【余命10年】

たった10年しかない、その光の中で息をするなら、わたしはどうしたって好きな人の隣がいい。

【あらすじ】
数万人に一人という不治の病で余命が10年であることを知った二十歳の茉莉。
彼女は生きることに執着しないよう、恋だけはしないと心に決めて生きていた。
そんなとき、同窓会で再会したのは、かつて同級生だった和人。別々の人生を歩んでいた二人は、この出会いをきっかけに急接近することに——。
もう会ってはいけないと思いながら、自らが病に侵されていることを隠して、どこにでもいる男女のように和人と楽しい時を重ねてしまう茉莉。 ——「これ以上カズくんといたら、死ぬのが怖くなる」。 
思い出の数が増えるたびに失われていく残された時間。二人が最後に選んだ道とは……?


久しぶりの、わたしが好きな、光や埃が綺麗な映画だった。
やわらかな光の中に溶け込む感情が、手に取るように形になる映画。
原作はあえて読まないで映画を見たけれど、内容としてはありきたり(ありきたり、だなんて言ってはいけないのだと想うけどれど)で、ラストはこうなるんじゃないか、というものが大体その通りに進んでいった。
でも、それでもぐっと来てしまうのは、ひとつひとつの所作が、どうしたってリアルだったからだと想う。

わたしは人の写真を撮るのが好きだ。
写真だけではなく、短くてもいいから動画を撮るのも好きで、友達や恋人と出かけると、少しでもその思い出をスマホや随分前から大事にしているコンデジのカメラで納めたくなる。
だから、茉莉がビデオカメラで動画を抑えているシーンがよく出てきたり、劇中も、ビデオカメラ越し、カメラのフィルム越しの「目線」のシーンが出てくるのが、自分ゴトしやすく、親近感が湧く。
誰かの笑顔を、画面いっぱいに埋められるその距離感のしあわせが、じわじわと伝わってくるあの感じ。
時間も、命も有限であるからこそ、何度も何度も同じ景色が見れるわけではないからこそ、何度も咀嚼して反芻するために閉じ込めておきたくなる。

茉莉の机の上にある花も、季節やシーンによって花の種類が変わっていたのもよかった。その都度の花を飾っているのが、日々の時間の流れを教えてくれる。
緩やかに伸びていく茉莉の髪の毛、変わって、どんどん精悍な顔つきになる和人。
同じ歩幅で、同じ時間を過ごしていることが、二人の見た目にも出ている、その穏やかな表現がとても好きだった。

一番好きなシーンは、自宅の洗面所で、茉莉が自分の胸元の傷を抑えて涙を流すシーンだ。
そこには普段見えない、茉莉の抱える「現実」が痕になって残っていて、きっとそれを、和人に見せることだって躊躇うんだろう、恋人が恋人として、裸で抱き合うような、そんなしあわせな時間さえ、その痕がくいとめているんじゃないか、なんて想ってしまう。


10年を長いか短いかを自分に問いたとき、わたしは短いと想った。
いままでの人生を振り返っても、10年は短い。
たった10年じゃ心の傷は癒えなかったし、10年間の間に「しておきたかった」ことはまだ残っている。
「あれはもう3年前?」と想うと、日々は目まぐるしく過ぎ去っていて、「もう10年たったの?」と、振り返るには短い年月だ。
だから茉莉のことを思えば、「どうして茉莉の余命は10年しかないのか」と、彼女のこれからを憂うことが正解なんだろう。
でも、わたしには、明日何があるか分からない。交通事故で死んでしまう可能性だってあるし、誰かに襲われて殺されてしまう可能性だってある。
持病が悪化して、そこから死んでしまう可能性だって、可能性の話をしてしまえば、わたしはあとどのくらい生きていけるか分からない。
だから、茉莉はその10年という短い年月で、それでも和人と出会えたこと。生きた証が、著書で、お店として、目に見えるように残ること。
そこには関わってきた人の愛情が、想いが、これでもかというくらい詰まっていること。
そのすべてが、うらやましいとさえ想った。
一緒にいる未来がなくても、ほんの少しで終わってしまっても、それでも、この人といるのが苦しいと、この人のしあわせを奪うことなんてできないと、心の底から想えること。
「これ以上カズくんといたら、死ぬのが怖くなる」
そんな人に出会えることがなんてしあわせなんだろう、と。

春のあたたかな日、この映画を一緒に観て、「あなたといたら、死ぬのが怖くなる」なんて伝えられる日を夢見て。

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