【ひみつのなっちゃん。】
いつだって私達は、自分の為のショーをし続けている。
【あらすじ】
ある夏の夜、なっちゃんが死んだ。
つまらない冗談を言っては「笑いなさいよ!」と一人でツッコミを入れていたなっちゃんは、新宿二丁目で食事処を営むママ。その店で働くモリリンはドラァグクイーン仲間のバージンとズブ子を呼び出す。
彼らがまず考えたのはなっちゃんが家族にオネエであることをカミングアウトしていなかったこと。
証拠を隠すためなっちゃんの自宅に侵入した3人は、なっちゃんの母・恵子と出くわしてしまう。
何とかその場を取り繕った彼らだが、恵子から岐阜県郡上市の実家で行われる
葬儀に誘われてしまい、なっちゃんの“ひみつ”を隠し通すため”普通のおじさん”に扮し、一路郡上八幡へ向かうことになる……。
ポスターの煌びやかさとは反対に、とても『地味』な映画だった。
馬鹿にしているわけではなくて、本当に想像しているよりもずっと質素な、地味な、たった一人の死を大切に、大切に切り取った映画だった。
滝藤さんの演技が好きなので、今回も見事に「バージン」を演じきっていて、指先までしっかりと神経の通った体つきや演技が美しい。その美しさが、さらにこの映画を女性的に優しく包み込んでくれているような気がする。
この映画にはきっと、ドラァグクイーンであったり、LGBTQ +であったりに対してのメッセージもふんだんに含まれていたのだと思うのだけど、それよりずっと、「人が死ぬこと」「生きること」についてをシンプルに描いている映画だったと思う。
私はずっと前から、「棺桶プレイリスト」というものを作っている。
常々私は親や姉弟、なんなら祖母よりも早く死にたい(厳密には私よりもずっとずっと長生きしてほしい)と思っていて、私が死んだらお葬式で流してもらう為の曲を集めたプレイリストになっている。
お葬式はいつも悲しめの音楽が流れていて、でも故人がその曲を好きだったなんて話は聞いたことがないし、私のお葬式では、私が好きだった音楽を流して、各々が好きな服を着て、できれば菊の花ではなくて、菜の花を飾って欲しいと言い続けている。最後の最後はできれば、好きなものをで囲んで欲しいというわがまま。
この映画もそれに似たものがあって、なっちゃんが死んだ後、どうやって見送られたいのか、ということを、それぞれが考えて、尊重して、その為に奔走している。
オネエであることを家族に隠していたなっちゃんの為に、その秘密を隠そうとしたり、隠しながらも、なっちゃんの最後のショー(お葬式)を見届けようとしたり、実は……という、その最後の最後まで、それぞれがなっちゃんの為に、たった一人の生き方と死の為に、ずっと走り続けている。
コミカルな演出もあれば、葛藤もあれば、それでもただ、どこまで行っても、たった一人の人の人生に対して関わってきた人達の、なんてことない物語だった。
一番好きなシーンがあった。
途中、モリリンのふとしたカミングアウトに対して、バージンが「ごめんね、なんて言えばいいかわからない」(※はっきりと覚えていなくて本当にすみません、ニュアンスです)と言っていて、その言葉がとてもいいな、と思った。
オネエであることの悩み、ドラァグクイーンであることの葛藤、LGBTQ +であることの苦しみ……そういったものに対して、それぞれ答えを出している映画や作品、シーンは多いと思う。
そんな中で、「ごめんね」と、何か答えを出すわけではなく、ただその言葉を受け入れるバージンがとても美しかった。
オネエやドラァグクイーンではなくとも、人にはそれぞれの悩みや秘密があると思う。
それに対して、ただ優しく微笑んで「ごめんね」「なんて言えばいいのかわからない」と、どうあるべき、という答えではなくて、無理に言葉を探して答えるわけではないことこそが、とても美しい答えだな、と思って涙が溢れた。
物語の中で、バージン自身もどうしていいのかわからない渦の中でずっと模索しているような表現のシーンが何度か出てくる。
そんなバージンの言葉だったからこそ、響くものがあった優しいシーンだった。
クスッと笑えて、自分もいつか死ぬその時、秘密を守ってくれるような誰かに出会えるように、自分らしく美しくいようと思える映画でした。
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