいな音を聞くことはできない。抱き上げて少し高い温度に温めてもらうことはできない。もちもちした肉球に触っても何の反応もない。あんなに白い毛がつくことを大騒ぎしていたのに、新しい毛が作り出されることはもうない。二度と会えない。
出会ってからの今までの、白くて灰色でふわふわしてのんびりしていた猫の姿がなんべんも思い出された。
悲しい。
もう一生涯、私の耳はあの掠れた声でにゃあとなく声を聞くことができない。たまらなく悲しくて、ぼたぼた遠慮なく涙が出てくる。こんなに悲しいのに私は、機械的に書類に名前を書くこともできるし、順番待ちに苛立つこともできる。コンビニで現金を下ろして、買い物をして、そのすべての段取りを冷静に頭で組み立てることができる。自分がどうしようもなく冷たい人間のように感じられて、その冷たさを押しほぐすようにぬるい涙が出たのだと思った。
同じ1日に、似たようなことが4.5べんほど起きた。
人波に沿って乗り換えをしている瞬間。予約時間を確認しようとカレンダーを開く瞬間。いつもの大学へ向かう電車。空間も時間も違えど、日常のエアポケットのような瞬間に、じわり、というよりぼたり、と涙が出た。日常に戻る自分を自覚すると、それを許せなくなって、申し訳なくなって、涙が出るのだと気がついた。偶に隣の席の人に奇異の目を向けられる。でも、大抵の場合、静かに涙していれば、誰も気にも止めないらしい。花粉症なんです、そういうことにしておいてくださいと心の中で唱えながら、所構わずボロボロと泣いていた。
長い1日が終わった。家に帰ってきたら、また今日1日で考えた色々なことが頭をよぎって涙が出てきた。でも、もう堪える必要も周りの目を気にする必要もないので、遠慮なく涙の流れるにまかせて泣いた。家族と一緒に泣いた時とは違う味の涙が、今日一日中ずっと出ていた。
要するに私は、家族の中でただ一人、最期も看取れず、一番辛い時に寄り添うこともできず、晩年を共に暮らせなかったことが猛烈に悲しかったのである。1日のすべきことを淡々とこなせてしまっている自分を客観視するたびに、心の余白が、そんな冷たい自分を詰っていた。
シミュレーションでの私は、猫の死が近づいたことを知らされてからは毎日実家にいて、せめて最期だけは、とそばにあろうとしていたし、もっと緩やかにお別れを受け入れて、家族全員で看取るその輪の中にいる自分を当然のように想像していた。
まさか現実には、地球の反対側に自分がいるとは到底思っていなかったし、なんとなく手術の成功を知らされたときから気が抜けていた。突然の訃報は、まさに、殴られるような衝撃だった。
突然だったこと、立ち会えなくて一人だけお別れの登場人物にはなれなかったこと。そんな悔しさや寂しさがないまぜになった感情だった。
ごめんね、ごめんねと、多分何度か呟いたと思う。
最期に一緒にいられなくてごめんね、一番辛い時にそばにいられなくてごめんね。老いていくあなたの最期のために、時間や、感情や、そういった色々なものをかけられなくてごめんね。ゆっくり寂しい気持ちに浸る時間を取れるまで忙しなくてごめんね、忘れていたわけじゃないよ。ほんとだよ。そんな言葉を、聞こえると信じて空に向かってつぶやいていた。
多分、家族で一番懐かれていなかった。あご髭をブラシがわりに使われる父や、作業中によくキーボードを床暖房のようにされる母。なぜか猫の寝場所は兄の部屋で固定されていたし、生まれた時から寄り添っている弟もいる。
私は、こと猫の寵愛という点においては最下位で、小さいころからかまいすぎて毎回少し鬱陶しそうにされていた。
でも、圧倒的に片思いでも、本当に好きだった。
あのね、本当に大好きで、うちの家に来てくれてありがとうって心から思っていたんだよ。自慢の猫だったんだよ。そんな言葉を、一度かけてはいたけれど、もっともっと最後の瞬間までかけてやりたかった。この感情は、家族には言えない、と思った。気を使わせてしまう。だから、尽きようもない後悔に一人で溺れた。
泣き疲れて眠り、夜の電車でまた実家に帰った。よく考えれば実家から東京の中高に通っていた時は、この大移動を毎日していたのだなあと思ったりした。
葬式の前夜は、そばで眠った。ほとんど寝付けなかったから、薄くなった背中を撫でながら、ありがとう、大好きだよ。と何回も語りかけた。
生きているうちはセリフめいていると思った言葉も、静まり返った部屋には小雨のように響いた。
愛しているとか生まれてきてくれてありがとうだとか、そんな常套句のような言葉が嫌いだった。陳腐な言葉で感情を量産的に切り分けるくらいなら、真摯な思いを胸に秘めて月でも見ていたほうがましだと思った。
だけどいまこの瞬間の私を救っているのは、陳腐だけど無理やり声に出した「ずうっとずっと、だいすきだよ」というあのセリフだった。何もかもが覚悟と想像通りにはいかなかった別れだったけれど、あのとき小恥ずかしいセリフをしっかり届けたシーンだけは、なくてはならないものだった。
葬儀はつつがなく行なわれた。私は火葬の前に、いつも撫でていた耳の横のいちばんふわふわとしている綿毛をもらった。もともと生きていないように眠る猫だったから、こんな生きていた時のような姿をしたまま火葬するのは嫌だった。でも、花のいっぱいに入った箱に猫を横たえて、最期の抱っこをした時の軋むような軽さがそこに魂がもういないことを教えていた。
さいごの最後、火葬の扉を閉めた瞬間だけは直視することができなかった。
骨を拾う作業については、私の中でもう空へと飛んで行った猫の足跡を始末するような現実感を伴わない行為だったので、あまり深くは描写しない。そう思わなければ、この骨が猫の一部だという事実を飲み込むことを拒まなければ、まだいくらでも泣いてしまいそうだった。
愛するものの死に向き合って分かったことがある。この手記を書き始めたのは猫が死んでしまった当日だったけれど、どれだけ感情をとらえてみようと試みてもあの日の私の、喉元と心臓が熱く炎症を起こすような悲しみを描写することは難しい。
言葉としてすくった時点でそれはもう加工されたものでしかない。
それでも私は、大好きだった猫との最後の思い出をしっかりと言葉に残すことを決めた。
生きている者が死んだもののことを思い出すと空には花が降るらしい。
そうであるならばきっと、この手記を開くたびに、猫の周りは鮮やかな悲しい色どりで染まるはずだ。
白と灰色の毛並みには、きっと映えるだろうと想像する。
2024年3月1日