【流浪の月】
あの頃のわたしも、たしかに、もう子どもじゃなかった。
【あらすじ】
〈女児誘拐事件〉ふたりしか知らない、あの夏の〈真実〉。
帰れない事情を抱えた少女・更紗(さらさ)と、彼女を家に招き入れた孤独な大学生・文(ふみ)。
居場所を見つけた幸せを噛みしめたその夏の終わり、文は「誘拐犯」、更紗は「被害女児」となった。
15年後。偶然の再会を遂げたふたり。それぞれの隣には現在の恋人、亮と谷がいた。
この映画を見終わった後、わたしが「性」を意識したのはいつからだろう、と回顧した。
でも、それは同年代の中でも早かった気がする。
元々体付きも早熟で、小学三年生の春休み、四月から四年生になるタイミングで、はじめて初潮がきた。
年齢としてはかなり早かったし、そのタイミングで母や保健室の先生にそういったことを教えられた。
胸が大きくなるのも早かった。小学五年生になったころには、大人と同じような下着を身に着けていて、それが同級生に見られてしまったとき、「あの子、あれで男子の気を引いてる」と言われたことがある。
ああそうか、これは気を引いていることになるのか、と、何故か反省したことも覚えている。
小学生の時、無意味に抱きしめてくる異性の「大人」が怖かったのも、未だに覚えている。それが、親愛の意味であれ、他の意味があれ、だ。
中学三年生のときにはそれこそ誘拐のようなことに巻き込まれそうになったり、高校生の時に勤めていたアルバイト先では、そこに野菜や果物を卸していた業者の人からくる毎日の連絡と電話に怯えていたこともある。
子ども、という年齢が成人になる20歳までであるならば、わたしは子どもながらに、何が性的か、ということを理解していたと想うし、でもそれと同様に、それが「親愛」なのか、そこから「性愛」も混ざってもいいものなのか、そもそもただの「性癖」なのか、というのは、それなりに判断していたように想う。
そしてその頃に言われた言葉だって、そういったことを抜きにしても、ちゃんと分かってた。
この映画を、いま独身のわたしが観るのと、もしこれから先結婚して、親になったときに観るのでは、だいぶ印象が違うのかもしれない。
あくまでもいまのわたしにとって、文は文でしかない。
この映画を「ロリコン」だとか「性欲」だとかを絡めてみるのか、そうではなくて、「人は自分の都合のよいようにしか解釈しない」人間たちの話だと想って観るのかで、感想は大きく変わってくるのだと想う。
上記で性についても書いたけれど、言いたかったのはそういったことではなくて、子どもは馬鹿じゃないということ。
大人が想うよりも子どもはしっかりしていて、ちゃんと何が自分にとって安心する場所なのか、怖くない人なのかを見る目をある程度持っている。
身を守る術、例えば体格だとか、知識だとかは大人より劣る部分もあるんだろう。
それでも、「この人なんか嫌だ」というアンテナはちゃんと持っていて、その分「この人と一緒にいたい」という意思だってある。
文と更紗が過ごした日々の中に、そういったこと、例えば一見してみると性愛とされてしまうようなことが全く本当になかったかなんて、二時間と少しの映画では分からない。
あくまでも物語の中の切り取られた部分では、一緒に横並びで夕飯にアイスを食べる背徳感の共有も、寝転びながら食べるピザの味も、しょっぱいほどかけるトマトケチャップの鮮やかさも、それはすべて愛おしい。
更紗を傷つけるものは、あくまでも外界にあることを誰も知らない。
文が「悪」で、更紗が「可哀想」である都合のよさを、世間は求めてる。
その横で、そういった所謂「可哀想」な女性を求める亮や、自分の子どもを置いて旅行に行ったまま帰ってこない佳菜子も、社会的イメージを守る会社も、面白おかしく当人に心配しているふりをして近づく第三者も、全員辟易としてしまう。
どうしてそういった人達は、自分が歪んでいないと、真っ当だと、「可哀想じゃない」という顔をしていられるんだろう。
