【すばらしき世界】

いつ、どのシーンで泣いたのか覚えていない。
いつの間にか涙が滲んで、スクリーンが揺れていた。
どうしたって凶暴で、どうしたって優しい映画だ、とても。

【あらすじ】
冬の旭川刑務所でひとりの受刑者が刑期を終えた。
刑務官に見送られてバスに乗ったその男、三上正夫(役所広司)は上京し、身元引受人の弁護士、庄司(橋爪功)とその妻、敦子(梶芽衣子)に迎えられる。
その頃、テレビの制作会社を辞めたばかりで小説家を志す青年、津乃田(仲野太賀)のもとに、やり手のTVプロデューサー、吉澤(長澤まさみ)から仕事の依頼が届いていた。取材対象は三上。吉澤は前科者の三上が心を入れ替えて社会に復帰し、生き別れた母親と涙ながらに再会するというストーリーを思い描き、感動のドキュメンタリー番組に仕立てたいと考えていた。生活が苦しい津乃田はその依頼を請け負う。しかし、この取材には大きな問題があった。
三上はまぎれもない“元殺人犯”なのだ。津乃田は表紙に“身分帳”と書かれたノートに目を通した。身分帳とは、刑務所の受刑者の経歴を事細かに記した個人台帳のようなもの。三上が自分の身分帳を書き写したそのノートには、彼の生い立ちや犯罪歴などが几帳面な文字でびっしりと綴られていた。人生の大半を刑務所で過ごしてきた三上の壮絶な過去に、津乃田は嫌な寒気を覚えた。
後日、津乃田は三上のもとへと訪れる。戦々恐々としていた津乃田だったのだが、元殺人犯らしからぬ人懐こい笑みを浮かべる三上に温かく迎え入れられたことに戸惑いながらも、取材依頼を打診する。三上は取材を受ける代わりに、人捜しの番組で消息不明の母親を見つけてもらうことを望んでいた。
下町のおんぼろアパートの2階角部屋で、今度こそカタギになると胸に誓った三上の新生活がスタートした。ところが職探しはままならず、ケースワーカーの井口(北村有起哉)や津乃田の助言を受けた三上は、運転手になろうと思い立つ。しかし、服役中に失効した免許証をゼロから取り直さなくてはならないと女性警察官からすげなく告げられ、激高して声を荒げてしまう。
さらにスーパーマーケットへ買い出しに出かけた三上は、店長の松本(六角精児)から万引きの疑いをかけられ、またも怒りの感情を制御できない悪癖が頭をもたげる。ただ、三上の人間味にもほのかに気付いた松本は一転して、車の免許を取れば仕事を紹介すると三上の背中を押す。やる気満々で教習所に通い始める三上だったが、その運転ぶりは指導教官が呆れるほど荒っぽいものだった。
その夜、津乃田と吉澤が三上を焼き肉屋へ連れ出す。教習所に通い続ける金もないと嘆く三上に、吉澤が番組の意義を説く。「三上さんが壁にぶつかったり、トラップにかかりながらも更生していく姿を全国放送で流したら、視聴者には新鮮な発見や感動があると思うんです。社会のレールから外れた人が、今ほど生きづらい世の中はないから」。その帰り道、衝撃的な事件が起こる・・・。



旭川刑務所の外は、真っ白な雪が積もる。
真っ白な世界を、血に染まった過去を持つ、三上が歩いている。
そういえば、悪を黒、正義を白、という表現をすることがあるが、相手を冷淡な目つき、悪意のある目でみることを「白い目で見る」というので、
正義も時に人を突き放すことある、という皮肉なのかな、なんて、バスの中の三上の横顔を見ながら想っていた。

殺人犯であった三上がカタギに戻ろうとすジレンマは、いつもヒリヒリしている。
彼はとても子どもで、ある種とても純粋なのだと想う。
小さい子どもが必死に言い訳を並べるように、彼は自分の意見を押し通すし、もういい!と背を向ける。
許せないことがあれば許せないと激高するのも、人から受け取る愛情や優しさに微笑む姿も、すべて彼が純粋が故なのだろう、と想うのだ。
だからと言って、人を殺していいわけでも、殴りつけていいわけでも、大声で怒鳴ってもいい理由にはならない。
私たちはある一定の「倫理」や「道徳」や、「常識」の上で生活をしている。
彼はその中にどうしても混ざりたいと努力しながら、混ざるための手段として、どうしたって殴りつけてしまうのだ。

最近の世の中は「個性」であったり、「特別」であることがフィーチャーされているように感じる。
個々の能力は上がり、それこそYouTuberはその一環であると想う。
「普通」はいつしかつまらないものになり、みんなが「特別」になろうとする、そして、なる術を知っているこの世界に、彼はあまりにも「普通」を望んでいた。
それはとても新鮮な色を帯びて、私の脳内を震わせるには十分だった。

私はごく普通の家庭に産まれ、ごく普通に生きて、ごく普通に学生時代を過ごし、ごく普通に社会人として、女性として、生きている。
何か人よりも秀でた特徴なんてないし、それなりにうまく世間と折り合いをつけて息をしていると想っている。
勿論、他人からすればどこか特別であったり、あなたはここが秀でているよ、なんてところもあるかもしれないが、
やっぱりそれでもわたしはこの世界の「普通」なのだと想う、大多数の、大勢の。
(ここでいう普通が何か、という話は一旦置いてほしい)
そんな私だって、できることなら特別になりたい時期も確かにあったのだ。
それこそとある魔法少女に憧れもしたし、何か特殊な脳力が開花して、世界を驚かせることができるかもしれない、
もしくは天変地異が起きて、朝起きたら絶世の美少女になれていたらな、なんて淡い希望を抱いて眠った日もある。
…でもそれに相反して、私は平凡な日々を、それこそ適度に傷つきながら、次の日には笑いながら、日々を過ごしてここまできた。
いまだってどこかで、「私にも”何か”があればいいのになあ」なんて、非現実な妄想を膨らませながら。

そんな私が日々生きている平凡な生活を、三上は過ごしたがっていた。
それはとても鮮やかで、生命力が必要なことなのだと、見せつけられた。
三上が犯罪者だから、というわけではなく、それはもう「ひとりの人間として生きていくためには」必要なそれらが、この世にはあまりにも多い。
他人と”うまく”生きていくこと、それは何かを選択する必要もあるけれど、我慢が必要なこと、
資格や、自分を証明する為の経歴や過去、お金、仕事…、当たり前のことでいえば、食事もそうだと想う。
「普通に生きていく」のだって、それはとてもカロリーのいる、そして大変なことなんだと、改めて気づかされる。

犯罪者が刑務所から出て生活することがどれほど大変なことなのか、あくまでも想像でしかないのでわからない。
三上に関していえば、それでも、まだ周囲に恵まれているように感じてしまうが、実際のところはどうなのだろう。
生活保護を受けることができて、身元引受人がいて、一度は疑ってしまったものの、信じて、自分の味方になってくれる人がいて、自分の為に母親を探してくれる人がいて…。
その時点で彼だって「特別」だと感じてしまうのは、やっぱり私が普通だからなんだろう。


ただ、所謂「普通である」「社会とうまく生きる」、ということが「他人を卑下したり、馬鹿にする」ということだというのも、この映画は嘘偽りなく伝えていた。
ある介護施設の障害のある職員を、健常者である同僚たちが馬鹿にする。
健常者の彼らは暖かい部屋で、椅子に座りながら、談笑交じりに人を蔑む。
それに対して「ふざけるな」と声に出して怒鳴ることもできるけれど、それをしてしまったら、恐らくそのコミュニティでの「普通」を失うのだ。
そこでは「そうですね」とにこやかに一緒に笑うことが「普通」であり、三上はそれを選択した時点で、ようやく望んでいた「普通」を手に入れたのだ。
障害を持つ職員の、純粋無垢な笑顔も、暖かさも、優しさも、全て見て見ぬ振りをして選択した「普通」は、三上の望んだ「普通」なのだ。
それがどれだけ心を抉られようとも。
そしてそれを仕方ないのかもしれない、と想ってしまう私も、やはりとても汚くて、残酷で、どうしたって「普通」なのだ。

映画館からの帰り道。三上が最後に手に握りしめていたコスモスの花言葉を調べた。
色ごとに花言葉が違っているものの、花言葉の中のひとつが「純潔」なのだと知る。
私が三上に感じていた「純粋」さは、そうか、コスモスの「純潔」に近いのかもしれない。
一度は失ってしまった純粋さや純潔を、最後は握り締めて取り返した三上に、どうか最後は子どもたちと夕日に照らされていたあの日の画が浮かんでいますようにと、願わずにはいられなかった。

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