少し内容は違えど、わたしもいまネット上にある某掲示板(人の悪口が書き散らかされているもの)に、配信アプリで活動している名前でのスレッドが上がっている。
見た目のことをブス、デブと刺され、気持ち悪い、男に媚びている(それってわたしの恋愛対象が男だけだと、勝手に決めつけているからなんだろうな、と想う、なんて視野が狭いんだろう)だとか、とにかくほぼ毎日のように悪口が書き込まれていく。
それを信じてしまう人も一定数いるんだろうな、ということも容易に想像ができる。
別に、書いている人がわたしの声や見た目が嫌いでも、それでも全く問題はない。
人には好みがあって、それにそぐわないなんてこと往々にしてあるからだ。
それでも、「あいつは○○と付き合っている」だとか、「○○と旅行に行った」だとか、嘘でしかない情報を書き込まれ続けるのだ。
「都合のいいことしか見ない」「信じない」ことは、こうしていつも世の中のあちらこちらに巻き散らかされていて、こんな一般の、どうでもいいくらいちっぽけな存在のわたしなんかのありもしない噂を、それこそ自分が想うがまま、何が真実なのかなんて関係なく、言いふらす人がいるのだ。
文と更紗は顔も、いまの生活も、事件が終わった「今」も、半永久的に残るデジタルタトゥーをずっと残されている。
その重大さを、世間は「だっておかしいから」と、自分の物差しでしか図れない価値観でかき消している。
文がしたことを許せるか、許せないのか、ということを考えた。
きっと、今の自分に子どもがいたら違う感情も出てきたのだと想うし、そうじゃなくても、結果だけを見れば文も更紗も考えが安直すぎるし、危機感がないなと想う。
それでも、10歳の更紗にとって、10歳であっても、なかったとしても、ひとりの女性として、夜になって自分の体に悪戯してくる人がいる、それこそ性犯罪を犯す人が近くにいることが、どれだけ怖いことだろう。
わたしはそういった性犯罪に何度かあったこともあるからこそ、あくまでも主観としては、文の存在が、10歳の更紗にあってよかったとどうしても想ってしまう。
想うけれど、どこかで「でもそれは文だったからたまたま助かった」と想ってしまう自分がいるのも本当なのだ。
この映画を、「善」と「悪」だけで割り切ることはどうしたってできない。
透明度の高い湖が揺れる。
水面の光や揺蕩う波が、文と更紗を包んで沈めていく。
覗き込めば底まで見えてしまいそうなその透明さが、どうして世間にはないのだろう。
「真実」と「事実」の違いを、アンコンシャスバイアスを取り除いた目で、どうして見ることができないんだろう。
文が、更紗の手を離さなかったんじゃない。更紗が、離さなかった。
何も言わない文に、何度も何度も名前を呼んで手を伸ばした更紗。
どうして、なんで、どちらかを「悪」としなきゃいけないのか。
何度も何度も喉元まで溢れて、苦しくなる。
タイトルの『流浪の月』を想像する。
流浪とはさまようこと、さすらうこと、それはきっと、この先も漂い続ける文と更紗で、暗い夜を、暗い道を、どれだけ歩いてもついてきてくれる、目印になってくれているような月が、文と更紗にとってお互いであるのであれば、どうかそんな月がよく見える夜が多くあるといい。
劇中に出てくる月が確かすべて三日月だったのは、完全体ではない二人のことを指しているのかなと想うと、そんな二人だからこそ、きっとこれからも「満たない」からこそ一緒にいられる毎日がそこにはあるんだと、…あってほしいと想えた。
子どもはそんなに馬鹿じゃない。
だから、10歳の更紗が選んだこの人生は、間違ってない。
間違ってないんだよと、天気のよい休日、風でカーテンが揺れるその下で、文が更紗に、更紗が文に、囁いてくれますように。
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